20話 悪魔ゲーロップ
『いただきまぁーす!』
悪魔がガバッと口を開いて、匂いの正体であるノルンへと飛びかかる。凶悪な牙がノルンへ迫りーー
「おいあまり調子に乗るなよ俺に宿った悪魔ごときが」
その牙を、ハタが目にも止まらぬ速さで包丁で切り落とした。
ノルンの頭を悪魔がはむっと甘噛む。ノルンは真っ青な顔になって、両手を胸の前でわきわきさせたまま硬直した。
悪魔がノルンの頭から口を離す。
『やー! わりわりー! ついうっまそうな匂いがしたからよー!』
「り、理由になってない……」
未だ固まっているノルンの代わりに、リンネがわずかに反論した。悪魔は上機嫌に笑い、切り落とされた牙はたちまちのうちに生えてきた。
リンネがぽんぽんとノルンの肩を叩くと、やっと我に返ったのか瞬きを数回して、それから悪魔を睨みつけた。
『おーおー。痛てぇ視線を感じるぜー』
「話をややこしくしてくれるんじゃない。帰れ、ゲーロップ」
『そうはいかねぇぜ、あんちゃん! 俺はこの良い匂いの正体を突き止めねぇといけねー!』
不気味な笑い声をあげながら、ゲーロップと呼ばれた悪魔は表皮を波立たせた。
リンネは疑問を口に出す。
「えっと、ゲーロップ……さん?」
『おうなんだぼっちゃんくすぐってー呼び方してくれるじゃあねーか! 呼び捨てろ!』
「あ、うん。えっと、ゲーロップは目は見えないの?」
『おう、さっぱりだ! 味覚以外の五感はあんちゃんに譲渡する決まりだからなー! 聴覚は共有してるけどよ!』
「ああ。俺はこう見えてもしっかりとお前らのことは見えている。ただ、味覚はない」
「それって、料理人として大変じゃないですか?」
ノルンが少し聞きにくそうにしながらも尋ねた。ハタは少しため息を吐いてゲーロップを指さす。
「こいつが味見してくれるんだ」
『おかげさまで舌が肥えちまったぜ! って、それどころじゃねぇ! おい、あんちゃん! この良い匂いの正体教えろよ! そうすりゃ帰るから!』
ハイテンションなゲーロップがハタの頭の上でぐねぐねと踊る。しかし、ハタは頷かない。
「いいや、教えられない。お前にこいつの正体を教えればどうなるか」
『……なあ、あんちゃん。俺だって不機嫌になることぐらいあんだわ』
瞬間、リンネとノルンは体感温度が二十度ほど一気に下がったかのような寒気に襲われた。
ゲーロップの低い不機嫌な声が、脳に入ってくる。
『あんちゃん、俺に生かされてるの、わかってんのか?』
「お前こそ俺に半殺しされたのを忘れたわけじゃないだろう」
『飼い殺し状態のお前の方がよっぽど弱い』
険悪なムード。今にもこの小屋が吹き飛んでしまうかもしれないような状況だ。ゲーロップは表皮の模様を赤く染め、ハタは包丁を握っていた。
そこへ、ノルンが割って入る。
「ゲーロップさん。私の正体を明かすので、静まってもらえませんか?」
『お? そんなこと言われちゃあしょうがねぇ!』
途端に室内に充満していた殺気が消え去り、ゲーロップの陽気な声が残った。
ハタは少し困惑して言う。
「おい、いいのかノルン。こいつは悪魔だぞ」
「大丈夫です。……ゲーロップさん、私は天使です。良い匂いの正体は、天使の匂いなんです」
『……は? おいおいおいおいおいおい、天使だぁ?!?!』
ゲーロップが見るからに興奮した様子でハタの頭の上でうねった。
『なんで天使なんてのがここにいんだ!? 俺でも……一、二、会うのは三回目だぜ?! あんちゃん、どういうこった!?』
「……そのリンネという少年が連れてきたんだ」
『おうぼっちゃんか!』
グリンとハタの頭が無理やりリンネの方を向かされる。ハタは顔をしかめた。
「……ゲーロップ。痛いが」
『悪ぃなあんちゃん! だが今はそれどころじゃねぇ! ぼっちゃん! あんがとよ! 俺は匂いだけでもだいぶ満足だぜ!』
そう言って、ゲーロップが鼻のような突起物をニョキりと生やして、犬のようにふんふんと揺らす。
ノルンはそれがとても苦手らしく、汚物を見るような酷い目で見ていた。果ては口にまで出て、
「き、気持ち悪い……」
それを聞いたリンネは、そんな言葉を使うのかと心の底から驚いた。
