居酒屋草間
「はい、鰯のなめろうだよ」
「おっと!待ってました。酒ももう一本くれ」
「はいはい。たんと召し上がれ」
元気の良い老婆の言葉に、やはり元気よく、中年の男が答える。
男はいかにもうまそうになめろうをつつき、いとおしむように酒をなめた。
さして広くはないが、掃除の行き届いた店内には他にも数名の客がいた。
給仕の老婆と、まだ若い包丁人の店主だけで営む居酒屋である。
江戸時代の居酒屋というのは、その発祥は量り売りの酒屋、持ち帰って飲むための酒を売る小売店である。
その酒屋が一種のサービスとして、店先で立ち飲みできるようにしたことから流行した。
この『居酒』が流行ると、店同士のサービス合戦が始まった。
店先に立っているようでは、通行の邪魔になりかねないし、お銚子と盃で両手が塞がっていては不自由なので、店の隅にカウンターのように台を作ってそこで飲む『角打ち』ができるようにしたり、田楽などの簡単な酒の肴も提供するようになっていく。
さらには、酒の肴がうまければ、酒もどんどん売れていくので、様々な酒肴が開発され、提供されるようになる。
いつの間にか、量り売りの小売店が、長椅子や座敷を置いて飲食店へ変化して行ったのだ。
この居酒屋は、『肴の美味い店』として、本所では知る人ぞ知る店だ。
なめろうは鯵や鰯などの青魚を味噌と酒、それにネギやしそなどの薬味と一緒に、粘りがでるまで細かくたたいたもので、食べ終わった後に皿まで舐めたくなるほど美味だと言われる。
鰯は鯵よりも身が柔らかいので、うまくなめろうにするには、それなりの包丁の技が必要だ。
なめろうをつついている男は伊八と言う。
伊八は腕の良い大工で、本所界隈の頭領の間でも評判が良い。
流しの大工だが、仕事に困ることはほとんどなく、忙しくないときはこうして毎日のように居酒屋に現れる。
寛政二年、このころの本所は新興開発地域もしくは復興中の地域と言ってよく、伊八のような大工の仕事も多いが、浪人や無宿などもたむろし、あまり治安はよくない。
伊八が毎日通う居酒屋『草間』ができたのは、一年ほど前のことである。
主はまだ若い男だが、すらりとした長身に、地味だがいつもこぎれいな装いをしており、近所の娘たちにも人気がある。
細面で目鼻立ちは優しげ、眉はきりりとしていて、役者が務まりそうな美形だ。
この男、冬吉は無愛想というわけではないが、あまり自分のことを話したがらない。
それゆえに、ますます、娘たちのあらぬ妄想を誘い、同年輩の男たちからは謂れのない嫉妬を受けている。
と言っても、実際に喧嘩を売ってきた破落戸などは、軽くひねってしまう程度には腕っ節も悪くない。
近所の道場で稽古をしており、棒きれ一本持とうものなら、五人や六人はあっと言う間にたたきつぶせるほどであるという。
喧嘩も剣術も一級品と言えるが、包丁の技もかなりのものである。
伊八がつついている鰯のなめろうは、この店の名物だ。
どこで修行したかはわからないが、津々浦々の料理に通じており、値の張る食材は使わないものの、毎日通う常連を飽きさせることもない。
酒も相当に吟味しているようで、実に美味いのである。
伊八は五年前に女房を流行病で亡くしてからは独り身で、晩飯はほとんどこの店で済ませている。
色男の若造に嫉妬するような歳でもなく、物静かな冬吉のことがすっかり気に入っているのだ。
だいぶ夜も更け、客も伊八だけとなった。
伊八もいつも通り、ほろ酔いで勘定を置いて帰っていったが、暖簾をおろした冬吉に向かって、老婆のお静が素っ頓狂な声を上げた。
「あれまっ!伊はっつぁん、大事な商売道具を忘れてるよっ!」
見れば、伊八のいたあたりの隅に、重そうな巾着が置いてある。
中は釘が入った小さな木箱で、修業時代に自分でこさえたものだ。
