辰蔵人情裁き
辰蔵の額が巨漢の鼻に激突した。
強靭な背筋の力で弓のようにのけ反り、思い切り頭突きを食らわせたのだ。
巨漢は数歩後ずさったところで、ぱたりと仰向けに倒れた。
今日で言う脳震盪であろう。
鼻が無残につぶれている。
さらに辰蔵は振り向きざまに力任せに木刀を振るった。
辰蔵の背中に得物を叩きつけた男が吹き飛ばされ、他の男二人を巻き込んで倒れた。
倒れた男は意識はあったが立ち上がることができなかった。
怪我をしたからではない。
恐怖からである。
辰蔵の額からは巨漢の鼻血が滴り、顎まで紅に染まっていた。
目は血走り、その目で周囲を睨み付ける。
まさに悪鬼羅刹の如し。
冬吉の口元がにやりと歪んだ。
辰蔵は腕の良い剣術家で、謙虚な性格もあって、実に気持ちの良い若者ではある。
だが、この男は、天下の火付盗賊改方頭、長谷川平蔵の嫡男なのである。
番方(武官)の跡取り息子が、人当たりの良さだけで務まるはずがない。
女のことでは随分ぐずぐずなのはおいても、荒事の中に身を置いても心配ない程度には豪胆であらねばならない。
どういう経緯でこんな性格になったのかは皆目わからないが、父親の平蔵は元は本所の喧嘩自慢。
辰蔵も心中に鬼を宿していないわけがない。
なら、その鬼が目覚めるぐらいまで、辰蔵を追い詰めてみよう。
それがこの人の悪い男、冬吉の考えたことであった。
鬼神と化した辰蔵は木刀を振るい、破落戸たちを次々と跳ね飛ばしていった。
さすがに、殺してしまうような打ち方はしていないが、片っ端から腕や足の骨は折っていることだろう。
これでいいのである。
己の中の鬼を自覚すること、時にその鬼を押さえ込み、時にそれを解き放つ。
己が鬼を自由自在に使いこなす、それができてこそ『侍』と言えよう。
五十はいたと思われる黒羽根一家が既に半壊していた。
騒ぎを聞きつけて出て来た親分が、隅の方で震えている。
黒羽根一家の親分、八郎兵衛は冷静な判断で今回の討ち入りを決断したのではなかった。
それにしても、たった二人に一家丸ごと総崩れにされるとは、信じられない。
香具師の組に集まってくるのは、血縁、地縁のコミュニティからはじき出された、はぐれ者達である。
政府による公的な保護のほとんどない時代、こうしたコミュニティからはじき出されると言うことは、安定した生活を送るためには極めて不利であった。
よって、こうした香具師の組などの非合法組織は、アウトロー達の相互扶助を担うと言う面がある。
そうであれば、当然頼りになると思う組の方に人は集まる。
たった二人の男に壊滅させられた親分の元になど、人が集まるはずがない。
「さて、そろそろ、こちらの口上をお聞きいただきたい」
冬吉は木刀を八郎兵衛の喉元に突きつけながらそういった。
話を聞いていただきたいもなにも、門を開けたところからやりたい放題に暴れまくっていたのは冬吉の方である。
本来暴力で無理を押し通すのが黒羽根組のやり方である。
それを逆にここまでやられてしまっては、何も言えない。
「昨日、この一家の者に参道で恥を欠かせたのは私です。雨徳の者はそちらに一方的にやられていただけ。雨徳一家への意趣返しは思い止まっていただきたい」
思いとどまるも何もない。
すでに大半の子分は怪我を負って使い物にならない。
雨徳一家への討ち入りなど不可能であった。
それどころか、黒羽根の八郎兵衛は頼りにならない親分として浅草中に知れ渡ってしまい、人は集まらなくなってしまうし、今いる子分にも見捨てられてしまうだろう。
「ここで思いとどまってもらえるなら、恥をかいた者には、頭を下げるし、ここで起こったことを誰かに話すつもりもありません。一家総崩れの恥を晒すよりも、その方が良いと思いませんか」
丁寧な口調で無茶苦茶なことを言う。
だが、その無茶を糾弾することはできない。
力が全ての世界で生きている自分たちが、力技で完敗しているのだ。
八郎兵衛は何も言えず、ただ、カクカクとうなずいて見せた。
「冬吉さん、随分と派手に暴れましたね」
こんなところで聞くはずのない声が聞こえた。
お夏である。
「お、お夏さん、なんでここに」
疑問を口にしたのは辰蔵である。
