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剣客居酒屋 草間の陰  作者: 松 勇
居酒屋縁談始末
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追っかけ娘

 日本において、居酒屋という業態は以前にも書いたように、量り売りの酒販店が店先で呑めるようにしたのが始まりであるとされる。


 しかし、居酒屋と言えるような、酒と料理を供し、談笑できる場を提供する店は世界中に存在する。


 そして、居酒屋のような業態は江戸幕府だけでなく、多くの国の政府では社会秩序を乱す、不道徳な場として認識されていた。


 冬吉が草間を営む寛政(かんせい)の時代と同時期、イギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサスはその著書『人口論(じんこうろん)』において、居酒屋の存在を痛烈に批判している。


 この本では、当時のイギリスの救済法(きゅうさいほう)貧民救済政策ひんみんきゅうさいせいさくへの批判が書かれている。


 貧しい労働者に金銭を与えても、結局その金は一時の享楽(きょうらく)のために居酒屋に消え、貯蓄はできず、したがって彼らが結婚することはない、などと繰り返し書かれている。


 筆者はこの本を読んだ当時、三十代の独身で、結婚の予定も立たず、生活も極めて不安定であった。


 大変胸に突き刺さった覚えがある。


 当時の私も、確かに、お金が入るたびに一時の享楽のために居酒屋で散財していたので、結婚などすっかり諦めていたのだ。



 とは言え、本当に居酒屋に通っていると結婚できないものなのであろうか。

 私は今では所帯を持っているし、妻と知り合ったのは居酒屋である。


 冬吉の営む草間でも、そんなことがあったりもする。




 今日も草間はなかなか盛況であった。


 この店の常連第一と言える大工の伊八に、わざわざ結構離れている清水門外から三日に一度はやってくる長山平三郎こと長谷川平蔵。

 他にも、よく見る顔がいくつも並んで呑み騒ぎ、それに新顔の者もちらほら。


 しかし、その中に、一見居酒屋には不似合いな連中が混ざるのが、草間の特徴であり、悩みであった。



 店の中、入れ込みの中間あたりの一角が妙に騒がしい。

 そして、他の客、特に伊八などはそちらの方をチラチラ見ながら、少々不機嫌に酒を舐めている。


 そこにる連中は酒を呑んでいない。

 食べ物も漬物程度しか注文せず、水や白湯を口にしながら、ひたすら喋っている。


 甲高い声は男のものではない。

 歳若い娘たちが集まって、素面のままで騒いでいるのだ。


 箸が転がっても笑い出すという年頃の娘たちが、居酒屋に出入りするというのは、決して褒められたものではない。

 江戸の世にあっては、そもそも居酒屋は女性が出入りするところではなかった。


 にもかかわらず、草間に若い娘が集まってきてしまうのは、もちろん、絶世の色男、冬吉の店だからである。

 彼女たちは、冬吉の容姿を鑑賞しながら、手が空いていると見ると話しかけて来る。


 色男の癖に女が苦手な冬吉だけでなく、店の常連たちも迷惑がっていた。

 多くの客は、冬吉の作る美味い肴で静かに呑む、もしくは男同士で下世話な話でもしながら呑み騒ぐために草間にやってきている。


 そんな客たちにとっては、小うるさい若い娘たちが集まって騒いでいるというのは、あまり嬉しいことではなかった。

 店にとっては、彼女たちは酒も呑まず、食べ物もたいして注文せずに長居するので、至極迷惑なのである。


 

 とは言え、苦情が出たり、明らかに店に迷惑をかけることでもしない限り、客を追い返すなどと言うことはできない。

 格式ある料亭ではない、あくまで居酒屋を名乗る草間は、間口の広い店でなければならない。


 これは冬吉の信条である。


 居酒屋は本来庶民のための店である。

 客を選ぶようでは居酒屋とは言えない。


 しかしながら、他の客に迷惑をかけるような者はそもそも客とは言えない。

 暴力を振るう者、人を騙す者、店の者や他の客を蔑ろにする者は許さない。


 彼女たち、伊八曰く追っかけ娘たちについては、全くの無邪気であるから、逆に処置に困るのであった。


 

 そんな、一角に、今日はさらに異質な席が一つ。

 追っかけ娘の一人が、壮年の男の前に座らされ、厳しい目で睨まれている。


 娘の名はお(さと)

 追っかけ娘たちの中では最年長で二十二。

 この時代にあっては、行き遅れと言われる齢である。


 壮年の男はお里の父親で、植木職人の菊次郎(きくじろう)


 何人もの弟子を抱え、大名屋敷の庭木の世話もまかされる腕利きである。

 草間の近所に住んでおり、開店直後はよく店にも顔を見せたが、娘が来るようになってからは、ご無沙汰であった。


 草間ではたまにある。

 追っかけ娘の父親たちが押しかけ、その場で説教を始めるのだ。

 

