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剣客居酒屋 草間の陰  作者: 松 勇
柏屋不出来椀方始末
31/56

柏屋椀比べ

「冬吉さんっ、お久しゅうっ!」

銀次郎(ぎんじろう)さん、ご無沙汰しておりました」

 

 台所に入ると、銀次郎や他の若い包丁人達が元気に挨拶をしてくる。

 若いと言っても、冬吉とさして変わらない、年の頃は二十歳前後と言う者たちが多い。


 ただし、銀次郎自身は冬吉よりも年上、齢二十七である。

 花板である宗兵衛と脇板である正三郎を除けば最も年長であった。


 追廻しの若者には、この一年でもだいぶ入れ替わりはあったが、焼き方以上の者たちは、皆顔見知りであった。

 この間に追廻しから焼き方に昇進した者もいるし、焼き方から蒸し方に移動した者もいる。

 銀次郎も、冬吉が店を出す前までは、蒸し方であった。

 前任の煮方は、柏屋の女中と恋仲となっていたため、半左衛門のはからいで夫婦となって浅草の外れで小体な料理屋を出している。


 料亭に限らず、大店の奉公人と言うのは、建前上は恋愛禁止である。

 とは言え、人の為すこと、そう言う事はどうしても起こってしまう。

 そのまま店に置くのは、他の奉公人に示しが付かないので、店はやめる事になるが、店側に甲斐性ががあれば、一緒になる事は許した上で、修行の進み具合に合わせた規模の店を持たせてやったりする。


 包丁人なら、板前になっていれば、むしろ嫁取りを急かされる立場だ。

 包丁人を含む奉公人は、基本的に店の奥で集団生活を送る形だが、板場に立つほどになれば、嫁を取って、近くに長屋でも借りて通うと言う事になる。


 前の煮方は、本来なら板場に立っててもおかしく無い腕前は持っていたのだが、板場にはすでに花板と脇板が揃っていたので、暖簾分けをして店を出させたのだ。

 その後任が、椀を作れない銀次郎だったわけである。


 

