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剣客居酒屋 草間の陰  作者: 松 勇
柏屋不出来椀方始末
32/56

隅田川の華

『やっちまった。ああ、気まずい気まずい……』


 厨房では、冬吉が声をかけるたびに、若い包丁人たちが素っ頓狂な声を上げる。

 すっかり、冬吉に対して怯えてしまっていた。

 と言っても、仕事自体はしっかりこなすのは、流石は柏屋の包丁人たちである。

 半左衛門の一喝で気を取り直し、正三郎が目端の効いた指示を飛ばせば、台所は動き始める。


 とは言え、冬吉は久々に他人にきつい口をきいてしまって、自己嫌悪の思いは消えぬし、周辺の反応がますます辛い。

 しかし、あのままでは花板不在の柏屋は、死んだも同然。

 銀次郎については、包丁人としての命まで失うこととなってしまう。


 書き入れ時に料理に粗相(そそう)があったなどとなれば、江戸に聞こえる柏屋の名も、一夜にして地に落ちてしまう。

 老齢の花板と脇板に頼りっぱなしとあっては、先もない。

 冬吉からしてみれば、銀次郎しかいないのである。

 あの天才包丁人が全てをまかなえるようになれば、それだけで柏屋は江戸で一番の料理を出すことができるに相違ないのだ。


 正しいと思ってやったことではあるのだが、例えば、ここにお夏がいようものなら、いつもの寸鉄人を殺す言葉の一撃を受けていたに違いあるまい。

 いつもながら、ちょっとだけ迂闊な冬吉である。

 実際にはここにいなくても、半左衛門とお夏の間では手紙を通したやりとりがあり、何かがあれば逐一話が伝わってしまう。

 お夏に何か言われるのは、確定しているのであった。



 冬吉は自分が使う出汁を取っている。

 今回は冷汁とのことだが、銀次郎の逆を張って、あえて魚の出汁を使う事にした。


 鮎節(あゆぶし)である。

 

