1
広く肥沃で、しかし争いの絶えないとある大陸では様々な噂が囁かれてきた。
しわがれた老人、子供と見紛う小兵、目を奪われるほどの美女。噂の姿は様々だが、忽然と戦場に現れてはただ一人で戦況を左右する戦士たち。その強さは骨をも溶かす大火炎、鎧を握りつぶす剛力、あるいは心を狂わせる歌声。
雑兵はただ祈り、強兵は力を研いで噂を待つ。そんな噂が、現実として大陸にはあった。そんなものが存在を否定できないほどにそこは混沌としていた。
そして混沌とした大陸にまた一つの噂が流れ始めようとしていた。
センは盗み見るように同じく床に胡座をかいて座る師である老人を伺った。白髪に深い皺を幾つも刻む細く骨ばっている師は、しかし今でも若く力の有り余るセンを軽くあしらう実力者だった。今日もまたセンを実戦を模した鍛練で幾度となく打ち倒している。その実力を骨身に染みるまで知っているセンの緊張は増すばかりだった。
いつもの鍛練の終わり、師に自室へ来るように言われたとき、センは隠すことも出来ず顔がひきつったことを思い出していた。今日も結局一手たりとも有効打を当てられなかった不甲斐ない自分を叱責するに違いないと改めて心を引き締める。
「今日をもって皆伝を言い渡す」
しかし、師の口から出たのは全く予想外のものだった。皆伝、つまりもうセンに教えることはないと言うのだ。
「師匠、どういうことですか?」
「どうもこうもあるまい。教えるべき技は全て教え、そしておぬしはものにした。それだけのことよ」
センの口から思わずこぼれ出た言葉に、しかし師は冷静にはっきりとそう言った。それでも納得出来ずに更に問う。
「しかし、今日も一撃だってあてられませんでした」
その問いに師は思わずといった風にふっと笑うと、すぐさま表情を引き締めて言った。
「心得は忘れていないな?」
センは大きく頷いた。忘れられるはずもない。なによりも早く、速く動くこと。それが両親を持たないセンが物心つくより前に師に鍛えられてから叩きのめされる度に刷り込まれた鉄風流戦闘術の心得だった。
師はセンの顔つきに満足げに頷き返し、答えた。
「もうおぬしは速さという一点のみ儂と同等、凌げたのは経験の差だ。これ以上教えられることはあるまい」
「しかしいきなり皆伝と言われても。これからどうしたらいいのか」
これまでただ師を超えることを目標としていたセンは困惑していた。自分を鍛えることこそが人生の全てだったというのに、もう教えることはないと唐突に突き放されたのだ。しかし師であり父代わりでもあった老人は毅然とした態度で答える。
「自由にせよ、と言いたいが確かにおぬしも困るだろう。故に鉄風流戦闘術の師として皆伝を得たおぬしに一つの課題を言い渡す。鉄風流戦闘術を会得したものは儂とおぬしのみ。このままでは流派が絶えてしまうだろう。それでもよいと思っていたが、おぬしを鍛えているうち欲が出てしまった」
言いつつ師は一冊の本を取り出しセンへと投げ渡した。センの手に乗ったそれは、見た目に反してずしりと重い。本には装丁もなく鉄風流戦闘術教本と師の字で書かれている。師はただ一人で鉄風流先頭術を作り出した。ゆえにこの本は師の人生そのもの。
「世に出て鉄風流戦闘術の名を知らしめ、弟子を持て。子を育てて一子相伝とするのもいいだろう。広く多く弟子を持ち一大流派とするのもいいだろう」
いつしか厳しく毅然としていた言葉は熱を持ち、前のめりになりながら師は続けた。
「のう、センよ」
「何ですか、師匠」
「儂は結局この戦闘術を纏めあげることと弟子を育てることに一生のほとんどを費やした。それに後悔はない」
しかしその瞬間に見せた後悔とも、喜びともとれない表情をセンは見逃さなかった。武人として最上まで鍛え上げ、しかし実際己がどれ程のものか知ることが出来ない。それは割りきれるものだろうか。いまだ若輩であるセンには分からないが、師の見せた表情こそが答えなのだろう。
「それでも最後に言わせてくれ」
師はたとえセンが技を受け継がなくても育ててくれただろう。だが、センは修めたからこそ分かる。この戦闘術によって思うままに立身出世も可能だったはず。その恩に一体何が返せるというのか。
「セン。代わりに証明してくれ、最強を」
センにはもはや言葉もなく、ただ深く深く頭を下げるのみだった。
その日、一人の男が小さな村を出た。名も分からない寒村の、名も知られていない老人の技のみを頼りに。争い絶えない大陸にまた混沌の渦が生まれようとしていた。