08.冬の始まり
妹がいなくなって1週間経った。私の生活はすっかり元通りだ。食事の席に1つ空席が出来ただけ。何も変わらない。今日は2階のテラスで好きな紅茶を楽しんでいた。
妹がいなくなった当日、私は疲れで眠ったり起きたりを繰り返していた。ぼんやり目を覚ます度に両親は隣に居てくれ、とても優しかった。どれだけ過ぎたかわからない頃、隣には母だけになった。再び目を覚ました時にはまた父が居り、妹がいなくなったと知った。
結局あの子は嫁いで行ったのだ。そして侯爵家はそれを受け入れた。
私ではなく。
本当に自分が選ばれず、妹に負けたのだという気持ちが実感として胸に浮かび、悔しくて手が震える。頭をぶんぶんと横に振ると髪が乱れる。その髪から焦げ臭い匂いが漂った事で、火事を思い出した。あの最後を私は知らない。
ベッドの脇に座り、私の手を撫でる母に火事の始末を聞こうとすると、察した父が声を掛けてくれた。
「安心おし、万事手配済みだ」
その声は、この一連の事がある前の優しい父の声。
「そうよ、サーシャ。昨日の事は全て、お父様がきちんとお願いして下さったから大丈夫」
見上げれば両親は穏やかな笑顔を浮かべていた。
「見かけた人は全員、黙っていてくれる約束になっている。心配いらない」
「全て終わったの。安心して、親子で仲良く暮らしましょう」
優しい空気が戻ってきた。
妹がいなくなって、伯爵家は全ての荷物を降ろしたのだ。面倒なだけの約束も、おまけの妹も、それに関わった全ての問題も何もかも。終わったのだ。
負けたようなさっきの気持ちに上書きするように、胸に広がったのは「ああ」という安心感。これでおしまい。
「さぁ、サーシャ。お風呂に入ってさっぱりしましょう。お前は頑張りすぎたわ」
湯から上がればベッドのシーツも何もかも取り換えられ、自分の身体からする石鹸の香り以外、そこには何もなかった。
それが先日の事。このテラスから見える穏やかな景色は変わらない。もう何も気にしなくていいと分かれば、あの数日の事など忘れてしまえばいい。
あの侯爵家の条件は最低最悪だ。いくら功績があろうと時代遅れの家に未来などない。貴族の責には中にはきちんと時代を見極める力というものもある。情勢に応じて動いていくのだ。いつまでも時代遅れのドレスを着ていられない。
改めてこのベルネット家を支えていくためにどうするか、それを思案していると わずかな衣擦れの音がしてすぐ、母が隣に腰かける。母の手元にお気に入りのカップが用意され、温かな紅茶が注がれる。唇を湿らせた母が朗らかな声を響かせる。
「サーシャ。今、お父様とお話してきたのだけれど、今期の社交のこと」
どきりとするが、母の口調の明るさは不安を感じさせない。
「あの子はデビューまでは外に出ないと思うわ。出られる状況ではないもの。でも念の為、あの時2か月後には領地に帰るという話だったから、デビュタント後に領地に帰るのでしょう。デビュタントが終わってもまだシーズンは残っているから、そこから社交に出ましょう」
デビュタントまではひと月半。そんなに控えなくてはならないのかと不満を表すと、母は薄く笑う。
「大丈夫よ。何も心配はいらないわ。デビュタントまでもいつも通りお友達の集まりには出ても大丈夫。ただ……ソフィアが何を告げ口するかわからないから、念のために大きな会は避けましょうね」
私の髪を梳く母の声は優しい。
出られる集まりが少なくなるのは婚期が遅れ気味な身としては不便極まりなく不満ではあるが、仕方がない。集まりに出れば私は人気があるが、両親に対し先日誤って「いい人がいない」と口にしてしまった手前、本当に焦ってしまっては格好がつかなくなる。
同時に友人達への釈明も必要だ。堂々とドレッセル家に嫁ぐと話してしまった。私が振られた訳ではない理由、あざ笑われることのない理由。私が輝かしい伯爵令嬢として揺らがない理由。