「椀方をやっていただけるようで、いやあ、助かります」

「冬吉さんなら安心だ」

「は、はぁ」


 冬吉は拍子抜けした。

 銀次郎も、蒸し方の男も、冬吉が椀方をする事に、なんのこだわりもない。

 他の者たちも同様であった。


 人が足りない時に、余所者が入って椀方を務めると言うのは、煮方以下の包丁人にとっては、腕を試す機会を一つ逃す事になる。

 現代でも飲食店にあっては、主力の料理人が何かの理由で出れない時こそ、その下にいる者たちの腕が試されるのだ。

 その穴を見事に埋めて見せられたなら、その後の役割も変わってくるし、出世の目処もつく。


 普通なら面白いはずがない。

 それが、なんのわだかまりもなく、冬吉を迎え入れて大歓迎だ。

 身内と思ってくれているのは、非常にありがたく嬉しいが、今の柏屋の雰囲気というのが気になった。


 花板と脇板は五十代。

 二十前後の若者にとっては親世代であり、まさか追い越しの対象とは言えない。

 その下はみんなで仲良くやっている。


 聞こえは良いが、馴れ合いは人を成長させない。

 切磋琢磨と言う雰囲気があるのであれば、冬吉を呼ぶよりも、誰かが手をあげて椀方に挑戦するはずである。

 むしろ、柏屋の中で、椀方を取り合うぐらいでなければならない。

 それを、本来なら、椀方を兼任するはずの、煮方の銀次郎自身が、冬吉の参戦を喜んでいる。


 意地というものがないのだろうか。


「出汁は取っておきました。今日は結構暑くなりそうなんで、冷汁にした方が面白いかと脇板が言ってました。魚の方は控えめにしています」


 冷汁、つまり、冷やしたお吸い物である。

 冷蔵庫があるわけではないので、料亭では深井戸で冷やした汁と言う事になる。

 温めた場合よりも魚の生臭さが出やすいので、昆布を基本としたあっさり目の出汁に仕上げられている。


 この辺は流石であった。

 塩か醤油で味をつければ、それだけでも、すっきりとした美味しい汁が出来上がる。

 これだけの腕がありながら、椀を作らないと言うのは、冬吉には包丁人と言う仕事への冒涜に思えてきた。


 これだけの出汁が取れて、何に使うのかを考えて興奮したりしないのか。

 冷汁と言われて、それに合わせた出汁を考えたなら、季節を感じられる食材をあれこれ思い浮かべたりしないのか。


 冬吉でも、この出汁を自分で取るなら、見本をもらって何度も試さねばならない。

 自力でこの域にまで洗練された出汁を取れる銀次郎は、紛れもない天才なのである。



 銀次郎たちは気づいていないが、冬吉は奥歯をぎりりと噛み締めていた。


 他の包丁人は、こちらをわくわくしながら見ている。

 冬吉がこの出汁を一体どのように使うのか、楽しみにしているのだ。


 それはわかる。

 申し訳ないが、銀次郎以外、冬吉に匹敵する包丁人はここにはいない。

 皆、己の腕を過信はしていない。


 だが、銀次郎は冬吉にとっては、切磋琢磨すべき同等以上の包丁人なのだ。

 うまいこと使ってくれと言うように、自分の渾身(こんしん)の出汁を差し出してくるなどと言うのは、真面目に技を極めようと言う態度ではない。



 冬吉の中で何かがプツリと切れた。

 


「いりません」

「へ、ふ、冬吉さん?」

「この出汁は使いません」


 台所がざわざわとなった。

 銀次郎は青い顔をしている。


「やる気のない者が作った出汁など、どんなに出来が良くとも使うつもりはないっ!」

「や、やる気がないなんて、ふ、冬吉さんっ」


 銀次郎ではなく、蒸し方の男が冬吉に詰め寄った。

 冬吉は、ふんっ、と鼻で笑って蒸し方を押しのけ、銀次郎の胸ぐらを掴み顔を近づけた。


 銀次郎は震えている。

 冬吉は穏やかの性格の男だとは思われているが、包丁人たちも、野盗から半左衛門を救った手練(てくだ)や、数々の事件で見せた腕っぷしの良さは耳に入っている。


「椀の出汁だけとって、何をそう得意がっているんだ?この出汁を使って、自分の一品を仕上げてみたいと思わないのか。それがやる気がないと言っているっ!」

「いや、私は、椀は……」

「椀の見目が悪いと言われて悔しくないのかっ!誰もそれを言わなくなったのは、あんたのことをみんな見限っているからなんだぞっ!」


 台所にいた若いものだけでなく、何事かと入ってきた正三郎も青い顔になった。


「脇板、私はこの出汁は使いません。この出汁は、銀次郎さんに使ってもらってください。冷汁も作ってもらう。もちろん、私も作ります」

「ど、どう言うことで……」


 正三郎は腕はあるし、若い包丁人を使うだけ目端も聞くが、想定外の事態が起きたときの肝の座り方は宗兵衛には及ばない。

 

「これから、三日間、毎日店を開ける少し前までにそれぞれ椀物を用意します。脇板と旦那様で双方を試し、その日に出す椀を決めていただきたい」

「な、なるほど」


 合点はいく。

 花板不在、それも椀も作っていたのだから、これは窮地であるとともに機会でもある。

 他の包丁人が、新しい色を出していく良い機会なのだ。


「ただし、三日とも私の椀を出す事になったなら、銀次郎さんにはもう見込みはない。柏屋を辞めて、草間で追廻しから始めてもらう」

「そ、そんな」


 みな、顔面蒼白どころか、総身を震わせ始めた。

 包丁人たちは、熊七のことを知っている。

 皆で可愛がっていた。


 熊七は、半左衛門に養育されていた子供の位置付けであるから、柏屋で追廻しをしていたわけではない。

 年齢も柏屋に来た頃は追廻しとしても早かった。

 奥向き、主に半左衛門の身の回りの雑用や、奉公人たちの宿舎の掃除などをしていただけである。


 その熊七は、草間では追廻しのような立場ではなく、見習いとは言え包丁人としての仕事をしている。

 煮染めを作り、田楽を焼く。

 料亭で言えば、焼き方と脇鍋を兼任するぐらいの位置付けだ。


 もちろん、料亭と居酒屋での仕事の内容を比べるのはナンセンスである。

 しかし、銀次郎には、その熊七よりも下の扱い、追廻しとして働けと言うのである。



 しーんとなり、誰も身動きが取れなかった。

 冬吉の声には(あざけ)りも脅しの色も含まれていないが、それだけに、その冷厳な宣告の苛烈さが、無視できぬほどの迫力で伝わってくるのだ。


「良いでしょう。今日はいつもより少しお客が来るのは遅い。暮六つまでに用意してください。選ばれた方はそれから急いで客に出す分を作らねばなりませんが、大丈夫ですね?」


