親子酒裏仕掛け
さて、お夏は考える。
どうにかして、あの二人を樋口道場で代稽古をするよう、仕向けなければならない。
冬吉は今日は帰ってこない。
一応手伝いに出ていても、数日に一度は様子を観にくることになっているのだが、出て行ったばかりなので今日と明日は帰ってこない。
柏屋に泊まる予定なのだ。
となれば、冬吉は今日はいないとどこかで伝えねばならないのだが、言った瞬間に帰ってしまう可能性もある。
また、二人には師がいるので、その許可を取らねばならない。
雪枝の師は最近、草間の常連になった父でもある中村丹斎であるが、辰蔵の師である高山十太夫については、お夏は知らない。
同じ流派であるから、正助は知り合いかもしれない。
ふと、辰蔵たちの方を見ると、入り口にお化けでも見た様な顔の、初老の武士が二人たたずんでいた。
二人の顔は一瞬驚いて青くなり、続いて真っ赤になってワナワナと震えだす。
「貴様っ!冬吉のことには、みだりに触れるなと言ったであろうがっ!」
「若い男と連れ立って居酒屋に来るなどふしだら千万っ!武家の娘にあるまじきことっ」
同じことについて怒っているはずが、微妙に内容にズレがあるのは、娘の親か、倅の親かの違いからであろうか。
しかし、これは良い間である。
お夏はすかさず、座布団を持って入り口に向かって行った。
「失礼します」
そう言って、雪枝と向かい合って座っていた辰蔵に避けさせ、座布団を移動し、雪枝と並んで座らせる。
新しい座布団をそれぞれの正面に置いて、平蔵と丹斎に席を進めた。
「お夏、すまんな。倅が迷惑をかけてないだろうか」
「いえ、実は本日は冬吉さんは柏屋の方に手伝いに出ていまして。忙しい時に花板が風邪をこじらせたとかで、多分、何日かはお店には出れないと思います」
「えっ!」
「そんなっ」
平蔵にお夏が返した言葉に二人が驚く。
絶妙。
これなら、二人も冬吉がいないと聞いても帰れない。
「お酒はどうされますか?」
「とりあえず、今日は、ああ、並酒の方を冷やで貰おうか。あとは、せがれの前にあるのが気になる」
辰蔵の目の前の御膳には、ほんの一切れだけ青豆豆腐が残っている。
平蔵にしてみると、自分がまだありつけていない、草間の新しい肴を息子が先に口にしているのがまた面白くないのだ。
「丹斎先生はどうなされますか?」
「いや、ちょっと後回しにしてくれっ。先にこの娘に説教をくれてやらんとならんっ!」
平蔵に比べて、丹斎の方がより怒り心頭の様子である。
確かに、江戸の世にあっては、女性、それも武家の娘が居酒屋に来るということ自体が、あまり褒められたものではない。
若い男と一緒となると、ふしだらと言われても致し方ないという世相であった。
追っかけ娘たちは、何人かで連れ立ってよくやってくるが、それにしたって、父親の折檻覚悟で来ているのである。
「さ、青豆豆腐です。冬吉さんがいないとどうしても魚には自信がないので、おとっつぁんは豆腐で勝負しているみたいで」
「ほう、しかし、これはまた、なかなか粋な見目じゃあねぇか。風流風流」
そう言って、お夏が一緒に持って来た酒のお銚子を取り上げた。
お夏は何気なく、辰蔵にもお猪口を渡す。
平蔵は一瞬微妙な顔をしてから、しかめ面で辰蔵に注いでやり、辰蔵は少しおずおずとしながらも、注ぎ返した。
辰蔵が多少なりとも酒を口にする様になってから、まだ一年ほど。
その頃には、平蔵は火頭改頭となって、清水門外の役宅に移っていたので、実は息子と杯を交わすというのは初めてであった。
酒を注ぎ合うという作法も、どこかで見様見真似で身に付けたものなのだろう。
平蔵は説教をするつもりが、息子と杯を交わすという、男親の特権を行使する楽しみに浸り始めていた。
酒は、いつも飲んでいる下りものの上酒ではなく、冬吉が安酒を直して作る並酒。
まだまだ、若い辰蔵には、上物の酒を飲ますのは早い。
あんまり良い酒から入ってしまうと、その後は逆に苦労しそうという親心で、こちらの方が、酒の修行の初め方としては一般的かもしれない。
飲食店で働いているなら、良いものから知るべきかもしれないが、そういう意味では、冬吉のお夏に対するやりようは、やはり、ちょっとした仕返しなのかもしれなかった。
「これなら、冬吉がいなくても草間は心配ねぇな。ほれ、お前も酒と一緒にやってみろ。それだけで食べるのとは、また、違うものだ」
結局、平蔵はご機嫌になって、辰蔵と杯を重ねていく。
隣では、くどくどと丹斎が雪枝に説教を続けていた。
雪枝はあまり真面目には聞いていない。
「酒も飲むなとは言わんが、居酒屋に出入りするというのは良くない。ましてお前は女だてらに剣を学んでおる。普段の振る舞いにも気を付けねば……」
「父上」
半眼になりながら、雪枝は口答えを始めた。
