雷鳴のお夏
初夏の陽気で汗ばむ季節になっているので、暖簾を出した草間は入り口の戸を開けっぱなしにしている。
そこから、大柄な青年と男装の女性が入ってきた。
少しきょろきょろとしながら、妙な緊張感を纏った二人は、探る様な視線を厨房に向けながら、お静に案内されて入り口に近いところに席を占めた。
「酒はいらないので、茶か白湯と何か軽いものを」
店としてはつまらぬ注文である。
これでは、お夏が草間に来た頃の、追っかけ娘たちと変わらない。
しかし、お夏はすぐに気づいた。
いや、気付かぬ方がおかしいのである。
女武道などそうそういるわけではない。
しかも、良く見れば中村丹斎の面影が僅かにある娘は、間違いなく中村雪枝であろう。
男の方もすぐにぴんときた。
こちらは、真面目そうで雰囲気は違うが、頑丈な体と少し厳つい顔、今の長谷川平蔵を若くしたら、まさしくこの様な男になるはずだ。
長谷川辰蔵に間違いあるまい。
経緯の複雑な二人がなんで連れ立ってとは思わぬではないが、お夏の目論見通り、冬吉が試合で優勝したことによる、集客効果がついに現れたと言うことである。
が、当事者でもあるこの二人がとなると少々厄介だ。
特に雪枝については、丹斎からその心算を聞いているから油断ならない。
お静はすでに臨戦態勢である。
冬吉に懸想する娘たちを追い出すことを至上の務めと思い定めているこの老婆がいる限り、雪枝のその想いが遂げることは、まずあるまい。
雪枝については父親である丹斎から、迷惑をかけるかもしれないと忠告されていたし、名が広まればその分、面倒な娘たちが現れることも想定していた。
お夏の考えたこうした娘達への対策の一は、
『美味いもので黙らせる』
である。
どんなに思い詰めた娘達も、草間の絶品の料理に舌鼓を打てば、食べている間は大人しくなる。
『美味いものを食わせとけば、女は黙ると思ってません?』
これが口癖のお夏であるが、これもまた一つの真実なのである。
まずは、美味いものを食わせて、少しの間、冬吉への集中を途切れさせる。
それで、冷静になればよし。
そうは行かない場合は、お夏の口車の出番である。
多くの女は口が達者であるが、お夏にかなう娘はそうそうはいない。
何せかつては稀代の詐欺師であった仗助の娘なのだ。
ぽんぽんと理屈を捲し立てられ、けむに巻いて、いつの間にか説得されてしまったと言うのは、草間の客の多くが経験していることである。
最大の被害者は冬吉本人であろう。
それすら通じぬ様な相手であった場合に初めて、草間の守護神お静婆が参陣する、と言う手筈になっている。
「娘、こちらは?」
「風割り蒸しと申します。この店の名物の一つです」
ぶっきらぼう、と言うよりも、お夏に対して、敵意を向ける様な態度で尋ねてきた雪枝に、お夏はいつも通りの態度で答えた。
一緒に棒茶も出している。
これも、想定通り。
武士の娘、それも女武道ともなれば、町娘を見下していることは多いだろう。
雪枝は本来はそう言うたちではないのだが、冬吉がらみとなれば、そうも行くまい。
冬吉の店に妙齢の娘がいたとなれば、焦るのもわかる。
しかし、相手はお夏である。
男勝りとか、喧嘩っ早いとかと言うことはないのだが、お夏は『お侠』な娘なのだ。
お侠とは、元々は男性にも使われた言葉で、江戸っ子らしい、快活で思い切りの良い人なりを表す言葉である。
人に見下されて、引き下がる様な者をそうは呼ばない。
同年輩の娘に見下されては、看板娘の名が廃る。
いつも通りの笑顔を浮かべた客あしらいをしながらも、いつも以上に背筋が伸び、何か異様な気迫が籠る。
厨房の入り口近くで、田楽の準備をしていた熊七が小さく震えていた。
