04.遮るもの
ふわふわした気持ちで帰宅すると、母はすぐに紅茶を用意させる。脱いだドレスの染み抜きはいつもの通り妹に任せた。妹は染み抜きが得意だと使用人が褒めているのを耳にしてからこれが常になった。それに私が話す社交界の様子は世間知らずなあの子のためになるだろう。
ドレスから寝間着に着替えてお茶を楽しむ私の話を両親が聞いてくれる。これもいつもの事。
「今日も楽しかったわ」
「そう。それは良かったわ」
「デニス様が仰ったの。私が嫁いでしまうのが寂しいって。私が嫁げる身分にもなれるならあの時口説けばよかったと。デニス様の奥様はほら、とても地味で。私の方がお似合いでしょう。でも子爵家。私は侯爵家にお嫁に行くのですもの」
「さすが私の娘ね、社交界でこんなに人気だなんて。侯爵夫人としても立派に振る舞えるわ」
母は優しく笑ってくれる。
「それにファビアン様も今日はダンスの手を離して下さいませんでしたの。良い方なの。でも身長もグリオル様に比べたら高くないし、グリオル様よりもお顔も宜しくないものだから。伯爵家にして分不相応というものね。訳アリの訳が目に見えすぎて独身なのも頷けるわ」
ファビアンは確かに素敵。でもグリオル様には劣る。背も、顔も、そして浮気性かどうかも。人気のある男性が好きな令嬢もいるけれど、手に入らないならいらない。私だけにしてくれない浮気性な男より、誠実なグリオル様だ。
会での様子を話すと母はいつものように褒めてくれた。母もその美しさでかつての社交界を賑わせた1人。社交の話をすれば自慢の娘だと褒めてくれる。私はこの時間が大好きだった。
「グリオル様には会えた?」
「いいえ。エスコートをまた今度って言われたじゃない? あの方きっと参加されなかったのだわ。姉を送りには来たみたいだけど、すぐにお帰りになったらしいから」
そう話してすぐに不愉快な出来事を思い出した。
「あの方の姉、すごく気が強くて意地が悪いのよ。もうすぐ結婚すると聞いたけれど、嫁いでからも家に関わるらしいの。どういう了見かしら。会いたくないから、グリオル様が後を継がれたら里帰りをお断りしましょう」
先程見たドレッセル家の長女の姿を思い出す。大勢の人に囲まれ、堂々とした挨拶をしていた。侯爵家の金にものをいわせた豪華なドレス。凛とした声。隣に立つ婚約者と腕を組んで微笑む顔が前に見かけた時よりも整っていて、ほんの少し悔しくなった。
挨拶がてらグリオル様の居場所を聞こうと思うも、人が多い。挨拶をする人の他にも取り巻きのような友人が壁になって簡単には近寄れない。どこかに隙間はないかと、周りを動き回るうちに耳に入った会話はこうだ。
「皆様には大変お世話になって、なんとお礼を伝えればいいのか……ええ、弟ももうすぐ結婚するの。あの子の婚約者、まだ会ったことがないのだけれど、良い方である事を願っているわ。家を大事にしてくれる……。そうなの。ドレッセルの家は特殊だから、私も関係者としてこれからもサポートはするつもり」
嫁いで出て行く人間が一体何を言うのだろうか。彼は妹が生まれた段階で婚約者として当主教育を受けているはずだ。目の前の姉はそれを機に、幼少期からずっと嫁ぐ話になっていただろうに、随分と偉そうに。
貴族の結婚は政略結婚であればあるだけ、別の家に入った人物が婚家と実家を繋ぐ役割を持つ事がある。目的はお金や事業や人脈などそれぞれだが、どちらも家から頼まれない限り有り得ない。今の彼女の言い方では、自分から能動的に実家に関わる姿勢ではないか。
誰かの言葉に応えているのが聞こえる。
「ええ。もし婚約者が難しい方なら、どうにかして従ってもらうわ」
なんと横暴な人間だろうと思わず眉が寄る。嫁いでいなくなる実家に口を出し、尚且つ嫁に言うことを聞かせようとは。
彼女を褒める言葉が口々にささやかれる人の輪。不愉快な気持ちになりながらそこを離れる。周りの人がドレッセル家の将来を笑顔で祝福しているが、私は許せない気持ちだった。あんな口うるさそうな女に入り浸られては困る。
