鬼
最初は、じりじりと、少しずつ詰め寄った。
無意識に、ちろりと舌なめずりをする。
実は昨晩だけのことではない。
ここ一月ほど、ほとんど人気のない郊外の道で破落戸どもを切り捨てていた。
死体は川に捨てたり、埋めたりして隠したので、見つかってもいない。
それに飽きたらず、本所まで出てきたのは、もっと強い相手を斬りたかったからに他ならない。
死体は川に捨てるつもりでいたのだが、それができなかったのは、目の前の冬吉のためであった。
まさか、自分を満足させるほどの手だれが、町人髷を結った男とは思わなかったが、そんなことは関係ない。
自分の間合いの半歩前まで近づいた瞬間、飛びかかるように一気に踏み込んだ。
逆風の太刀の一撃目は篭手を狙う。
そのぎりぎりの間合いでは、大脇差を使う冬吉の間合いには入っていない。
ただし、本来はこの一撃目はまやかしである。
わざと外して、相手に反撃させるのが逆風の太刀であるからだが、この時は本気で篭手を狙った。
逆風の太刀を使うことは昨晩すでに看破されている。
しかし、男は仮に本気で篭手を狙い、外されたとしても、そこからそのまま逆風の太刀を使うことができる。
達人の域に入るとはそう言うことであった。
振り下ろされた太刀はかわされた。
逆風の太刀であると思っていれば、これをかわす必要はない。
男は意外には思わなかった。
未だかつてあったことがないほどの剣士が相手なのである。
だが、ここからの冬吉の狙いが仮に、逆風の太刀が想定する面への一撃でなくとも、男の逆風は必ず左腕を切り落とす自信があった。
変幻自在の技であるのだ。
振り下ろされた太刀が跳ね返るように、地面すれすれからすくい上げられる。
跳ね上がった太刀にはさほどの力はない。
思い切り振り下ろした後であるから当然で、この技は相手の攻撃の勢いを利用して腕を斬りとばすのだ。
しかし、すくい上げられた太刀は腕を斬りとばす前に止まった。
冬吉がとっさに左手で半分まで腰から抜いた鞘が刃を受けていた。
敵の斬撃を単にかわすのではなく、前にでてかわしながら間合いを詰める。
小太刀術に見られる技である。
刃が止められた次の刹那、男の左腕が太刀を持ったまま切り離された。
大脇差が風車のようにくるりと周り、下から切り上げたのだ。
男が悲鳴をあげることはなかった。
腕が斬られたことに気づくよりも早く、絶命したのだ。
左腕を切り落とした切っ先がそのまま止まることなく、袈裟切りに振り下ろされた。
流れるような、というよりも、疾風のごとき太刀筋であった。
月明かりに照らされた死体の顔は、なぜか安らかな目をしていた。
翌日、本所の界隈では、二日続けての辻切りの犯行に騒然となった。
朝には帰った伊八も、血の付いた着物を何も言わずに洗ったお静も、当然感づいているはずだが、何も言わなかった。
朝のうちに仕入れから帰った冬吉はいつも通りに、仕込みを始めた。
鰯の半分はなめろうにするために取っておくが、残りはつみれ汁にするために、下拵えをする。
なめろうはともかく、つみれ汁は下拵えさえすませておけば、お静でもそれなりの味に作ることができた。
呼び出しは、店を開けるにはまだ早い時刻であった。
昼間から呑んだくれるやつらも本所には多いが、草間が空くのは黄昏のころである。
三日に一度は道場通いをする冬吉は、他にもいろいろとすることがあり、夕餉のころからしか店を開けたりはしないのだ。
やってきたのは、長山ではない。
彼よりは小柄な武士であった。
町人の冬吉に慇懃すぎる態度で同道を願う。
包丁を持って顔を真っ赤にしたお静をなだめてから、冬吉は身支度をしてついていった。
行き先は火付盗賊改方の役宅である。
何故か勝手口から庭に通された。
地べたに正座して待つと、同道した小柄な武士と共に長山が現れた。
着流し姿の長山は、縁側に行儀悪く座りながら、キセルを使い始めた。
冬吉は怪訝な顔した。
場合によっては捕縛の上、獄門となることも覚悟していたのだ。
辻切りの武士を、本人がしてきたのと同じようにして斬った。
よほどの目利きでもいなければ、同一の下手人の仕業としか思えないようにである。