荒くれ者の集団が何人も血を流し、倒れている中に入ってくるお夏は良い度胸である。
大暴れしてたのは冬吉だけでなく、辰蔵もなのだが、もう怒りも鎮まり、冷静になっていた。
「さて、黒羽根の親分さんですね。息子さんの藤七郎さんがお呼びです」
「と、藤七郎が?」
きょとんとしている八郎兵衛に、お夏は微笑を浮かべて続けた。
「藤七郎さんは、別に雨徳一家に居るわけではありませんよ。お絹さんと一緒に、隠れていただけです」
冬吉にもお夏が何をいっているのかわけがわからなかったが、八郎兵衛の顔色が変わった。
冬吉、辰蔵に加えて八郎兵衛はお夏に連れられ、杉屋まで歩いていた。
すでに夕刻、暗くなった道すがら、お夏はことの次第を説明した。
雨徳の親分、弥四郎の娘お絹が駆落をした相手は、もちろん辰蔵ではなく、黒羽根の八郎兵衛の倅、藤七郎であったのだ。
藤七郎は武闘派の組の跡取りとしては意外にも、文筆の才があり、文吾堂の物書きの集まりにも出入りをしていた。
そこで、お絹と知り合い恋仲となったのである。
しかし、父親に許しを乞うても一緒になることなどできそうにない二人である。
二人は物書きの仲間達にそのことを相談した。
物書きの半分はお里がそうであるように、源氏物語などの恋物語や恋文の文章が好きな女性達である。
現代の我々であれば、ロミオとジュリエットを想起しそうな、二人のロマンスにはしゃぐのも無理はない。
彼女達は協力して、駆落の段取りを行い、二人の住まいから生活の手段まで万事整えた。
文筆を好む者の中には裕福な者が多く、金銭面でも二人を手助けしたのである。
物書き達が思い至っていなかったのは二つ、娘や息子を失った父親達の気持ちと、香具師の組の組織力である。
失踪から二日目には、二人が身を隠していた深川にまで、雨徳一家の手の物が探しにきていた。
そこで、捜索を打ち切らせるための手段として、雨徳の弥四郎が尊敬する長谷川平蔵の息子と駆け落ちしたなどと言う、出鱈目を広めたのである。
この策略を発案したのはお絹自身であったようで、これについては、お夏が結構きついお灸を据えた。
黒羽根組の方は男であるから、数日姿を隠したぐらいでは騒ぎはしないと思われたのだが、黒羽根の八郎兵衛は元々藤七郎が物書きにのめりこむことを良くは思っておらず、探りを入れることで、お絹との付き合いに気づいていたのだ。
お絹を恋するあまり、藤七郎が雨徳一家に走ったのではないかと言う疑いから、黒羽根の八郎兵衛は縄張り荒らしなど嫌がらせを始め、ついには討ち入りに踏み切ろうとしたのである。
二人がそれぞれの家から姿を消したのが十日前。
文吾堂が懇意にしている深川の廻船問屋に匿われ、いずれは江戸を離れて大阪で商売を始める手筈であった。
大阪にまで逃げてしまえば、大規模な香具師の組と言えどもそうそう探すことはできない。
「とは言いましても、お二人ともお若いですし、わかってないことも多かったんですね。親の心子知らず。自分たちの親がどんな思いで、何をしでかすのかには思い至ってなかったし、浅草をまとめる香具師の組が揉めると、多くの人々の迷惑になることにも気付いてなかったようです」
若い、というがお絹も藤七郎もお夏よりは年上である。
しかし、接客の経験ですっかり世にスレ切っているお夏からすれば、世間知らずの若者に見えてしまうと言うことであろう。
「この野郎っ! うちの娘を拐って嫁にしようとは、てめぇは倅をどう育てやがったんだっ!」
「なんだとっ! お前の娘がうちのを誘ったんだろうがっ! 外面だけよくしやがってっ!」
杉屋には、お絹と藤七郎の他、お絹の父親、弥四郎も呼ばれていた。
弥四郎と八郎兵衛は目があった瞬間から口論を始めてしまった。
お絹と藤七郎は、こうなることはわかっていたと言わんばかりに、顔を見合わせて大きなため息をついた。
お絹も藤七郎もこれが嫌で、何も言わずにいきなり駆落などと言う行動に出たのである。
藤七郎は香具師の元締めという家業を嫌っていた。
特に、黒羽根組の場合は、気の荒い連中が集まっているせいもあって、どうしても商売がアコギになりがちである。