再来する嫌な記憶に顔を歪めそうになるが、折角良い気持ちだった1日を台無しにされてたまるものか。そう思ってまた明るい話に戻す。気付けばカップは空になり、もう夜も遅かった。
酔いも回って少し足が重い私を妹が支えながらベッドへ向かう。
「あなたにはわからない事だけど、社交界は大変なのよ。私の様に美しく、きちんと振る舞えないと恥をかくの」
「そうなのね」
「そう。あなたそんな事じゃだめよ。あなたは何も出来ないから今はまだお父様たちも厳しくないけれど、私の苦労が分かる? あなたのような子に次期当主が務まるのかしら? 家の名に泥を塗って恥をかかせるのだけは止してちょうだいな」
「わかりました」
私はね、と続けたい言葉は山ほどあるが、ふかふかのベッドに横たわると次第に目の前が暗くなっていく。
「いいこと、ソフィア……私の様にならないとだめよ……」
折角、この家を継げる機会が巡ってきたんだから。
翌朝、1人遅れて朝食の席に着くと、食堂にはもう誰もいなかった。テーブルの上の肉をつまんでいると父が食堂に戻ってきた。
片手に書類を抱えた父は私の脇に立つと渋い顔で告げた。
「アレクサンドラ。昨日は何も言わなかったが、お前、夜会でドレッセル家との事を人に話したのだろう。まだ届け出ていないのだから控えなさい」
昨夜の事はあまりよく思い出せないが、そういえば父はいつもより笑顔が少なかったような気がする。確かに届け出ていないが、向こうは許可を出している。それに昨日の夜会ではそれも考慮して家の名前も何も出していない。それは確かに話したはずなのに何故こんな言い方をされるのか。
今回の話に父が良い顔をしていないのはわかっている。こんな事は今までなかった。少し重い頭に父の言葉が不愉快に響く。
カチャリと音を立ててシルバーをお皿に置く。普段ならこんな無作法はしない。少しイライラしている時だけつい物音を立ててしまう。
「ひどいわ、お父様。お父様は私が侯爵家にお嫁に行くのが嬉しくないの? あまり喜んで下さらないのはどうして?」
じっとりと見上げる先の父は、相変わらずの渋い顔だった。
「いいか、喜ばない訳じゃない。だがまだ決まっていない事だ。とにかくこれ以上誰かに話す事はならない。いいね」
そのきっぱりとした口調は私の胸を抉った。
どうして。だって、噂さえ回避できればそれでいいのでしょう。侯爵家だって、グリオル様のお話と、私の姿絵を見てお返事をくれたのよ。
頬を膨らませて何も言わずに去っていく父の背中を睨みつけるも、その背中が振り向くことはなかった。
お皿の上の肉を眺めていると、父からの初めてのお小言に腹が立ってくる。食事を続ける気になれず、乱暴に立ち上がると母の元へと廊下を駆け抜ける。階段を上るうちに次第に悲しくなってきた。父は私が大事ではないのか。
母に泣きついて父に怒られた事を話すと母は慰めてくれた。
「お父様はサーシャが可愛くて仕方ないのよ。だからお嫁に行くのが寂しいの。まだお心が決まっていないのだわ。お前があんまり嬉しそうに話しては、悲しくもなるでしょう。それにね、まだ書類を出していないのだもの。お父様のお気持ちが落ち着くまで待ってあげて」
おっとりとした口調で髪を撫でられれば、次第に落ち着いてくる。父もきっと、今の私の様に気持ちの整理がついていないのだろう。
昼に父に呼ばれる。朝の事は引きずってはならないと、淑女の笑みで扉を開けると、父は朝以上に難しい顔で立っていた。
「アレクサンドラ、例の婚約の話だが、本気で嫁ぐ気はあるか?」
「勿論ですわ!」
父の執務机には便箋が用意されていた。先方に連絡をしてくれるのだろうと胸が弾む。
「私、あちらでも立派に務めを果たして参ります」
「そうか。……わかった。それならダンスとマナーのレッスンは今週でおしまいだ」
突然の言葉にぎょっとするも、父は淡々としていた。
「肖像画は仕上げるように画家に連絡をしよう。それと、ドレスだがやはり新しいものを仕立てるのは難しい。今あるドレスに少し飾りを足す程度は出来るはずだから、カルラと相談しなさい」