それすら納得しての行動であったのだが、長山に保身の気持ちが少しでもあったなら、一昨日の四人も含めて、冬吉の仕業としてしまうこともできなくはない。
目撃者として奉行所の取り調べもされていないのだから、あとは伊八の口さえふさげばどうとでもなるのである。
一方で、小柄な武士の態度からすれば、それも考えにくかった。
怪訝に思ったのは、職場である役宅で、雑な服装と態度の長山である。
まだ職務中のはずで、番方であり多少荒っぽいと言われる火盗改の同心と言えども、こんな様はさすがにないように思われたのだ。
先に口を開いたのは、小柄な武士の方であった。
こちらは長山の脇、やや後ろできちっと居住まいを正して正座している。
「草間冬士郎殿。我が甥の仇を討ってくだされたこと、まことにかたじけない」
長山の態度は気になるが、それよりも、上座からとは言え、両手をついて頭をさげるこの男の態度にはもっと驚いた。
「一昨日、最後に斬られた男はこの火盗改与力、山根十内が甥、山根彦四郎と言う。剣一筋の実直な男で父親の咎で浪人したものの、剣術で身を立てられるように取りはからうつもりであった。わしからも礼を言う」
「長山様……」
同僚の仇を討ってくれたから、というには言葉遣いが違う。
そもそも、長山が同心で山根が与力なら、山根の方が上役であるはずだ。
何か気づいたのか、山根が顔を上げた。
「お頭、狐に包まれたような顔をしておいでです」
「お頭?」
火盗改の与力がお頭などと言うとしたら一人しかいない。
長山はにやりとしてから、大きな声で笑いだし、一度顔を改めたが、我慢できぬというていで、人の悪い笑みを浮かべてから名乗った。
「火付盗賊改方頭、長谷川平蔵である」
「あなた様が……」
「ま、肩書きをつけて格好付けて見たところで、若ぇころは本所の破落戸、いい歳になっても夜はただの飲兵衛よ。おめえさんほどには姿を偽ってはおらんかったろう?」
ガハハと再び笑いだした平蔵に、数瞬呆然としたが、ほどなく、つられるように冬吉もくつくつと控えめに笑った。
それから、笑顔を崩さずに口を開いた。
「私のこともすべてご存じなので?」
「安心せい。問い合わせたりはしておらぬよ。江戸詰の藩士が、倅と同じ道場に通っていてな。七年前の話を聞いたことがあっただけよ」
手をひらひらとさせながら、心配するなと笑う。
なんとも言えぬ、いい笑顔であった。
「お、できたか」
奥から何名か女中が現れた。
うまそうな匂いが漂い始める。
「おめえさんの味噌漬けほどじゃあねえかもしれねぇが、うちの湯豆腐はなかなかだぜぇ」
鼻をヒクヒクとさせながら、部屋に上がれと手招きする。
「下拵えをすませてきたなら、あとは婆さんだけでも店はやれるんだろう?たんと呑んで今夜は泊まってけ。あの威勢のいい婆さんには、使いを送って安心させてやるから」
豪快に笑う平蔵を眺めながら、冬吉も笑い、頷いた。
山根も笑っている。
静かな黄昏の空には雪がちらつき始め、冬の夜が始まろうとしていた。
冬吉もお静も呆れていた。
あれから平蔵は五日と空けずに『草間』に呑みに来るのだ。
火盗改の役宅がある清水門外と草間のある本所では、片道で半時(一時間)はかかる。
元々本所は若い頃の平蔵が無頼の青春時代を過ごした地域で、他にもなじみの店があるらしい。
遅くなったり、飲み過ぎた時には知人の家に泊めてもらうのだとか。
旗本で四十過ぎの勤め人としては、相当にろくでもない男と言えよう。
だが、人なつっこく、気取らない性格のせいか、草間の客とはあっと言う間に打ち解けてしまった。
伊八などはもう昔なじみのように一緒に呑み騒いでいる。
草間では、長山平三郎の偽名をそのまま名乗っているが、身分は諸方で代稽古をつとめる剣術使いの浪人と言っている。
普通、よほど実家が裕福でもない限り、浪人の生活は厳しいものだが、いくつもの道場で代稽古を勤めているとなれば、草間で呑んだくれる程度の収入はあってもおかしくはない。
たまには、与力の山根も現れることもある。
こちらも浪人と言うことにはなっているが、生真面目なこの男が現れるのは、だいたいは御用のことのついでであった。
酒も平蔵の半分も呑まないで、菜飯や湯漬けを食べる。
小柄な割りに大食漢で、どんぶり飯三杯は胃袋に納める。
