4話 天使はベッドの上で微笑む
「いやー、ここまで大変でしたねー」
ベッドの上で壁に背中を預けて二人は喋る。
「折角落ち着いたんで、いろいろ話したくて来ちゃいました」
「そうだね。今まで大変だったもんなぁ」
リンネは天井を見上げて回想する。天井には白く光る魔石がはめ込まれていて、そこにここまでの道のりを映し出した。
「いったいどれだけウサギ肉生活が続いたか……」
「あはは……。もうしばらくウサギ肉は遠慮したいですね」
「だね。せめてパンがあればよかったんだけど」
「お金無かったから、ほんとに何も買えませんでしたね」
二人はこのフィエムの屋敷までに五つのオアシスを経由してきたが、何しろお金を一切持っていない。毎回立ち寄っても少しだけ温かさのある草地の上で寝て、盗むようにオアシスの水を汲むだけだった。
「実はちょっとだけ考えてたことがあったんだけどね」
「どんなことですか?」
「マリーの隠れ蓑を売る」
「たぶん、それは私でも全力で止めると思います」
ノルンに真顔で言われ、リンネはたじたじと「冗談だよ」と弁明する。
「まあ、あれを売るだとか、捨てるだとかは考えられないや」
「そうですよ! あんなもの、もう二度と手に入りませんよ?」
「わかってる。それにしても、なんで僕の父さんはこんなすごいものを持ってたんだろうなぁ」
それは、度々リンネが考える事柄だった。まったくもって想像がつかない。
そもそも、リンネの一家がどんな歴史を持ってるのか、親戚がいるかすらわからないのだ。
「もしかしたら、リンネの思ってるよりもお父さんたちはすごい人だったのかもしれませんよ」
「想像がつかなけど、確かにそうなのかも」
おもむろにリンネは立ち上がって机の近くまで行き、机の横にかけてあったリュックをごそごそと漁ってお目当てのマントを取り出す。
「ねえねえ、これでノルンの羽を隠せるんじゃない?」
「えー、ここでそんなことする必要ありますか?」
「いつまでここにいるかわからないじゃないか。ほら」
リンネは可視部である赤色の裏地を表にして、ノルンへひょいと投げた。
ノルンは不服ながらも、自分の羽にくるくると巻く。
「……どうなってます?」
「うーん……」
リンネが後ろから覗くと、確かに羽は透明になっていた。なっていたが……。
「羽が生えてるところまで透明になるから、服が変な破れ方してるみたい。肌がちょっと見えてるね」
「あー、それは嫌ですね。人にこっそりと肌を見られるの、想像しただけで恥ずかしいです」
ノルンがマントを外す。白い羽が露わになり、リンネはゴクリと息を飲んだ。
右手を伸ばしかけたその時、頬を膨らませたノルンが振り返った。
「触ったら怒りますよ」
「……うん、わかってる」
そうだよね、なんて思いながら、欲望に負けそうになった自分の頬をパチンと叩いた。さっきノルンに叩かれたところだったので余計痛い。
「そういえばさ、ノルンって本当に天使なの?」
「ヘンテコな質問ですね。当たり前じゃないですか! 羽のある人間そっくりの種族が魔族にいると思いますか?」
「そう言われても、人間は魔族を全然知らないからなあ。あ、腕が羽の魔族ならいるらしいけど」
「ハーピィのことですか? あんな人たちと比べられたら困っちゃいますよ。ほら、綺麗な脚でしょ? ハーピィじゃゴツゴツの鉤爪なんですからね!」
頬を膨らませて、白いワンピースの下の脚をニョキっと出してバタバタとベッドの上で跳ねさせる。
リンネは一瞬その綺麗さに見とれて、続くベットの揺れで「わかった、わかったから」と笑いながらなだめた。
「どうですか? 他に天使の証明が必要ですか?」
「いや、もう大丈夫。納得したよ。ノルンは天使だね」
「へへー。私は天使なのです!」
何が楽しいのか、今度はご機嫌に脚をパタパタする。心地いい振動を尻に感じながら、リンネはまた視線を照明へと向けた。