「お夏っちゃぁんっ!あっ!」
いつもの追っかけ娘達が連れ立って店に現れた瞬間、入り口近くの二人を見て顔色が変わった。
二人に樋口道場への道を教えたのはこの娘達である。
辰蔵と雪枝は、道場の門人から草間の場所も聞き出したが、本所は武家屋敷と町人街が不規則に配置された街並みで、道順を聞いてもわかりにくく、迷いやすい。
二人がここにたどり着いたのが、夕刻になったのはそれ故である。
追っかけ娘達は、樋口道場への道順を教えたが、後になって、これはお夏が困ることになるのではないかと考えてやってきたのだ。
お夏は娘達を奥に通してから片目を瞑って見せ、小声で囁いた。
「大丈夫ですよ。今日は冬吉さんはいないですし」
しかし、追っかけ娘達には、その笑顔の後ろに、稲妻が光る幻影を見た。
入り口近くからは、雪枝の刺す様な視線がお夏に注がれている。
辰蔵と雪枝は風割り蒸しを食べて、驚愕した。
「これは、最近父の役宅を尋ねたときにで食べたものと同じです。帰りが遅いときに、母のご機嫌とりに土産として買って来るとか」
「私も先日、父が買って来たのを食べました。後ろめたそうにして、やはり遅くに帰って来たときに」
これはまずい。
二人とも居酒屋に通う癖は持たないが、酒飲みにとっては、行きつけの居酒屋というのは、仕事からも家庭からも離れられる憩いの場なのである。
そこに知らずとは言え、息子娘が足を運ぶ。
これは飲兵衛にとっては、面白くないことに相違なかった。
まして、二人とも父親には、冬吉と接触することを止められている。
もし、今この時にやって来たなら、面倒な説教を喰らうことになる。
しかし、風割り蒸は美味い。
どちらかというと甘党の二人は、不安に思いつつも、匙は止まらない。
本来の目的も忘れ始めていた。
さらにお夏が畳み掛ける。
「もう一品いかがでしょうか。こちらは、ちょうど今日から新しく品書きに入ったものです」
蒲鉾板の上には、拍子木に切られた、碧い豆腐の様なものが二つ、それに褐色のものと、鮮やかな赤のタレの様なものが添えられている。
色味の良い、見た目も楽しめる一品である。
「青豆豆腐です。もろみか、梅醤を少しつけてお召しください」
冬吉のことを尋ねたいと思いながら機を伺っているのだが、料理が運ばれてくると、それどころではなくなる。
辰蔵は青豆豆腐を箸で切り、もろみ味噌をちょっとだけ乗せて口に運んだ。
もろみ味噌の塩気と濃い味わいの後に、枝豆の甘みと初夏らしい豊かな香り、それに続いて、上品な豆腐の風味が次々と舌の上に広がっていく。
次に、梅醤をつけてもう一口。
鮮烈な梅の香りと酸味から始まると、また一味違うものとなる。
さっぱりとしていて、これもまた美味い。
酒をあまり呑まない辰蔵も、冷やで一杯やりたくなる。
雪枝も全く同じであった。
道場主の娘として、食べるに困ったことはないが、普段の食事は質素である。
こんな美味いものがあったのかと、初めての体験に陶然となった。
そして、二人は冬吉について尋ねることも、父親のことも完全に忘れた。
「ふふん、他愛もない」
厨房の陰で小声ながら不敵にお夏が微笑む。
『こいつぁ、うちの娘の貫禄勝ちだな』
仗助は、口には出さないが、ニヤニヤしながら腹の中で喝采した。
冬吉とどうこうなってほしいとまでは思っていないが、お夏の行末を考えると、道場主の娘なんぞに嫁いでこられては先々都合が悪い。
「おでの出番はないねぇ。お見事」
お静も、人の悪い笑みを浮かべながらささやく。
熊七だけは、訳がわからないという感じで首を傾げながら、何か悪巧みが展開されていることだけは感じ取ったらしい。