 やはり騒ぎに気づいてやってきた、半左衛門の声だった。

 冬吉は頷いたが、銀次郎は顔面蒼白のまま動けなかった。


「いつまでも、半端な仕事の煮方を置いておくわけにも行かない。最悪、中継ぎの包丁人を他の店から借りてでも、やらねばならないことはある。他の者も、いつまでも見習い気分が抜けないなら、辞めてもらう。気張らっしゃいっ!」


 半左衛門の張りのある声に、震えていた包丁人たちも、シャキリとなった。

 本来は、包丁の鬼と呼ばれた宗兵衛の役割である。

 その、宗兵衛が珍しく風邪で抜けている事で、包丁人の気持ちが弛緩していたのだ。


 しかし、それでも銀次郎は震えているだけであった。


「銀次郎、やる前から諦めるというのなら、包丁人を辞めよ。それでは草間でも追廻しすらつとまるまい。ここで、包丁人として死ぬか、冬吉さんを超える椀を作り、名実ともに柏屋の煮方となるか、二つに一つ」


 銀次郎は力なく頷いた。


 花板のせがれという事で、自分は甘やかされていると、陰口を叩く者は今までも多くいた。

 味覚も手先の器用さも天性のものがあったから、さして努力も無しにここまで来たと思われてもいる。

 だが、実際は血の滲む努力の末に、父親に認められようとしてきたのだ。

 料理の世界にも天性というものはあるだろう。

 だが、その才も磨かなければ光ることはない。


 銀次郎は追廻しとして台所に入った十五の歳から、ほとんど外に出ることも無しに、ひたすら包丁の技に励んでいたのである。

 今、その十年以上の日々が、丸ごと否定されたのだ。

 

 


「旦那様、どうしたもんでしょ」

「どうしたもこうしたも、さっき言った通りですよ」


 えらい事になったと、取り乱す正三郎に対して、半左衛門は軽く返した。


「しかし、冬吉さんがあんなに怖い人だとは思わなかった」


 正三郎も包丁人としての腕は認めている。

 人柄も穏やかで、おごるところのない人物だと思っていた。

 しかし、今日のやりようは、怖い。


「冬吉さんは優しい。むしろ我々の方が非情だったと言える。銀次郎については」

「優しい?」


 正三郎にはわかっていないようであった。

 冬吉が言った通り、半左衛門も正三郎も、父親である宗兵衛も、銀次郎の椀のことは見限っていたのである。

 出汁の取り方なら、宗兵衛をも超えて、柏屋で一番であるのだが、それを生かした椀が作れない。

 花板と脇板はもう良い歳なので、その先は銀次郎が花板となって包丁人の中心担うのが普通なのだが、それすら半分諦めていた。

 年齢構成が歪になっているのもあるので、他の店から板前を呼ぶことを実際に考えていたのである。


 しかし、冬吉はそれに納得がいなかった。

 そういう考え方だから銀次郎だけでなく、他の若い包丁人たちまで、宗兵衛不在の中、どこか他力本願で弛緩した雰囲気を醸し出していると考えた。

 冬吉の一喝は、柏屋の危機を救ったとも言えるのだ。


「我々が諦めていた銀次郎の椀を、冬吉さんはどうにかしたいと思った。まあ、結構な荒療治となるでしょうが。今日明日ぐらいは、厨房は荒れる。客には迷惑がかからないようにするのは、お前さんの仕事です」

「へ、へぇ、それは」


 平身低頭という感じではあるが、厨房が荒れても、いつも通り客をもてなす料理を出せる自信は正三郎にはある。

 椀だけが心配だが、最悪でも冬吉の椀が柏屋で出して良い程度になることは間違いない。


 ただ、銀次郎があまりに不甲斐ないと、花板である宗兵衛がどう思うかが心配であった。

 宗兵衛は、銀次郎を勘当することを考えていたのだ。

 あまりにもかわいそうだと、それを止めていたのは正三郎なのである。

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