ノルンの鼻歌とベッドが揺れる音がする。
「でも、どうして天使がこの世界に?」
特に深い意味はなかった。好奇心からの質問だった。
「……なんでだと思います?」
ノルンが、妖艶な微笑みでリンネをじっと見つめた。
まさしく天使の微笑みだった。心酔するとは、こういうことなのだろうか。リンネは、しばらく身動きがとれないでいた。
青い目は、リンネの全てを見ているようでーー
「ーーちょっと、何わかりやすく固まっちゃってるんですか」
「えっ、あっ、いや、あはは……ごめんごめん」
ノルンに肩を人差し指でツンと突かれ、ようやく我に返ったリンネはあまりの気恥しさに口元を手のひらで隠して、ノルンと反対を向いた。
リンネは自分の鼓動が尋常ではないぐらいに加速してるのを感じて、二回ほど深呼吸をする。
「……でも、きっと大変な理由があるんだろう?」
照れを誤魔化すためにそう言うと、「ええ」とノルンが頷いた。
「ありますよ。とてもとても、大事な理由が」
そう言って再びリンネをじっと見つめるのだから、リンネはたまったものではない。今度は素早く自分の目線をノルンの目から外して、
「そ、そうなんだ」
それがリンネの精一杯だった。
どうやら、リンネの精神の心臓のヒットポイントは残り少ないらしい。
リンネはまた自分の正気を保つべく、頬をペチリペチリと叩く。何度も叩き叩かれた左頬が痛い。
すると、背中から弾むような笑い声がする。
リンネは平静を保ちながら振り返った。そして、頭の動きだけで理由を尋ねる。
「うふふ。……いえ、平和だなぁ、って思ったんです。今まで、すごい大変だったから」
「……ああ、ずっと捕まってたもんね」
「違うんです」
微笑んだまま、ノルンはゆるゆると首を横に振る。
「もっと、もっと辛い時間がありました。こんな風に、少しの時間も落ち着けないような時間が。……だから、今のこの瞬間が、私の中では何よりも大切な時間なんです」
その“辛い時間”を、リンネは一切想像することができない。なぜなら、ノルンは天使であって、リンネが知らないことのすべてを知っているのだから。
だから、リンネは何も言わずに、ただノルンが別のことを話すのを待った。
「……リンネ?」
「うん?」
「どうして泣いてるんですか?」
「……え?」
リンネは自分の目の下を触った。確かに、濡れている。
自覚したら、どうだろう。途端に耐え難い嗚咽に襲われる。大声で、泣き叫びたくなる。
けれど、リンネにはその理由がわからない。今、リンネは心底安心してて、リラックスしていたはずだった。涙を流すような要因は、ひとつもなかった。
今のリンネの記憶には。
必死に声を堪えて、涙を堪えようとしても、それらは波のように押し寄せては悲しみだけをリンネの心の中に残して消えていく。
「な、なんで、だろう」
目を寝巻きの袖で拭いながら、リンネは震えた声のまま話す。
「僕にも、わ、わからない。な、んか、きゅう、に……」
そう話すリンネを、ノルンはどこか嬉しそうに見ていた。
「……それじゃ、私は泣き虫さんが泣き止むまで待ってあげましょう」
「うう……。おかしいな、変だなぁ」
声の震えは止まらない。
結局、ノルンがリンネの部屋を出ることが出来たのは、リンネが赤子のように泣き疲れて眠ってからだった。
ノルンはできるだけ静かにリンネの部屋の扉を閉める。そして、自分の部屋へと向かって、早足で歩いた。
歩いて、歩いてーー走った。
自室に戻ってきた時、ノルンの目元は隠しきれない涙でいっぱいだった。
「あはは……」
何に向けての笑いなのかも、何が嬉しかったのかもノルン自身はわからない。
ただ、ノルンは知っている。少年と過ごしたいくつもの世界を。辛い思いをたくさんした世界の記憶を。
「なんで、泣いてるんですかね」
ノルンは羽を抱き抱えるようにして、泣いた。