火盗改
「すまぬ、気を使わせてしまったようだな」
「いえ……」
大柄な武士の言葉に相づちを打ちながら、新しく燗をつけた酒を酌し、自分も手酌して呑み始めた。
漬物を肴にして二人で酒盛りを始めるていであるが、冬吉はこの男を知っているわけではない。
ただ、はじめから浪人とはとても思えないこの男が、ご用の筋ではないかと勘ぐっただけである。
奉行所の同心ならわざわざこんな時間まで待っていないであろうし、そもそも町の御用聞きに聞き込みをさせるのが先である。
お忍びのような形で来ているとしたら、また、特別な理由があってのことだろうと思い、二人になれるように段取りしたのだ。
「お武家様は奉行所の?」
「ふむ、そう疑ったか。少々違う」
やはり、うまそうに漬物をついばみ、愛おしそうに酒をなめてから、そう答える。
「すると、火盗改の方で?」
冬吉の言葉に初めて男は驚いた顔をした。
それも一瞬のこと、にやりと口をゆがめてから、再び酒をのどに流し込み、少し顔を赤らめ、ガハハと大きな声で一笑いしてから話し出した。
「なかなか鋭いな。火盗改同心、長山平三郎と申す。昨夜の件でニ、三尋ねたくてな」
「しかし、辻切りの件は凶悪とは言え、火盗改の取り扱いとは違うのではないですか?」
先ほど同様、にやりと口元だけで長山同心が笑った。
火付盗賊改方は、江戸の町政全般を担う町奉行所とは独立の治安維持を専門とする組織である。
本来、役方(文官)の奉行所と違い、番方(武官)であるため、機動力と武力に優れているが、その主な役回りは、付け火と盗賊、それも大規模な盗賊団の取締りを主目的としている。
スリや鼠働きのこそ泥をお縄にすることもあるし、治安維持が目的であるから、殺人も取り扱わないわけではない。
しかし、今回の辻斬りについては、すでに奉行所に届け出ているため、火盗改が後から動き出すというのは、そうそう考えられることではないのだ。
「よくわかっているな。居酒屋の主が奉行所と火盗改のお役目の違いを知っているのか」
実際にはお役目の違いというよりも、両者の確執について知っているということであろう。
奉行所と火盗改は、その役割に重なる部分が多く、捜査や捕り物の主導権を巡って争いが絶えない。
しかし、普通の町人がそんなことを理解しているというのは、考え難い。
察しが良いのは冬吉だけではなかった。
カマをかけられているのは冬吉にはわかっていた。
別に隠し立てをするつもりはない。
お静婆や客たちに知られても、大して困るわけではないことなのだ。
単に口に出す必要もないだけである。
「お察しの通り、元は士分でございます」
「どちらの?」
「草間冬士郎が元の名でございますが、生国と国を出た事情については平にご容赦ねがいます」
改まった態度でそう答えた冬吉を、長山同心はじっと見据えた。
元は士分であったものが、事情あって町人になるということはないでもない。
浪人して仕官がかなわなければ、思い切って商売を始めるということは、元手さえあればやれなくもないし、商家に婿入りして町人になることも珍しくはない。
しかし、冬吉からは、食うに困って店を始めたというような卑屈さが感じられないうえに、一人身である。
「いや、そなたの事情はいい。聞きたいのは辻切りのことと、そなたの腕前のことだ」
もう一度、すでにわずかにしか残っていなかったぐい呑みを仰ぐと、すかさず冬吉が酌をし、すぐに長山同心が酌を返す。
無言のやり取りの中で、冬吉は長山を信用すべき相手と確信した。
相手のことを勘ぐることは、失礼にあたるだけでなく、武士にあってはらしからぬことであった。
武士とは恥を知る者である。
恥を忍び、『ご容赦願いたい』と言ったことを、さらに聞き返すことは道に反することなのだ。
長山のこの態度は昨今には珍しいほど武士らしいものであった。
「先ほどのおやじたちの話、遠目から釘を投げたとのことだが?」
