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穏やかな風の吹く春の草原、暖かな日の照らす昼の頃。都市スキュテイアを僅かに南下した位置にラドモンド伯爵率いる三千の兵とアカトシュア王率いる一万の兵は睨みあっていた。
堅牢とはいえ山城や要塞には劣る都市スキュテイアでの援軍の見込めない籠城を嫌ったラドモンド伯爵はハリオスの情報を得てから進軍を早めた。そして平原の僅かに高い丘を陣取る。
反対にアカトシュア王はスキュテイアに続く街道を悠然とゆっくり進んだ。その結果、城攻めを予定していたアカトシュア王の思惑は外れる。敵軍はすでに丘を陣取り野戦の準備を万全に整えていたのだ。都市に近かったことも幸いし、それなりの防護柵も作られている。
両軍は相対し、しかしすぐさま戦闘が始まりはしない。アカトシュア王は数名の護衛をつれて空白地帯へ進み出た。兵の一人は炎の旗、炎章旗を掲げており、これは大陸に広く伝わる戦前や戦後の話し合いをするための合図だった。それにラドモンド伯爵が答えるように蛇の巻き付いた剣を象った旗、蛇剣旗を携えて向かう。
王と伯爵は馬から降りることもなくしばし睨みあった。どちらも偉丈夫という言葉が似合う体格で、顔もどことなく似ている。
「久しいな、ラドモンド伯。しかし仕えるべき王を前にして馬を降りないとは礼を欠いているな」
そうしてようやく切り出した王に、しかし伯爵は全く譲らない。
「卑劣にして愚かなる王よ。あなたに礼儀を問われるいわれはないはずだ。しかし戦の作法はいくらか心得ていると見える」
伯爵は王がこちらを発見すると同時に戦闘が始まると思っていた。しかし意外なことに王は古来からの仕来たりに則ってこうして話し合いの場を設けた。その点にのみ伯爵は王の評価を改める。
逆に己をあからさまに貶められた王は顔を赤く染める。
「私を愚王と呼ぶか。父の生み出した国の危機を解決してみせた私を卑劣な愚王と呼ぶのか!」
それは他国からどんなに恨まれようとも、自国からどんなに非難されようとも王を支え続けた自負だった。この国を守っているのは自分だという明確な自信を持っていたのだ。
しかし伯爵の考えは違う。
「確かに先代の王は浪費家ではあっただろう。しかし争い絶えぬこの大陸で諸外国との関係を改善し、優れたものには正しく報酬を与え、そしてその負担を決して民に押しつけない良い王であったよ」
先代の王は国庫を空にした。ゆえに貪婪王と呼ばれたが、その実態は民から集められた税を民に正しく還元しただけだった。蓄財を生き甲斐とする多くの貴族には受け入れられなかったが、一部の有力者や正しく努力をしてきた民たちからは絶大な支持を得ていた。
「そんな功績を踏みにじるような戦争や国中を殺して奪い回る盗賊のような貴様とは比べるまでもない」
そしてそれはラドモンド家もまたそうだった。尊敬してやまない先代の王の後を継ぎ、さあどんな王かと蓋を開けてみれば真逆のことをし始めたのだ。その失望の大きさはいかほどのものか。当時はまだ次期当主筆頭にすぎなかった伯爵は、怒りを堪える父の顔を忘れることが出来ない。
伯爵の挑発に、王はじっくりと時間をかけて怒りを収めていった。あるいは三倍以上に勝る兵と隠し玉の舞剣アレクセスがいることによる優位性が辛うじて理性を保ったのだろう。この話し合いの場を設けた本題を話す。
「私に慈悲の心がないわけではない。今すぐに降伏するのであればお前と息子の命だけで済ませてやろう」
「ほう。我が妻ウェスタと娘のアルテミシアは殺さないと?」
伯爵の言葉に王は手応えを感じたのだろう。大きく頷いて続けた。
「そうだ。そもそもウェスタはアカトシュア王家の人間だ。その血を継ぐ娘も助けてやるというのだから悪い話ではあるまい」
伯爵の夫人は二代前のアカトシュア王の末の姫だった。つまり現王の叔母にあたるのだが、年はそう離れていない。現王が戴冠するよりも前、ウェスタが王城にいた頃は姉と慕っていたことも伯爵は聞いている。それを思えばこの取引も嘘とは言い切れない。
「話にならんな」
「なに?」
しかし伯爵はそう断じた。時ここに至ってはそんな取引に応じるわけにはいかない。息子ハリオスは自分から危険な旅を行ってくれた。王は自分だけならまだしもそのハリオスの命を差し出せと言う。愚かな戦争で父や叔父、そして領に住む民を奪ったことに飽きたらず息子の首を寄越せと言うのだ。
「嘘で欺きこの事態を招いた貴様の言葉を誰が信じるというのだ!」
積もった怒りは激昂となり、辛うじて保たれた言葉を王にぶつける。
「もう言葉は必要あるまい。全ては戦が語るだろう。さらば!」
王が何事かを言うよりも早く、吐き捨てるようにラドモンド伯爵は去っていった。
結局伯爵に言い放題言われて終わった王は陣地の天幕の中でもどかりと音をたてて座った。
「ふんっ。勇猛を重んじながら英雄にもなれない出来損ないばかりの伯爵家風情が」
悪態を前にこれから始まる戦のための会議に集まった将たちは明日は我が身と縮こまる。ラドモンド家の現状はどの貴族も他人事ではなかった。
そんななか、ひとりアレクセスが意見を言う。
「陛下、私が出ましょうか」
「いいや、お前はここで私の護衛をしろ。いくら戦上手の伯爵率いる強兵揃いのラドモンド家とはいえ、お前ほどの強者はいまい。死に損ないの伯爵どもなど一万の兵で十分だ」
確かにアレクセスが出れば確実に勝利が出来る。しかし王はこのところ軍の中で上がり続けるアレクセスの評価を気にしていた。アレクセスたちを率いる王がいれば勝てるではなく、アレクセスがいれば勝てるという風潮に成りつつあったのだ。
そんな内心を知ってか知らずか、アレクセスはただ下がって了承する。
「なるほど、承知いたしました」
王の言葉にアレクセスは万が一の可能性を伝えることはしなかった。一日前に分岐点の街道沿いで野営した時に感じた気配。ともすればアレクセスに匹敵する強者がいるなどと王には考えも及ばず、ただいつも通りに会議は進んでいった。