「私、このように美味いものを初めて口にしました。うちでは武家の飯は質素であるべきとおっしゃってましたね。ここには良く来られるのですか?」
女の言葉の針の一刺しである。
雪枝の言葉に、丹斎の説教が口を開けたまま止まってしまった。
「確かに、冬吉殿に会いにここまで来たのは、言いつけ守っておりませぬ。申し訳ありませぬ。しかし、このような美味しいものを外で食べておられたのですか」
「む、いや、付き合いというものもな」
一気に形成は逆転している。
そして、その隣では、楽しそうにせがれと杯を交わす平蔵の姿。
丹斎としては正直羨ましい。
良い年の男というのは、息子と杯を交わすということに憧れを持つようだ。
「おっしゃるように、私は女だてらに剣を修めております。ならば、酒も殿方と同様に嗜んでも問題ないものとも思いますが」
要するに、酒が飲みたいのである。
それほどまで、肴と共に酒を口にする隣の親子の様子が羨ましいのだ。
そして、それは本心では父親である丹斎も同じことであった。
お夏は二組の親子の様子を見てとった。
お夏に対する仗助にしたって、同じようなもので、娘が酒を呑むことには遠回しながら非難めいたことを口にする癖に、一緒に晩酌するのは妙に嬉しそうなのである。
娘の父親というのはそういうものなのだろう。
江戸の世と現代では、倫理観が大きく違うので、親子の関係というのも随分と違うところもあるが、気持ちの上では、そうそう変わるものではないのではなかろうか。
とは言え、一度厳しく説教をしてしまった丹斎が、そこを簡単に引けるものではない。
ここは店として、助け舟を出してやる必要があるだろう。
「ええと、申し上げにくいんですが、そろそろ何か召し上がっていただけると」
「お、ああ、すまぬ。しかし……」
どうしたものかと言い淀む丹斎に、追い討ちをかける。
「ちなみに申し上げますと、お店が終わったあとは、私もお酒をいただくことはあります」
「へ?」
「あちらの、娘さんたちはお酒は召し上がりませんが、良くお店に顔を出します。草間は居酒屋ですが、風割り蒸しとか甘い食べ物も出しますから、娘さん達が足を運んでもおかしくないお店です」
むむ、と丹斎は唸る。
確かに、例えば、猪頭のような店に娘が顔を出すというなら、それは流石にとは思うが、草間は安い割に品の良い店であり、風紀という点でも、お夏とお静の仕切りでおかしなことが起こるような様子はない。
娘が酒を飲むことについては、嗜む程度であれば問題ないとは元々思ってはいるのだ。
「仗助さんはそこのところ、どう思ってる?」
「へぇ、まあ、うちは居酒屋ですんで、店で出すものを口にしたことがないというのもどうかとか、冬吉さんが言うもんだから。今じゃ、新しい肴を考えるたびに、娘の口で出来を確かめるぐらいでさぁ。勝手にどこかで呑まれるよりは、ちゃんと呑み方を覚えさせた方が良いとか、冬吉さんは言いますね」
遠くから声をかけられた仗助が、近くまでやってきて言う。
娘の企みには気づいていたが、ここは合わせた方が良いと考えた様子だ。
「なるほど。それも一理あるか」
雪枝は期待に胸を膨らませている。
そのうちに、お夏は並酒を冷やで用意した。
お静は丹斎の分の青豆豆腐と煮染めを持ってくる。
なし崩しに、丹斎も雪枝と杯を交わす。
「この煮染めな、そこの小僧が作っているんだそうだ」
「え、あのような子どもがこれほどまでの……」
家では食事は近所のおかみさんに用意してもらっているのだが、こんな美味い煮染めは食べたことはない。
「半年間、みっちり煮染めを作るだけの修行を続けたんだそうだ。何事も根気というのが大事ということだな」
などと、しかめつらしいことを口にしながら、顔はにやけだしている。
程なくして、親子二組はそれぞれお銚子を七本ほどをあけてしまった。
平蔵も丹斎もいつも以上にきこしめして、大変ご機嫌である。
酒をあまり呑み慣れない辰蔵、初めて口にしたという雪枝も、冬吉の直した並酒が随分口にあったようで、お夏の指示で仗助が繰り出す様々な肴とともに、ぐいぐい飲んでしまった。
『さて、頃合いね』
お夏は、ちらりと平助の方を見た。
未だに衝立の陰で、酒をちびちびとやっていた平助もお夏と目が合うと、ニヤリとして、上物の酒が入ったお銚子を持って、入り口の方の親子に近づいていく。
「これはこれは、長山様、丹斎先生もご機嫌麗しゅう」
「おお、樋口先生ではないか」
答えたのは丹斎である。
同じ剣術道場の主人として、多少は親交があるのだ。
正助は自分のお銚子から上物の酒を平蔵、丹斎の順にお酌した。
それを二人が口にした瞬間、素早くその息子娘にも酌してしまう。
「実はですの。ちょうどご相談がありましての。しばらくの間、二日に一度ぐらい、長山様の御子息と、丹斎先生の御息女をお貸しいただけませんでしょうか?」