実際のところは、雨徳組がしっかりしているが故、素行の極端に悪い連中はそこからはみ出してしまい、それを黒羽根組が拾って大きくなったと言う面がある。
故に八郎兵衛にも言い分はあるのだが、息子から見て継ぎたい家業じゃないのも無理はない。
藤七郎は書物に埋もれる生活を選び、お絹と出会った。
境遇も趣味も合う二人が惹かれ合うには、時はかからなかった。
「倅の躾もできてねぇようなのが元締めなんぞやってるから、嫌われもんの組になるんだっ!」
「なんだとっ!」
勢い余って弥四郎が吐いた言葉に八郎兵衛がキレた。
掴み合いの喧嘩が始まってしまう。
「だまらんかっ!」
叫んだのは意外なことに辰蔵である。
あまりの迫力に二人は恐る恐る辰蔵の方を向くと、太刀が抜き放たれ、自分たちの方に向いていた。
弥四郎も八郎兵衛も、暴力の世界に生きる男である。
真っ当な商売をしている弥四郎と言えど、無宿を束ねるヤクザ家業には変わりはない。
その辺の浪人だのがイキって刀を抜いたところで、恐れるようなことはない。
だが、辰蔵の迫力は圧倒的であった。
『切捨御免』『無礼打ち』
武士に与えられた特権である。
明らかに武士に対して無礼なことを働いたなら、斬られても文句は言えないのだ。
「この長谷川辰蔵のあらぬ噂を流し、恥を欠かせた者が何を言い争っているっ!」
「い、いや、噂を流したのは、雨徳の娘の方で……」
おずおずと八郎兵衛は言ったが、切先は喉元に向けられ、睨みつけられると二の句は継げなかった。
「貴様の倅は関係ないとでもいうのかっ! 貴様の組の者には、抱きつかれた上に後ろから殴られもしたぞっ!」
噂については確かにそうなのだが、暴力についてはまずは辰蔵が冬吉とともに組に殴り込んできたからである。
とは言え、武士を後ろから殴りつけたというだけでも、無礼ということにはなろう。
そして、江戸の世にあっては子の罪は親に及ぶし、子分の罪も親分に及ぶ。
頭に血が上って二人とも忘れていたが、まずは、無関係であるにもかかわらず迷惑をかけた辰蔵に、頭を下げるべきであったのだ。
「この落とし前、いかにつけてくれようぞっ!」
先ほどの悪鬼羅刹の顔で言う。
額の血はすでに拭き取っているが、血走った目は同じである。
「ひ、ひぃ、ど、どうか……ひらに、ひらにご容赦」
「うちの組は既に総崩れ、この上どう詫びれば……」
哀れな声を出す二人を見て、辰蔵は厳かに宣告した。
「両人とも隠居せよ」
「へ?」
何を言われたのか、二人とも最初はわからなかった。
「貴様らに浅草の門前を任せてはおけぬっ!」
悪鬼羅刹の顔のままこう言われては、反論のしようもない。
とは言え、できることとできないことというのがある。
「し、しかし、誰かに跡目を継がせねばなりませぬ。安心して任される者など……」
「う、うちは今日のことで総崩れ。立て直しを図れるぐらいしっかりしたやつでねぇと、組ごと消えてしまいやす」
恐る恐ると言ったていで弁解する二人に、急に表情を緩めて辰蔵は答えた。
「そこにいるではないか。今回の仕掛けと度胸。お絹は立派に組をまとめられるだろう。藤七郎は香具師の仕事を嫌っていると言うが、私に恥を欠かせた罰だ。黒羽根組が半壊して消えて無くなりそうと言うなら、雨徳組と一緒にしてしまえば良い」
お絹と藤七郎が顔を見合わせた。
ついで、辰蔵の方を向いて、そろって平伏する。
続いて、弥四郎と八郎兵衛も平伏した。
結局、話は辰蔵の言う通りに収まった。
浅草を仕切る二つの組の大合併である。
まさか、冬吉と辰蔵が黒羽根組に殴り込みをかけた結果が、お絹と藤七郎が一緒になることに役立つとは、お夏でさえ思い至ってはいなかった。
しかし、辰蔵の裁定は見事なもの、まさしく天下の火頭改頭、長谷川平蔵の嫡男である。
帰り道、お夏が珍しく辰蔵に声をかけた。
「見事な口上でしたけど、雪枝さんにもあれぐらいはっきり物を言えるようになると、うちのお店は助かるんですけどね」
お夏の言葉に、辰蔵は顔を赤くして首を竦めた。
冬吉は苦笑いをしながら二人とともに浅草を歩く。
人を楽しませる町、浅草は今日も多くの人出で華やかな夜がふけていく。
夜空に浮かぶ半月が、笑って自分たちを見ているようだった。