落ち着いた声で告げる父は、私の知らない人の様だった。混乱した頭でなんとか言葉を絞り出す。
「……どうしてです?」
「……ソフィアのデビュタントの用意があるからだ。今までの分を取り返すためにも、急いであれをどうにかせねば、それこそ妙な輩に目をつけられかねない。ドレスもだ。ソフィアの分は優先されるデビュタント扱いで注文できるが、時期柄お前の分は難しい」
頬を膨らませ抗議の意を示すが、父は悲しそうな顔で「分かってくれ」と繰り返すばかりで話にならなかった。
そんなくさくさした気持ちを晴らすため、午後は2階のテラスで母とお茶をした。父への不満を訴えると、母は私の手をさすりながら同調してくれた。
「先程お父様にダンスとマナーのレッスンは今週で終わりでいいと言われたのよ。ひどいわ。私はこの家の当主予定で次期当主の妻として侯爵家に行くのだから必要でなくて?」
「そうね、後でお話してみるわ」
「あと、ドレスもよ! やはり新しいドレスで行かないと、古いドレスでは失礼よね? 私のドレス姿は社交界でも噂でしょうし」
今まで挨拶をしなかっただけで、どこかの会で見られている可能性はある。何しろ私たちの派閥はとても目立つし、私はいつもその中心にいたから。ファビアンとの噂だってあった。どのドレスを把握されているかわからない以上、少しの手直しではだめ。劇的に違うドレスの必要がある。
「ソフィアにデビュタントのドレスを作ると聞いたけれど、あの子は顔が貧相だから似合うものも少ないでしょうし、凝ったものは費用も嵩むでしょう。あの子が強請ったのかしら」
妹にとっては初めてのドレスだ。訳もわからずあれが良いこれが良いと言っている可能性もある。これまでどうでも良かった妹の存在が急に不愉快になった。つられて疎ましく思った幼少期を思い出す。あれは私のおまけなはずなのに。
少し考えた後の母の言葉が私を驚かせた。
「さあ、どうかしら。もしあなたがドレスを置いていくなら、そのドレスを手直しして与えてもいいわね」
「私のを? やだわ、お母様。私のドレスは私の顔に合うでしょう。あの粗末な顔じゃ似合わないわ」
どれか1着でも、一番控えめなものでも、妹に似合うかといえば答えは否。私に合わせたドレスが似合うわけがない。使い回すにしても限界がある。
「そうねえ」
母の返事は少し歯切れが悪い。期間や費用に限界があるのはわかるが、嫁入りは恒久的に続く事柄ではない。今回一度きりの事だ。そこまで渋られる理由がわからない。
あの妹のせいで何もかもが難しいように思え、忌々しい。
「それにグリオル様が婚約者を探して下さるのでしょう。私の夫の手を煩わすなんてねぇ!」
そこで気が付いた。妹は婚約者を探さなくていいのだ。となれば別にデビュタントもドレスも最低限でいいはずだ。父がしていた心配も杞憂だ。
「それなら急いでデビューしなくていいのでは?」
その言葉に母が少し慌てる。
「いいえ、それはまずいわ。当主になるのなら社交界を蔑ろには出来ないもの。不細工らしく目立たず佇んでおかないと悪評を避けられないわ」
全く以って不愉快だ。妹にお金がかかるあおりで私が我慢するのも。妹が苦労をしないのも。ただでさえ冴えない妹が、我が家に泥を塗るかも知れないのも。ため息で紅茶の水面が揺れる。
なんだって私の望みは叶って来た。どうして肝心のこれに限って上手くいかないのか。
「迷惑な子ね。ソフィアのデビュタントのドレス代くらいグリオル様にお願いすればいいのよ。だって初めはその予定だったのだから」
つんと拗ねたように言えば、母は緩く同調してくれる。
「そうねぇ。そうなればいいのだけれど……」
「あの方の姉、すごく豪華なドレスを着ていたわ。あんなドレスを用意できるなら簡単じゃない? ああ、もう。色々と煩わしいわ」
カチリと音がするほど乱暴にカップをソーサーに戻す。忌々しい。妹がいなければ、こんな事にならなかったのに。嫁入りのお金も潤沢だった。そもそも彼の婚約者は私だった。本当に、おまけのくせに。