「手裏剣術をかじったことがございまして。しかし、暗闇の中でもあやつはそれをたたき落として見せました」
「それは確かに恐ろしい手練れだ。どうやって追い返したのかな?」
特にここが聞きたいと言うように身を乗り出してきた。
もちろん、伊八の話にもこの下りはあった。
しかし、剣術に明るくない大工にはわからないこともある。
その時に冬吉が口にした言葉は、伊八には理解できず、話からは省かれていた。
「八双に構えた男が踏み込んだとき、そやつの流派がわかったので看破したまで。動揺の隙をついて再び釘を投げましたが、これはかわされ逃げられたという次第です」
「ほほう……なぜ流派が? いや、そもそもどこのだね?」
さもおもしろそうに聞いてくる。
とても、探りのために来ているとは思えない。
単なる剣術の談義のような気楽さであったが、やはり、目は笑っていない。
決して嘘や誇張は許さない厳しさが、ニヤけた口元から発せられる言葉に宿っている。
「新陰流と見受けました」
その刹那、ほんのわずかの一瞬だけ、長山同心の目が光ったのを冬吉は見逃さなかった。
新陰流は将軍家の流派である。
新陰流の使い手は江戸では旗本の子弟など、身分ある者に多い。
「なぜかな?」
冬吉が語るその理由は実に明快であった。
冬吉は先に斬られていた浪人を死に至らしめた技が、『逆風の太刀』であることをまず見破った。
刀傷は右肩から左脇に抜けている。
そして、右腕を切りとばされている。
辻切りの構えは右八双、そのまま袈裟斬りにすれば、左肩から右脇に抜けるはずである。
逆風の太刀は最初に籠手を狙った斬撃をわざと外し、その隙に面を狙って打ち下ろされる腕を内側から切り上げる。
後の先を取る奥義と言っていい秘剣であった。
逆風の太刀は新陰流の技である。
辻切りは浪人を相手にして、右手を切りとばした後、そのまま右肩から左脇に切り下ろしたのである。
おそらくは、冬吉に対しても、わざと外した一撃の後に、釘を投げようとする瞬間を狙って仕掛ける気であったのだろう。
冬吉はこのことをそのままに答えた。
「ふぅむ……しかし、包丁のこともなかなかだが、剣術の眼力も相当なものだな。新陰流を修めているわけではあるまいに」
「国元では中条流を学んだことがございますが、あとは浪々江戸に流れるまでの間に、各地の包丁のこととともに見覚えただけにございます」
中条流の歴史は古く、特に小太刀の技が有名であるが、冬吉は料理にしろ剣術にしろ、とことんやる質である。
探求心が旺盛であり、優れた技を見れば、その術理を理解しなければ気が済まない。
料理についても同様で、それ故に諸国の珍味に精通し、しかも美味にこしらえることができるのだ。
長山同心は自分から何かをしゃべる決心をしたようであった。
「その、新陰流の使い手だが……」
「旗本のご子弟ということでしょうか?」
「察しのよいことだ……」
御用聞きが尋ねてこない理由がこれである。
この長山と名乗る同心が、聞き取りではなく、一客として現れ、閉店後にまで残っていたのもこれが理由なのであろう。
身分ある者の縁者が下手人とあらば、おいそれと町奉行所や火盗改が捕縛することも難しくなる。
「奉行所だけでなく火盗改にまで圧力を掛けてくるとなると、相当に権勢あるお家柄とおいうことでしょうか?」
火盗改は江戸の治安を守ることについては、特別な権限を持つ。
やり方も少々荒っぽい。
辻切りなど殺人の取り扱いは、奉行所のものであることが本来だが、凶悪な犯罪であれば、機動力と武力に優れた火盗改が動くこともある。
その火盗改の今の長官は、鬼とあだ名される長谷川平蔵と言う男だ。
かつては、草間のある本所の界隈で名うての無頼だったといわれ、世事に通じ、幕閣からも恐れられる男であった。
必要があれば、相当に乱暴なことでもやってのける。
それでも手を出せないとなれば、圧力がかかっただけでなく、相当に難しい事情も絡んでいるのであろう。