貴族は時に嘘をつくことが許される。世の中には必要な嘘が存在する。権威を守り、民を守り、均衡を保つための。今回もそうするだけだ。
両親や領民に求められ、どうしてもと引き止められたことにすればいい。両親の件は本当、嘘である領民には口などない。もし万が一、妹が私の主張を否定するような事があっても、伯爵家の当主である父は私の味方。これに関しては当時の責任者である当主の発言こそ信憑性を持ち全てになる。殆ど教養のない娘が何か言おうが、無教養な娘の被害妄想やわがままで終わるというわけだ。
幸いな事に恋仲という話はしていないし、今回の事で自分に気がありそうな男友達はわかった。ファビアン以外は特に容姿の点で気乗りしないが、シーズン末までに恋人を作れば、そちらの方で盛り上がり、こんな話は忘れられるはず。
考えがまとまったところで、私はにこりと笑ってカップを下ろす。完璧だ。
私が異変に気が付いたのは2週間後。
それまでは頻繁にあった社交の誘いが一切なくなった。小さなお茶会の誘いすらない。それぞれの家でそれなりに集まることは可能なのに、それすらない。友人は少なくないのに不思議だ。毎年このシーズンは楽しい時間を共有していたのに。
窓の外の始まりかけた葉の赤を見て、もしや、と嫌な思いが胸を過る。
振り切るように紅茶を傾ける、憂鬱な午後が過ぎる頃。特に親しい友人から1通の手紙が届いた。久々の夜会の誘いかと胸を弾ませて開いた封筒から出て来た、美しい便箋には、震える文字で見舞いの言葉が綴られていた。
「お父様! お母様! どういう事なの!!」
手紙を片手に詰め寄った父は、『不用品の処分』と説明した上でかなりの金で目撃者全員の口をふさいだと焦り、母は手紙を読むなり真っ白な顔でソファに倒れ込んだ。
手紙は望ましくない現実を告げていた。
便箋には先日の『火事』への見舞いの言葉が並んでいた。主文の大凡が真実で、そこに興味本位の噂が足された酷いもの。私が婚約に割り込み、侯爵家に拒否され、癇癪で火事を起こしたとある。尾ひれがついて、手酷く振られた話になっている。社交の場に一度も姿を現していない妹の存在を利用して、ある事ない事ささやかれているらしい。
父が口止めをしたどこかの使用人が洩らしたのだ。間違いない。頭を抱える父を責めるうちに、もしかしたらうちの者かも知れない、と思い至る。幼少期からの私の努力の甲斐あってベルネット家には長く仕えている使用人が多い。未来の主人を裏切る愚か者がいるなら、即刻首にしてやろうと怒り狂い、執務室を飛び出した私は片っ端から屋敷中の使用人を捕まえ、問いただした。
この辺りの貴族に仕える使用人のほとんどは平民、良くて男爵家の末子の行儀見習い。口止め料をもらっても主人の言いつけや更なる買収に負ける事は想像に難くない。貴族が起きていない早朝の出来事にも関わらず、貴族の友人が詳細を知った手紙を寄越すのだから、間違いない。
強い口調の鋭い質問に、使用人たちはしっかりと「口外していない」と返してくる。そして彼らの口から出た言葉から、あの火事が思いの外たくさんの人に見られていた事を知った。
他所の家から洩れたのならば、犯人捜しを諦めるしかない。どうにか噂を鎮めなければ――焦るが良い案は思い浮かばない。社交の誘いがなかったのは、この噂のせい。2週間丸々誘いがないということは、あの翌日にはもう漏れ出ていたのだろう。
愕然とした胸にもう一度怒りが盛り上がり急いで執務室に戻る。頭を抱えて机に付く父の前にあった手紙を癇癪で破り捨てた。
「大丈夫だと言ったじゃない! こんな噂が流れていては、社交界になんて出られないわ!」
父がもっとお金を渡していたら、母がもっと説得していたら、もっとどうにかしてくれていれば。そんな思いで悔しくて仕方がない。