 鮎は江戸の近くの川でも捕れた。

 上物は少し遠いところから運ばれてくるが、江戸でも夏の風物詩である事には変わりない。

 しかし、鮎節については、江戸ではあまり一般的ではなく、そもそも柏屋で取り扱うようになったのも、冬吉が紹介してからのことである。

 諸国を巡って包丁のことを学んできた冬吉は、柏屋の料理の幅を広げる事に貢献していたのだ。


 鮎は川魚ではあるが、別名を『香魚(こうぎょ)』と呼ぶように、爽やかな、例えるなら()()()()西瓜(すいか)のような瑞々しい香りを持つ魚である。

 夏の盛りであれば、脂も乗っており、塩焼きにするのが最高であるが、鮎節にして出汁をとってもなかなかである。

 居酒屋では扱い難い高級食材だ。


 一方、銀次郎はすでに出汁は取ってあるので、実の方を考えていた。

 良いエビが入ったので、それをしんじょにしている。




「ふむ。これは如何にも涼しげ」


 冬吉の作った椀の蓋を外した半左衛門は、まずはそう評した。


 黒塗りの椀に、賽の目に切られた真っ白い豆腐、その上には木の芽(山椒の葉)があしらわれている。

 汁には(くず)が使われているようで、とろみがあり、柚子(ゆず)の皮を擦ったものであろうか、黄色い粉のようなものがキラキラとしていた。


 椀を持ち、顔を近づけると、柚子と木の芽の爽やかな香りとともに、鮎節の独特の香りも感じられた。


 まず、椀に口をつけて一口。

 井戸で冷やした碗がひんやりとして心地よい。

 僅かにとろみをつけた汁を口に含むと、柚子と鮎の香りが口いっぱいに広がり、飲み下すと儚く僅かに余韻を残して去っていく。

 (さじ)を使って豆腐を口に含めば、実に柔らかく、雪のように溶けていくように思われた。


 豆腐も冬吉の自家製である。

 冬吉の豆腐は、当時一般的であった今日の木綿豆腐よりも、柔らかく、少し前の時代に江戸で評判になった、笹の雪の絹豆腐に近い。


「それにしても、この柔らかさは……」

「先に削いだ大根とともに、酒で煮ております」


 正三郎の疑問に冬吉が答えた。

 大根は今日ではタンパク質を分解する作用を持っていることが知られているが、そんな科学的な知識のない時代でも、豆腐や魚を柔らかくすることは知られてはいたのである。

 一度煮た豆腐を改めて冷やして、冷たい碗の実として使ったのであった。


「見事です。見た目、香り、味、さらには椀の冷たさまでもが渾然一体となり、涼しげな風が総身を吹き抜けるかのよう。冬吉さんの真骨頂(しんこっちょう)ですね」



 次に銀次郎の椀の蓋を取った。

 それを見た瞬間、正三郎はため息をつき、半左衛門は怒りの表情を浮かべた。


 実は海老のしんじょに、吸い口として冬吉と同じように木の芽が浮いている。

 それは良いのだが、椀の選び方が論外であった。

 海老のしんじょは、殻もすり潰して入れているのか、ほんのりと赤みがかっている。

 それを、内側が朱塗りの椀に入れて出してきたのだ。


 冷たいしんじょの汁は難しい料理だが、あの出汁を使い、天才的な味覚の持ち主である銀次郎が仕上げたのだから、不味いはずはない。

 香りも悪くはない。

 しかし、赤い椀の内側に赤みがかった海老のしんじょでは、全く映えない。

 これが、黒塗りの碗であれば、海老しんじょの赤は映え、そこに浮かぶ木の芽も、古池に浮かぶ木の葉のような風情で、風流な逸品になったはずである。


 半左衛門は口も付けずに言った。


「客が口に運ぶ前にがっかりしてしまうような椀を出すわけにはいかぬ。これでは比べるまでもない。今日は冬吉さんにお願いします」

「は。承知いたしました」


 銀次郎は無念の表情すら浮かべてはいなかった。

 ただ、さめざめと、その瞳から涙が溢れていく。


 正三郎は何か声をかけようとして、半左衛門に睨まれ、結局何も言わずに去って行った。




 冬吉は黙々と椀の準備をしていた。

 とは言っても、椀の勝負で銀次郎に負けるとは考えていなかったので、出汁も()も事前に店で出す分まで用意してはある。

 あとはそれらを井戸水で冷やし、料理が椀物に入る頃を見計って、椀に実と汁を入れるだけである。


 銀次郎は、煮物料理の準備をしなければならない。

 今日は(たい)の冷やし鉢などいくつかの品があるが、その下ごしらえは終えている。


 煮物の盛り付けは悪くない。

 と言っても、煮物の盛り付けについては、なんとなく定石がある。

 長年、父について包丁のことを覚えていった銀次郎は、その定石が身に染みついており、それをはずことはありえない。


 だが、椀についてだけは違った。

 最初のうちは、父親の盛り付けを思い出して、見目もほぼ同じように作っていたのだが、出汁の取り方で父親を超えたあたりから、どうして良いか分からなくなったのである。


 出汁が変われば、()に使う食材も変わってくる。

 ならば、新しい食材を用いた新しい盛り付け、料理の見目を考えなければならない。

 その、見目について、自分から行う工夫が(じつ)に下手くそなのであった。

 