 だいたいは、父親の怒りが店に向くことはない。

 草間では追い出したりはしないが、変なことは起きないように最大限に気を遣っている。

 お静婆の仕事の半分はそれと言って良い。


 何より、お静婆にものを言える者など、この近隣にはいないのだ。

 


「嫁入り前の娘が、居酒屋に連れ立って通うなど、聞いたこともない。そんなでは、いつまで経っても嫁の貰い手がないではないかっ!」


 顔を真っ赤にしながら、菊次郎が怒鳴る。

 娘は顔を背けているが、叱られて首を垂れているわけではない。


 父親には何も答えず、黙っている。

 唾を飛ばしてくるので、それを避けているだけであった。



 他の娘たちはそちらをチラチラと見るが、気にせずに他愛のないお喋りを続けている。

 追っかけ娘たちは、父親に反抗的な娘たちの集まりなのだ。


 言ってしまえば、父親世代の男たちのことをどこか馬鹿にしている。

 怒鳴り散らしたところで、公衆の面前で折檻(せっかん)するわけにも行かないし、店にも迷惑は掛けられない。


 だいたい二言目には「嫁入り前の娘」という言葉が出てくるが、そう言うなら、条件の良い見合い話の一つでも見つけて来いと思うのだ。

 そもそも、恋愛結婚が一般的ではなかった時代、娘が外を出歩いていい男を見つけ、親に紹介するなどと言う事は滅多にない。


 本来なら、父親や母親、周辺の大人たちが良縁を持って来るもので、それが無いから、連れ立って歩き回っている。

 そんな事は滅多にあるわけでは無いのだが、どこかで犬も歩けば棒に当たるように、いい男との出会いがあるかもしれない。


 などと言うのは、先に書いたように言い訳にもならないし、説教が長くなるだけなので口にはしないが、彼女のたちの腹づもりはこんなものであった。



 男なんて居酒屋に来れば、こんなにたくさんいる。

 それなのに、うちの親父は、まともな見合い話の一つも持ってこない。



 そう言う思いで父親を侮り、集団で居酒屋に出入りするなどと言う、当時としては暴挙とも言える行動に出ているのだ。



 この時代の結婚というのは、本人ではなく、奉公先の主人や町の顔役、習い事の師匠、親や親戚など、とにかく若い者の面倒を見ている年長者が、相手を探してきて取りまとめるものであった。

 大きな商家であれば、奉公人の結婚についての責任があり、奉公人同士というわけにいかなければ、方方探し回って良縁を作らなければならない。


 追っかけ娘たちはそうした縁を持ってくる主人がおらず、親や親戚にもそうした力がないために、行き遅れる、もしくはそうなりそうだという境遇で共感して集まっているのである。

 どうせ、良縁がなく、貰い手がいないのなら、町で噂の美男子を、追っかけ回してうさを晴らしててもいいじゃないかと言うのだ。




 追っかけ娘たちのおしゃべりは、そんな不満を愚痴り合うものになってきた。

 わざわざ、菊次郎に聞こえるようにである。

 

 菊次郎は顔を真っ赤にして黙ってしまった。

 菊次郎は腕の良い植木職人であるが、どうも口下手で、今で言えばコミュニケーションが苦手である。

 人脈を作っていくことが下手であり、たまたま昔の同僚や師匠のつてで、大名屋敷の庭の手入れなどの仕事を受ける事はできているが、娘に良縁を持って来れるような繋がりは持てていない。


 この当時では、一家の主としては、甲斐性無しと言われてもしょうがない事なのだ。


 江戸では女性は男性の半数しかいない。

 本人か家によほどの問題でもない限り、嫁入りが難しいなどと言う事はないはずなのだ。

 



 「まったく、嫁の貰い手がないってのは面倒な事だなぁ」


 娘たちに聞こえないよう、控えめな声で、長山平三郎が呟いた。

 長山平三郎こと長谷川平蔵には、息子二人に娘が一人いる。

 下の二人はまだまだ子供だが、嫡男の辰蔵については、そろそろ嫁取りを考えねばならない。

 

 武家の嫁取りというのもなかなか難しい。


 もちろん、今や江戸中で評判の火付盗賊改方頭ひつけとうぞくあらためかたかしら、長谷川平蔵のせがれや娘となれば、引く手数多ではあるのだが、相手は慎重に選ばないといけない。