目の前で小さくなるこの人たちは親だ。いつか言っていたではないか、親は子を守るものだと。どうしてそうしてくれない。努力したって結果が伴わなければだめだとも言っていた。これはそれではないか。どうして。どうしてなの。
「どうすればいいのよ!」
せめて答えを示してほしい。自分で思いつかない苛立ちにも胸をかきむしりたくなる。その代わりに床に散らばる便箋を踏みつけた。
父は虚ろな目で私を見て、掠れた声で友人に返事を出すように告げた。
「あちらが領地に下がるまで社交を休もう……。下がってしまえばどうにでも言い訳が出来る。アレクサンドラは友人に感謝の返事を出しなさい。手紙の文面から察するにお前は友人から信頼があるようだから、あくまでも相手に感謝を告げるだけだ」
どの家から洩れたのかわからない以上、嘘とも本当とも言えない。もし出処がベルネット家を快く思わない敵であれば、余計な動きは悪手になる。何もわからない今、目立つ行動は避けたい。噂好きの世代を良いように利用するのだと分かった。噂なら回収すればいい。
「火事の理由はただの噂だと。肯定も否定もしてはいけない。……それから、妹が嫁いだから、彼女のデビュタントまではこちらも本格的に当主教育に専念すると伝えるように。不思議な噂が世間を騒がせている事への詫びも入れなさい。その姿勢に、噂は誤解だという見解が広まるようにね」
私は苦い顔で頷く。父の示した方法は最善の様に思えたが、とにかく癪だった。そんな不名誉な噂が出回っているのに地味な事しかできず、名誉を回収するのが暫く先であるのが本当に悔しかった。
伯爵家あたりの令嬢の間で笑顔を向けられていた私が、同情やそれ以下の視線を向けられることが屈辱的でならない。私はいつだって眩しい世界にいたのに。
殊勝な姿勢の手紙が効果を示し、私の元には心優しい友人達からたくさんの見舞いの手紙が届いた。噂は嘘だと信じていたと慰めてくれる手紙はどれも宝物だ。
外出できなくて暇な時間はきちんと当主教育に費やした。この社交シーズンの終わりに、もし恋人を選び、結婚を本当にする必要があるなら、丁度いいタイミングだ。幼い頃から受けていたそれはもう仕上げの段階。いつも偽物の、勉強用の帳簿や書類で学んでいた内容をさらっていく。
このひと月が終わる頃、父はそろそろ本当の帳簿を見せようと考えていると話してくれた。いよいよ、その時が来るのだ。
私の肖像画は完成し、明日額縁に納められる。葡萄の蔦で飾られた額縁は繁栄と豊穣を意味する。絵も額縁も全て私の希望通り。美しく光を受け波打つ髪に、白雪のような肌。空色の瞳はキャンバスの中心で理知的な冷静さを示す。先日19歳になった私の美しさが閉じ込められていた。
外に出られない分、情報収集は友人との手紙のやりとりと使用人たちが町で聞いてくる噂だ。こういう件は商人の方が詳しいが、同時に情報を洩らす可能性も秘めている。おまけに彼らは家の変化に目敏い。騒ぎが落ち着くまで父親が商人の出入りを禁じた。
友人の手紙や使用人に確認する限りでは例の噂は風向きを変えていた。友人達のグループが私をかばってくれ、いい向きに変わったらしい。父の作戦と自分の文才に頬が緩む。使用人たちまで風向きを肯定するなら、世間での私の評判は回復していると考えていいだろう。
侯爵家がこの噂をどう考えているかは聞こえてこない。元々顔を合わせる機会のない人達だから当然と言えば当然。加えてこちらが社交に出ていない今、もし聞かれても噂を知らないふりをすればいい。全て友人達とそれに扇動される口さがない貴族に任せてしまえばいい。
父も母もすっかり元通りの優しい2人。家の中は穏やかだった。何もかもが元通りで問題ない。そう思っていた。
それから少しあと、私は本当の絶望を知ることになる。