肌身はなさず持ち歩いているものであった。
「お静婆、ひとっ走り届けてくるから、掃除が済んだら帰って休んでくれ」
「あいよ」
冬吉は巾着を持って、走り出した。
伊八の家はさほど遠くないところにある貧乏長屋である。
稼ぎは悪くないのに、女房が死んだ後は無精を理由に、寝間だけあれば良いというていで住んでいるのだ。
伊八が出てから少したってはいるが、酔いどれの千鳥足である。
若い冬吉が走ればすぐに追いつく。
長屋まで、まだ半分程度の川沿いの道で見つけることができた。
が、様子がおかしい。
夜目の利く冬吉には、伊八は腰を抜かしたようにへたりこんで、ふるえているのが見えた。
その向こう側にもう一人、人影が見える。
僅かな月明かりに刃が光った。
キンッという音が小さく鳴った瞬間、冬吉は伊八の前に回り込んで身構えた。
とっさに投げた釘を、夜の暗闇で、おそらくは勘のみでたたき落とした男は、頭巾で顔を隠していた。
太刀を構えるその姿は、まごう事なく一流の剣術家のものだ。
「できる……」
冬吉はつぶやいた。
釘を投げた技は、手裏剣術である。
幼少のころに習っただけのものだが、それを暗闇でたたき落とすなど、尋常な腕ではない。
釘が空を切る風音、月明かりの僅かな反射光だけに反応したのだ。
意識してのものではない。
血の滲むような修練の果てに得られる直感に、体がそのまま反応した、そうとしか思われない。
もう一つ気づいたのは、太刀の刃がすでに塗れていることである。
月明かりに照らされたそれには、ぎっとりと血油がついていた。
伊八は斬られてはいない。
素早く目だけで周囲を確認すると、浪人風で大脇差しを抜いた男が倒れていた。
暗闇でよくはわからないが、おそらくはすでに事切れているのだろう。
右腕が切り落とされ、右肩から左脇にかけて、見事に袈裟掛けに斬りおろされていた。
頭巾の男が右八双に構えた。
冬吉は釘を右手に三本持ち、いつでも投げられるように構えつつ、左手を前につきだす。
男が踏み込もうとした刹那、冬吉がぽつりとつぶやいた。
緊迫した場に似合わぬ、のんきな声で。
「逆風の太刀、新陰流か」
男の踏み込みが止まった。
刹那、冬吉が投げた三本の釘を男は飛びのくようにかわした。
川岸の草むらに飛び込み、用意の良いことに隠してあったのだろう、船をこいで逃げていくのが、伊八を助け起こした冬吉には見えていた。
翌朝には、近所はこの噂で持ちきりであった。
辻切りは実に三名もの被害者を出していたのである。
いずれも、本所界隈にたむろする浪人ではあったが、最後に斬られた大脇差しを抜いた男は、道場で目録の腕前を持つほどの剣士であった。
伊八はその男が斬られた瞬間に出くわしたのである。
しかし、なぜか奉行所の同心や御用聞きからの取り調べが来ない。
早朝のうちにはご用聞きに知らせてあるのに、奉行所は死体を引き取った後は、特に聞き込みをしている様子もない。
唯一の現場の目撃者であるはずの、冬吉と伊八になにも聞いてこないのはおかしなことであった。
冬吉はこうした犯罪の事情に詳しい。
まともな同心なら、下手人を捕らえるためにも、まずは二人に接触し、場合によってはおとりに使うぐらいのことは考えるはずなのである。
伊八は腰を抜かしていたので、冬吉が背負って店まで連れ帰り寝かせていたが、昼頃には帰ろうとしていたのを止めた。
頭巾をしていたとは言え、凶行の現場を見られた人間を下手人が放っておくとは考えにくい。
伊八も冬吉も、今は命を狙われていると考えるべきであった。
そうは言っても、夕刻にもなれば店を閉めているわけにもいかない。
仕入れにでかけるのは諦めたが、干物や味噌付けにした魚、自分で作る豆腐だけでも店はやれる。