まだまだ自分はノルンのことを知らないな。と呑気な感想を抱いていると、ゲーロップは満足したふうに鼻をしまった。
『いやー! 最高だったわ! 匂いだけでここまで満たされるもんだな! あわよくば、髪の毛だけでも食べてみてぇなあ……』
「ダメです」
『だよなぁ』
そうゲーロップは頷いた。しかし何を思ったのかリンネに近づいて、そっと耳打ちする。
『なあぼっちゃん。おめー、この天使ちゃんの恋人なんだろ?』
「いや、それは、なんというか」
『てーれんなってぇ! でよでよ、髪の毛の一本や二本くらい、ねぇもんかね? 報酬は弾むぜー?』
「あげないよ。それに、悪魔からの報酬って……なんか不穏じゃない?」
『かーっ! 言い方の問題か!』
ゲーロップが拗ねたようにそっぽを向くが、リンネのその返答は想定内だったらしく、どこか楽しそうな拗ね方だ。
ゲーロップへの冷たい視線が二つになるが、上機嫌なゲーロップが打ち消してとんとんといったところだろう。
ゲーロップは言う。
『にしても天使ちゃんよ! お前、すっげぇ力持ってんな!』
「え?」
『え? じゃねえやい! 自分でも気づいてんだろ? そんだけでけぇエセ魔力垂れ流してんだ』
ゲーロップの言葉にノルンは困惑した。ノルンには、本当の本当に自覚がなかった。ゲーロップが果たしてなんの話をしているのかも、よくわかっていない。
そして、ここで現れた「魔力」という単語。
リンネは尋ねる。
「なんで、ノルンが魔力を持っていると?」
『そりゃあぼっちゃん! 俺たち魔力を宿す生物はみんな魔力を感じとれるからだよ! 知らなかったのか?』
いいや、それは知っているのだ。リンネはマウルからその話を聞いたことがある。
しかしあの時、マウルは何も言っていなかった。隠したのか気づいていなかったのか。
何も言わずに俯くノルンを、リンネは横目で伺った。ノルンはその視線を感じて、意を決して顔を上げて言う。
「……心当たりが無いわけじゃないです。ただ、たぶんそれは、私が天使だからですよ」
ゲーロップは予想外の返答に、一瞬言葉を返すのが遅れた。そして、ゲラゲラと笑い出す。
『ぎゃっはっはっは! そうか! そうかそうかそうか! 天使だからか! おもしれぇこと言うなぁ天使ちゃんよ!』
ゲラゲラと下品な笑い声が部屋の中で反響する。そして一通り笑い終えて、ゲーロップが満足気に言った。
『いやぁ、いい話を聞かせて貰ったわ! ほいじゃ、またなー! 次会うときはよろしく!』
大きな笑い声をあげながら、やっと悪魔がハタの肌の中に収まった。厨房が一気に静かになる。
しばらくの沈黙の後、疲れ果てたハタが髪を下ろして、ぽりぽりとコメカミをかいた。
「まあ、こんな有様だ」
「なるほど」
「最悪の気分です……」
三者三様、しかしそれぞれ負の感想を抱き、一瞬ため息が重なる。そして、はっとしてハタが顔を上げた。
「それで、元はなんの話だったか」
問われて二人は思い出そうとするが思い出せず、二人揃って首を傾ける。
ハタは自分も思い出せなかったので、適当にしめることにした。
「つまりはそういうことだ。お前たちが会ったのはフィエムの作り出した幻だった」
「……幻にしては、優しい幻でした」
「ああ。幻なりに生きていたんだろうな。あいつらは強かったから、自分が幻だと自覚して動いていたのだろう」
ハタが悪魔の宿る額に手を当てた。
「……一度ぐらい、帰ってやるべきだったな」
どこか後悔を帯びた切ないつぶやき。ハタは少しだけ俯いた。
リンネは言う。
「……もしかしたら、まだフィエム様、生きてるかもしれませんよ」
「そうか。そうだな。そう思う方が、いいな」
そう言って、ハタはふっと笑った。
「ーーよければ、ですが」
ノルンが穏やかな天使のような微笑みで言う。
「私たちの知らない、フィエム様の仲間の話、聞かせてくれませんか?」
「……ああ、そうさせてくれ」
その日はハタの口が止まることはなかった。区切りの少ない文章で、早口に、しかし珍しく感情を露わにして、ハタは語り続けた。
リンネとノルンもまた聞き続けた。自分たちの知っている彼らを思い出しながら、自分たちの知らない彼らを想像しながら。
最後にはみんな、涙さえ浮かべていた。
その日の朝食は、パンと生のベーコンだったという。