やたらと丁寧に申し出る。
正助は酒は入っているが、この親子に比べれば酔うほど飲んでいない。
時間をかけ、肴にも気をつけて、水を挟みながら飲んでいたので、ほとんど素面であった。
「んん、おお、堅っ苦しいことは言うに及ばんよ。こんなでよければ好きにしてくれ」
「うちの倅なんて、頼まれればどこにも貸し出すわさ」
すっかり、良い感じのだらしない父親二人。
「はて、私たちを借りたいと?」
「何かお力になれることでもございましょうか?」
若い二人も顔を赤くしており、特に雪枝については、頬を染めて目もトロンとしてきているので、随分と艶かしい見目となっていたが、父親に比べると幾分しっかりしているようであった。
どうも酒に酔うと言うのは、自覚してしまった方が、より酔うのである。
酒を呑み始める年頃になって、初めてきこしめした時にはやたら強いと思われていた者が、一度、大酒を食らって二日酔いになると、それ以降は急に弱くなってしまうことがある。
これは、酔っていることを自覚できてないうち、酔うことに慣れていないうちの方が、見た目はしっかりした感じになると言うことに過ぎない。
アルコール代謝能力とは関係のない話なのである。
「実はの、うちの道場、水野様が先日の試合をきっかけに随分喧伝くださったようで、急に入門を望む者が増えてしまっての。猫の手も借りたいのじゃ。今は冬吉さんもいないし、師範代の木村も怪我で稽古をやれないもので」
辰蔵も雪枝も気がついた。
つまり、代稽古をして欲しいと言う申し出だ。
まだ若いが二人とも目録に達した剣士である。
初心者に稽古をつけるぐらいなら難はない。
「昼間に行列ができておられるのは拝見いたしました」
「娘御まで並んでおられましたね」
ニヤリと正助が頷いた。
実はこの二人は誘えば来てくれることはわかっていたのである。
本所くんだりまでやってきた理由は、冬吉に会うこと、できれば昵懇になって、頻繁に教えを乞う機会を得ることにある。
雪枝については、さらに踏み込んだ考えだろうが、それはどうせ無理と言うもの。
せめて、同じ道場に通えるようになれば、何がしかの機会は得られるものとぐらいは考えるだろう。
よって、難関になるのは、息子娘が冬吉の迷惑になるのではないかと危惧し、おまけに自分の行きつけの店に息子娘に入り浸れたくないと考えていた、二人の父親である。
とは言え、達人たる二人も、ここまで酔ってしまえば不覚をとる事になる。
お夏とは直接相談はできていないが、おそらく考えは同じ。
冬吉は面倒臭がるだろうが、どのみちこの二人が、親の折檻覚悟で本所にやってくることを防ぐ手立てはない。
ならば、あくまで剣術家として親交を深められる道場で会うようにすれば良い。
雪枝については、辰蔵と一緒であることが役に立つ。
言うなれば、お目付役だ。
本人の雪枝への想いからすれば、これも喜んで引き受けるであろう。
不都合なのは父親二人。
しかし、この一時ですっかり息子娘と杯を交わすことに悦を覚えた二人なら、渋々了承するだろうし、強いて言うなら被害者は、冬吉だけだろう。
「是非に、お力になれるのであれば。父上、よろしいでしょう?」
「私も、娘さんたちに剣を教えると言うのも面白いと思います。これも女武道の務めではないかと」
二人は説得するように親に話しかけるが、すでにそんなことは不要であった。
「んっ、ああ、好きにしろ」
「どうせ好き勝手やるんだから」
もう、二人の父親は正体不明であった。
普段はここまで酔ったりはしないのだが、実は上酒の下りものよりも、冬吉が直す並酒の方が酒精は多少強いのである。
さらに、普段なら注文されてから出す肴をお夏は今日に限って、次々にお店からお勧めを出していたため、酒を干す勢いはいつもよりも数倍であった。
と言うわけで、辰蔵と雪枝の二人は翌日から一日置きに樋口道場に通うこととなった。
冬吉が通うのは三日に一度。
二回に一回は二人と会うこととなるし、帰りに店に寄ることもあるかもしなれない。
お夏の目論見としては、辰蔵と一緒に来るなら店に害もないし、ひょっとしたら辰蔵が頑張れば雪枝とうまくいくこともあるかもしれないと思うのだ。
仮にそうならなくても、すでに草間の肴に虜となった雪枝なら、どうにでもあしらえると考えている。
「なんだかすっかり、悪巧みの才は引き継がれちまったみたいだなぁ」
「ま、仗助さん。今のところ世のためになるかどうかはわからんけども、悪いことはしてないんだから、いいでねぇかい?」
仗助のぼやきに答えたのはお静だが、二人ともニヤニヤしている。
厨房の影では、熊七が小さく震えていた。
二人の父親が二日酔いの頭痛に悩まされながら、はめられたことに気づくのは、翌朝のことであった。