正助は衝立の陰で横になって休んでいた。
座布団を並べて寝床にし、折り曲げたものを枕にして、さらにお夏が持って来てくれた、本来冬吉のものである薄手の半纏を胴に掛けて寝そべっていたのである。
実際に寝ていたのは、ほんの四半時(三十分)程度であったが、随分とすっきりした。
「大丈夫ですか?」
「うん。だいぶすっきりした。寝たらまたお腹が減って来たよ。何か肴と酒ももらおう」
玉子豆腐で栄養もとっていたので、だいぶ元気になったのであろう。
お夏が何も言わなくても、声が聞こえていた仗助は、熊七に青豆豆腐を準備させる。
青豆豆腐の様な料理の良いところは、作り置きが利くことである。
そう何日ももつわけではないが、少なくとも仕込んだその日のうちなら、切り出して、盛り付ければ出すことができる。
こういうものは、熊七にまかせやすかった。
熊七は手先が器用だったり、美的感覚に優れているというわけではないが、手本さえ一度見せ、説明してやれば、あとは自分で考えて同じ様にすることはできる。
そうして繰り返し、冬吉や仗助の『まね』をすることで、いずれは自分なりの技を磨いていける様になるはず、と言うのが冬吉と仗助の考えであった。
お夏の言う、『何か一つぐらいは冬吉さん以上のものを』と言う考えも、間違ってはいないが、教育論的には、ここはじっくり時間をかけて、基礎を固めてからと言うのが定石である。
正助は寝ていたが、自分以外に何名か客が入って来たのは、気づいていた。
目を覚ましたので、さて誰がいるのかと、耳を済ましてみる。
衝立越しであるし、覗き見るのも怪しいので、その声と気配だけで探る。
優れた剣客であるならば、鋭敏な感覚を持っていてあたり前であった。
衝立の向こうには、いつもの追っかけ娘達。
道場にも冬吉がいる時にはよく覗きにくるから、正助も顔見知りである。
今日はいつもより随分おとなしい。
いつも喧しくなって、お夏に注意される娘達が、何かヒソヒソとしている。
その理由はその向こう、少し離れた入り口近くにいる二人組だろう。
そっと衝立の横から覗いてみた。
二人とも若い。
何やら一心不乱に口にものを入れているが、時折聞こえる唸る様な感嘆の声は、追っかけ娘達と同年輩と思える。
一人は男でもう一人は女。
肴を褒める言葉使いから、両方とも武家の者であることは間違いない。
そして、肴を食べているだけとは言え、樋口正助には、二人はなかなかに武の心得があるのではと思われた。
夢中になって食べている割に、箸や匙の動きが折り目正しく、落ち着いている。
堪らぬと言う様に、ふうとため息をつきながらも、気が抜けていない。
これは気になる。
「お夏さん、入り口にいるお二人、何者かね?」
青豆豆腐を持ってきたところで、小声で聞かれたお夏は、幾分驚いた顔になったが、すぐに合点した。
優れた剣客というのはこういうものなのだろう。
冬吉も、平蔵や山根十内が現れる時は、入り口に彼らが立つ前から肴の用意を始めたり、仗助や熊七に田楽を焼き始める様に指示することがあった。
そして、もう一つ、お夏には正助が持ち込んだ問題を解決する道筋が見えたのである。
「はい。えっと、先日の試合で冬吉さんに黒星を付けられた、長山様の御子息と、武衛館の巴の御前様です。多分、冬吉さんに会いに来たのだと思うんですけど……」
「冬吉さんは留守だとは伝えたのかね?」
「いえ、聞きたそうな顔をしていましたが、風割り蒸しと、この青豆豆腐を召し上がっていただいたら、どうも忘れてしまっている様で」
正助はニヤリとした。
「お夏さん、なかなか悪いね」
「ええと、何のことやら」
と言いながら、二人は邪悪な笑みを浮かべて頷き合った。