「大身の旗本の子弟が辻切りを行ったなどとなれば、当然のごとくお取り潰しも免れ得ぬ。しかし、取り潰すわけにもいかぬ家というのもあってな」
陽気な長山の言葉に初めて暗いものが漂った。
納得がいかぬ、というよりも、己の無力感に耐えているような様子である。
だが、それだけではないように思われるのだ。
まさか、愚痴るためにわざわざ第一発見者のいる居酒屋に現れたとは思われないし、口振りが気になる。
「しかし、このままでは辻切りの被害者は増えるばかりだ」
おそらくは、下手人はわかっているのであろう。
にもかかわらず、辻切りが止まることがないとなれば、手のつけられない人物ということになる。
仮に罪を追求できなくとも、身分ある家ならば、致命的なことになる前に不貞の輩を自由にさせない方法はいくらでもあるはずであった。
「それでは、伊八さんを家に返すこともできませんね……」
「伊八だけではない。むしろ、一番狙われているのは、そなたであろうな」
辻切りの動機は、被害者とその腕前からおよそ想像がつく。
新陰流の達者である下手人の腕試しであろう。
刀持ちの浪人ばかりを狙い、三人目には、かなりの腕前の男を斬っている。
伊八だけは違うが、これは現場を見られたから斬ろうとしていたにすぎない。
「見られたからではなく、斬れなかったために狙われるということですか」
「そうなる。そなたなら、むざむざと斬られることもあるまいが、丸腰はまずい」
冬吉は長山の意図を察した。
一度、自分の寝間がある二階に上がり、一本の刀を持って降りてきた。
「大脇差か。中条流を修めたというのであれば、またとないものだ」
「上州を回っていた際に買い求めたものです。無銘の安物ではありますが」
上州は剣術が盛んで、士分でなくとも道場に通う者が多い。
武士でなければ帯刀は許されぬものの、大脇差は太刀には含まれない。
よって、上州では無頼の輩に限らず、一般の町人であっても、自衛のために大脇差を持ち歩く者も多い。
江戸であっても、大脇差は町人の姿をした冬吉が持ち歩いても、咎められない武器であった。
長山は深くうなずいた。
「ふむ、深夜の仕入れは危なかろうが、気をつけてな」
それだけを言いおいて、多めに勘定を置いて店を出ていった。
冬吉は何も言わず、じっと背中を見送るだけであった。
昨夜、伊八を追って走った道を、今度はゆっくりと歩いて進む。
別に酒に酔ったわけではない。
冬吉は酒に強く、一升を空けても様子が変わることがないほどだ。
ゆっくりと歩きながら、油断なく周囲を警戒していた。
腰には大脇差を手挟んでいる。
先日、伊八が襲われた場所に通りかかった。
冬吉はすでに気づいていた。
自分を観ている二人の視線にである。
一人は川縁の暗闇から、もう一人は後方から、店を出てからはずっとつけていたのだ。
川縁から道の真ん中に出てきた男が無言で太刀を抜いた。
おそらくはそれなりの業物であるに違いない。
それを今夜は八双には構えず、右手に持ってだらりと下げた。
『無形の位』である。
新陰流の『活人刀』では、本来、『構え』を嫌う。
『構え』は様々な様相をていする斬り合いの場にあって、動きを制限するものと考えているからだ。
活人刀とは先に相手に攻めさせながら、それを外して逆転の一撃を仕掛ける「後の先」を取る戦い方のことである。
対して、「先の先」を取り、自分から仕掛けてそのまま敵を圧倒する戦法が「殺人刀」である。
右八双に構えず、無行の位を取ったのは、冬吉を油断ならぬ敵と認めたからであった。
冬吉は静かに大脇差を抜いた。
青眼に構える。
だが、仕掛けない。
ただただ静かに構え、瞬きもせずに男をじっと観る。
男は昨晩と同じ八双に構え直した。
無形の位をとっていられなかったのだ。
冬吉から攻めることはない。
冬吉を斬らねばならなかった。
人が通っては面倒であるし、何より、昨晩切り捨てた三人とは違い、釘だけを武器にした冬吉から、自分は逃げ出した形なのだ。
自尊心の強いこの男には、それが我慢ならなかった。