 まして、本人が乗り気でなければ、無理やりくっつけてもうまくいかないだろう。


 そろそろ現実的な問題として、息子の嫁取りを考えないといけないので、意外と真剣にこの話を聞いていた。



 もう一人、この話に耳を傾けていた客が、大きなため息をついた。

 平蔵や大工の伊八の近くに座り、一緒に飲んでいた男である。


 名は左近次と(さこんじ)言う。


 左近次はキセルを作る職人である。

 キセルは煙草を吸うための道具だが、凝った意匠を加えたものを持つ事は喫煙者の憧れであった。


 左近次はなかなか腕の良い職人で、長谷川平蔵は草間で知り合ってから左近次の作るキセルを気に入り、早速一本こさえてもらって愛用している。

 雁首に小さな飛龍をかたどった細工が施されており、伊八などは煙草も吸わないのに羨ましがっている。


 ぽんっ、と、その作られたばかりのキセルで灰皿を叩いて、吸い終わった煙草を落とした平蔵は尋ねた。


「どうしたね?左近次さん」

「いや、まあ、草間にはこんなに娘っこがいるのに、おいらにぁすっかり縁がないんだよなぁと」


 再度深いため息をつきながら、左近時は少々涙ぐんでそう言った。


「そりゃあね、店の者が言うのもなんだが、毎日うちで飲んでるようじゃね」


 手厳しくお静が言う。


 圧倒的に男性の方が多いこの時代の江戸では、独り者は多数派ではある。

 妻を持てる者の多くは、しっかりした親の後援があるか、将来有望で安泰な者だが、毎日居酒屋で酒を食らう長屋暮らしではなかなか難しい。


 佐近次は、腕の良い職人ではあるが、寂しがり屋であるが故に、居酒屋通いがやめられず、あるいは岡場所(おかばしょ)にまで足を伸ばすこともある。


 故に、悪くない稼ぎがあっても、長屋暮らしで蓄えもない。

 宵越しの金を持たない江戸っ子と言えばそうなのだが、そんなのは強がりで、実際には無聊を慰める方法が他にないからなのだ。



 佐近次が作るようなキセルは、吸口(すいくち)羅宇(らう)雁首(がんくび)と言う三つの部品で作られている。


 羅宇が、その他二つを繋ぐ管であるのだが、ヤニが詰まるため、掃除をしたり付け替えたりする必要が出てくる。

 羅宇屋(らうや)と言う露天商がおり、歩き回ってこれを行うのだが、佐近次は金を使い果たすと、一流の職人なのにこれをやって日銭を稼いだりする。


 三十路も過ぎた男がこれでは、なかなか縁談がないのも仕方がない。


 両親も師匠も亡くなって天涯孤独の境遇である。

 しっかりした男なら、知人の誰かが取り持ってくれるということも考えられるが、このていではそうもいかない。


「まあ、草間に通ってて女房持ちなんてのは、そうそういないからなぁ。長山の旦那は?」

「俺は妻もいるし、息子二人に娘も一人いる」


 伊八の質問に思わず平蔵は答えてしまったが、これはまずい。


 複数の道場で代稽古をしている浪人と言う、偽りの身分で草間に通う平蔵だ。

 独り者ならそれで居酒屋が通いをするのは、佐近次ほどの依存症でなければ問題ないが、さすがに妻に子供三人を養っているとなれば話は別である。


 実家がよほど裕福なのか、女房や子供も働きに出ていなければ、浪人の家計は成り立たない。

 つまり、偽っている身分通りなら、よほどの穀潰しでなければこんなことはできない。

 平蔵の人なりを見れば、身分を偽っていることに気づかれかねないのだ。



 少し離れたところに座っている、人相の悪い老人がジロリと平蔵を睨み、何故かぷっと吹き出して、目を逸らす。


 平蔵は気づいていない。


 とは言え、伊八は気にもせずに話を続けた。


「独り者の気楽さってのもあるぜ。じゃなきゃこんなうまいもん毎日食えねぇだろう」

「そら、伊八っつぁんは……」


 佐近次は何かを言いかけてやめた。

 お静が怖い顔で睨んでくる。


 伊八には以前は女房がいたのだが、流行病で亡くしているのだ。


 女房を亡くした伊八はしばらくの間は、働きもせずに家に引きこもり、酒浸りの生活であった。

 貧乏長屋に移り住んでからも、それは変わらなかった。


 まともな食事も取らずに酒だけを飲み続ける生活。

 これが体に良いわけがないという事は、江戸時代の庶民の間でも知られている。


 見かねて注意をしても聞かない伊八を心配していたお静は、冬吉が草間を開いた時点で、真っ先に引っ張り出して連れ込んだ。

 せめて美味いものを食べて呑むようにしろと、言い聞かせたのである。


 今では、本来の明るさを取り戻し、大工としての仕事に戻ってしっかり働いてもいるが、それだけ女房への思いが強かったのだ。


 草間に通うようになってからも、呑みすぎると、泣き上戸になってしまうことがある。

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