 予約の客が入り、料理が運ばれ始めた頃、ドンッ、ドンッと言う大きな音が、店の外から聞こえ始めた。

 隅田川の華火が上がり始めたのだ。

 遅れて歓声も聞こえてくる。


 店の二階から陽気な声が上がり、女中たちがどんどん酒を運んでいく。


 皆が忙しく働く中、銀次郎は煮物の鍋をただただ見つめていた。


 銀次郎は包丁のことが好きだ。

 美味いものを作り、人に食べてもらうことが何よりも好きだ。

 だから、辛い修行にもひたむきに励んで来た。

 とにかく美味いものを作りたいと思い、父親の技を盗み、それを超える味を目指した。


 辛いのはその先であった。

 出汁で父親である宗兵衛の味を超えたころ、それまでの努力の上に、何をすれば良いかが分からなくなったのだ。

 父親のことは尊敬しているが、仕事ばかりでろくに母のことを気にかけない宗兵衛のことを、どこかで(かたき)として見ている面もあったのかもしれない。

 その母も、数年前に病に倒れ、すでにこの世にはいない。

 そして、父を超えた先には、自分の行き先を示してくれる道標(みちしるべ)はなかった。


 一心に、包丁のことに励んだ自分のこれまでの人生は、なんだったのだろうか。

 自分は結局は、名包丁人である父の力でここまできただけであって、本当は大した力はないのではないか。

 隅田川の華火の音は、そう言う自分を、責め立てっているように聞こえた。



「くそっ、うるさい音だ……」


 なんともなしに、口からそう漏れた。

 忙しく働いている最中であるから、ほとんどの者には聞こえていないし、聞こえていても気にも留めなかった。

 冬吉だけが、その言葉を聞いて、ハッとした。


源助(げんすけ)さんっ!」

「ひっ、ひゃいっ」


 蒸し方の名を呼ぶと、素っ頓狂な声で答えた。

 源助は、有望な若手で、まだ二十歳だが銀次郎の後釜の蒸し方をしている。


「椀も煮物もあとは、盛り付けるだけだ。少しの間、お願いできますか?」

「え、まあ、見ていたので、なんとか」


 見ていただけで同じようにできると言うのは、それなりの力があると言うことである。

 まだまだ経験不足ではあるが、盛り付けるだけであれば、この男の仕事に心配はない。


 冬吉はグイッと、銀次郎の奥えりをとり、それをひねって背中に担いだ。

 何が起こったのかもわからず銀次郎は、蒼白になって当て足をばたつかせる。


「ひっ、ふ、冬吉さんっ!」


 叫んだのは、正三郎である。

 まさか、この流れでいきなり喧嘩が始まるのかと思ったのだ。


「脇板、少しの間だけ、銀次郎さんとここを離れます。源助さんが盛り付けをしますので、見てやってください。すぐに戻ります」

「いや、ちょ、ちょっとっ!」


 正三郎と源助が慌てている中、銀次郎を背負ったまま、冬吉は出て行った。




 冬吉は、銀次郎を片手で背中に担いだまま、階段を上がり、梯子まで使って屋根の上に登った。

 この頃の江戸の建物は、平屋を除けば必ず屋根の上に上がることができるようになっていた。

 屋根には水が溜められた大きな(おけ)があり、近所で火災があったときには延焼を避けるため、それを屋根に撒く必要があるのだ。


『火事と喧嘩は江戸の華』


 そう呼ばれるほどに大火の多かった時代であるから、防火の備というのは常に必須なのである。


「ふ、冬吉さん、何を……」

「銀次郎さん、あんた、華火を見たことはあるかい?」

「華火?」


 柏屋は両国橋に近く、隅田川沿いにある。

 夏になると、ドンッ、ドンッとなる音は華火だとは聞いていたが、考えてみると毎年その音を聞きながら料理の修行に励んでいたので、音しか知らない。


 柏屋の自慢は、華火を見物しながら美味いものが食えるということだが、この音が何なのかすら、気にした事はなかった。

 いつしか、川遊びの馬鹿騒ぎをするための、お囃子(はやし)のようなものだと思い込んでいた。


「見てみろよ。これが華火。華火の上がる夏の隅田川だ」


 高所が苦手な銀次郎は恐る恐る川の方に目を向けた。

 

 川辺には人が集まり、いくつかの舟が浮いている。

 皆、華火見物の人々だという。

 舟は川遊びのためのもので、思い思いに酒も楽しみにがら、何やら上の方を見上げていた。


 ドンッ!


 という音が再びなった。

 銀次郎はみなと同じように上を見上げる。


 華が開いた。


 隅田川の上空に大輪の華が開いたのち、すぅっと儚く消えていった。



 次々と上がる華火に心を奪われていると、冬吉が水面を指差した。

 上空の華火を見逃すまいと、目を凝らしていた銀次郎は、何かと思って水面を見ると、空で輝いているのと同じ華が水面にも咲いていた。


「これが、華火……」


 冬吉に敗れたときは、違う涙が目から溢れてきた。


「なんだろう、この感じは……なぜ私は、こんなに心を揺さぶられているんだろう」


 子どもの頃からこの辺りに住んでいながら、銀次郎は初めて華火を見たのである。

 料理だけを人生と定め、一心に修行する中で、二十七年もとりこぼしていた何かを、今、初めて見つける事ができたのだ。


「これが、美しいって事さ。一心に修行するだけでは気づかないこともあるんだ。今、それだけ感じいる事ができるなら、銀次郎さんにも、こんな美しいものが作れるはずさ」


 銀次郎は、驚いたように冬吉を見返した。


「そうか、私は、美しいというのが、どういうことか、知らなかったんだ」


 冬吉がこくりと頷いた。

 美しい料理なら子どもの頃から、宗兵衛や正三郎のこさえたものをずっと見てきた。

 しかし、それは、見本であり、こうあるべきと言う、与えられた課題のようなものでしかなく、その美しさを楽しむと言うことを銀次郎は知らなかった。


 銀次郎は、今、生まれて初めて、美しさに心揺さぶられたのである。


 天才的な味覚を持ち、包丁の鬼、宗兵衛の血を引くものが、美的感覚を持たないはずがない。

 冬吉が気づいたのは、銀次郎がその感覚を磨いてこなかった、と言うよりも、未だ感じる事がなかったと言う事であった。

 ならば、最も身近で、気づく事のなかった隅田川の華火、これから知る事が必要だろう。


「……ありがとう。冬吉さん。もう、戻ろう」


 目には涙を溜めているが、表情は曇りひとつないものとなった。




 先に銀次郎が梯子を降りていく最中、冬吉は改めて周囲を見回した。


 火事でもないのに、商い中の店の屋根に人がいるところが見られでもすると、盗人と勘違いされて騒ぎになることもある。

 二人は、目立たないようにうずくまって華火や川を見ていたのだが、念のためそっと見回した。

 誰にも気づかれてはいないようである。


 しかし、視野に入った水面の上に浮かぶ、一艘の小さな舟が気になった。


 舟の上に人影は二つ。

 

 向かい合っているので、二人だけで酒を酌み交わしているのかもしれないが、この二人は華火が上がっても上を見上げない。



 本来は、気にするほどのことでもない。

 華火が上がっているからと言って、それこそ花より団子、酒の方に集中してしまう飲兵衛というのもいることだろう。


 そう思いつつ、冬吉はこの二人のことがその後も頭から離れなかった。



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