山根は平蔵の懐刀で、もっとも頼りになる与力であるらしい。
年季の入った現場の男である。
そんな対照的な二人を、冬吉は好きになっていた。
平蔵の深情けには辟易しているが、身分や年齢の差を超えて、何か通じるものがあるのだ。
今日も長谷川平蔵はなめろうをつつきながら、いかにもうまそうに、ぬるめに燗をつけた酒をなめている。
辻切りを斬った翌日、役宅で湯豆腐をつついて呑んだときには、事件の全容を聞かされた。
下手人の名は清水又九郎と言う。
二千石の旗本の三男で、まだ、二十五の部屋住みであった。
ただし、妾に生ませた子である。
子供のころから手のつけられない乱暴者だったが、剣術の才には恵まれ、二十歳で新陰流の目録に達していた。
清水家の家督は又九郎の甥にあたる進十郎が継いでいた。
まだ十八の若者である。
父親も二人の兄も亡くなっており、長子の子である進十郎が跡目となった形で、特別相続に問題はない。
又九郎も、それには不満はなかったらしい。
剣術で身を立てたいという希望があったかどうかは定かではないが、元々妾腹であり、家督を継ぐなどという心づもりはまったくなかった。
又九郎がおかしくなったのは、家督を相続できなかったからではない。
叔父と甥ではあっても、年齢の近い二人は、どちらかと言うと兄弟のような関係であった。
その、弟のように可愛がっていた甥が、若くして当主となってから、関係がこじれてきたのである。
理由は女であった。
又九郎にはわりない仲のお半という娘がいた。
お半は大店の味噌問屋、三島屋の娘で歳のころは十七。
又九郎とは水茶屋で忍んで会っていた。
そのお半を進十郎が横取りしたのだ。
わりない関係となっていたと言っても、可愛い甥のためである。
実際、又九郎はそれほどまでに惜しい女とは思っていないし、進十郎と祝言をあげるというのなら、それもお半の幸せの為ではある。
実際、お半の気持ちも進十郎になびいていた。
そこで身を引き、家を出てどこかで剣術で食うぐらいのことは考えてはいたのである。
又九郎がおかしくなったのは、進十郎がお半とは別の女、清水家よりは家格は低いが、裕福な旗本の娘を嫁にもらうことになったころからであった。
しかも、その時にはお半は進十郎の子を身ごもっていたのである。
それでも、進十郎が日陰の身であっても大切にするつもりであると言ってきたときには、それで納得しようとした。
内心、どんな屈託があろうと、そのときまでは、己の心を御する事はできていたのである。
むしろ、物分りの良すぎる方であったかもしれない。
だが、進十郎と話したその翌日、お半が自害した。
腹の子もろとも、己を始末したのである。
遺書は、又九郎と進十郎双方に宛てたものがあった。
又九郎と言う想い人がいながら、その甥である進十郎になびいた、己のふしだらを責めてのことであった。
又九郎は泣かなかった。
だが、進十郎は又九郎の前で子供のように泣いた。
又九郎がおかしくなったのはこのときからである。
屋敷には帰らず、方々の岡場所などに出入りし、安い女を買いながら泊まり歩いた。
辻切りをするようになったのは、居酒屋で喧嘩した相手が意趣返しにやってきたのを、斬ってからである。
刀に血を吸わせることを覚えてからは、自分の凶行を止める術はすでになかった。
平蔵が辻切りの下手人と知ったのは、進十郎に相談されてのことである。
長谷川家と清水家は元々父親の代から付き合いがあった。
進十郎の母は高家の血筋であり、簡単には罪に問えない。
平蔵は自分が又九郎を斬るつもりでいた。
それを冬吉が斬った。
本来であれば、背後からつけていた自分が、間に入って又九郎を斬るはずであったのだ。
草間に通ってくるのは、自分に代わって又九郎を引き受けた、冬吉に対する贖罪の気持ちもあってのことなのだろう。
「誰もがお前さんのように、曲がることなく生きられるというわけではない。又九郎は乱暴者ではあったが、根は優しい男だった。心根のやさしさが却って心を狂わせたのだ」
帰り際に平蔵はそうつぶやいた。
鬼とは言え、酒を浴びねば洗い流すこともかなわぬ思いを抱えることはあるのだと言う。
帰って行く平蔵の、頼りない月の明かりに照らされる背中を、冬吉は無言のままに見送っていた。