冬吉が辻切りの下手人を退けたと言う噂は、近所中に知れ渡っていた。
どうやら、昼過ぎには仕込みの手伝いにでてきているお静が、出がけに言い触らしてしまったらしい。
おかげで、この夜は大繁盛であった。
伊八もいつも以上に調子良くお銚子を空けながら、その様子を大声で語っていた。
「冬吉っつぁんの迫力ったら。野郎とおいらの間に入って、すごんで見せた時のかっこ良さったらっ。やっこさん、おそれをなして、しっぽ巻いて逃げていっちまったってぇわけだ」
伊八は口も上手い。
講壇師顔負けの語り口は、飲んだくれどもの拍手喝采を受けて、ますます調子づく。
草間はいつになくにぎやかな夜となっていた。
わいわいと飲み騒ぐ店内で一人、入り口近くの隅っこに見慣れぬ客が一人いた。
と言っても、本所あたりには流れ者の浪人や無頼の輩、流しの職人など、新顔はいつでもいる。
ほとんどの客は気にもとめていなかった。
装いは地味だが、きれいに月代を剃った粋な出で立ちで、両刀を束さんだ武士である。
昨日の辻切りよりやや体格もよい。
四十過ぎと見える男である。
静かに、しかし、伊八以上にうまそうに酒を呑み、豆腐の味噌漬けをつついている。
これも手間はかかるが、酒のあてにはもってこいの珍味であった。
豆腐を水切りした後、さらしで包んで酒とあわせた味噌につけ込んで作ったもので、ねっとりとしたうまみと食感が堪らない。
安く良い魚が手に入らない時には、こうした豆腐を使った料理が主役となる。
それを箸で切っては口に運び、少しの間、ほうっと、ぼんやり天井を見上げて味わう。
急ぐでもなく、しかし、間を外さずに酒をなめ、今度は目をつぶって味わう。
この同じ動作をたんたんと続けているのだ。
冬吉から見れば相当な呑み手であった。
酒呑みにも格がある。
酒の楽しみ方はそのしぐさや言動に表れ、十分に修行の積んだ酒飲みは、酒と料理の作り手、相伴する者や単に居合わせたものすら、心地よくさせるだ。
この男はまさしくそれを持っていた。
「はいはいっ!今日はもうお開きだよっ!伊はっつぁんも、今日はもう帰りなよっ!抜けた腰もはまってんだろっ!」
威勢良く客を追い出しに掛かったのはお静婆。
そう言われて客たちは渋々勘定を済ませて出ていく。
お静婆の癇癪をおそれてのことだった。
この老婆は江戸っ子らしい気っ風のよさと、人情味で慕われてはいるが、機嫌を損ねると面倒だということを、みんなが知っているのだ。
伊八も少しふてくされながら、勘定を置いて帰ろうとした。
「いや、伊八さんは、帰ってはいけない。辻切りが待ち伏せしていたらどうする?」
冬吉がいつもより強い口調で言った。
「下手人があがるか、もう諦めただろうって頃までは、少なくとも夜にあの道を歩くのはやめた方がいい。すまないが、今日はお静婆のところに泊めてやってくれないか?」
冬吉の意外な言葉にお静は一瞬呆然とし、次に顔を真っ赤にして怒りだした。
「冬吉っつぁんっ!帰りがあぶねぇってのはわからんでもないが、なんでこんな呑んだくれの、喧しいオヤジを、おれのうちであずからねぇといけねぇのさっ!」
「なにおうっ!やかましいのはどっちだいっ!こんな癇癪持ちの婆の家で寝るなんて、俺だってごめんだっ!」
いきり立って取っ組み合いを始めそうな二人を、冬吉は慌てて引き離す。
二人は冬吉が江戸にやってくる以前からの知り合い同士だが、近所でも名物の口喧嘩の敵同士であった。
「いや、わかった。泊めてくれなくてもいい。俺はそこの旦那と大事な話があるんで、ちょっとだけお婆の家で待っていてほしいんだ」
「……」
「頼むよ。二人とも……」
二人とも怪訝そうに顔を見合わせたが、冬吉の真剣な顔と迫力に押され、素直に店から出ていった。