Ed.花
冬のある日、アレクサンドラは娘のハンカチに刺繍を刺していた。初めは娘が王都で使う物はお店に刺繍を依頼を迷っていたが、夫が使ってくれているのを知って以来、娘の分も刺している。イニシャルの周りにリーゼの好きな小花を散らしながら、王都のカーテンを思い出す。細かく綺麗な刺繍は妹の使用人のような生活の結果であり証拠だ。前よりも上手になったが少しいびつな花を仕上げると、何とも言えない空しさに襲われる。
妹は名入りのハンカチを1枚でも持っていたのだろうか。殆ど覚えていないが、燃やした荷物の大半は自分のお下がりだった。全部奪ってしまった。あの子は何も持たずに行ってしまったのだ。本当に何も。
病の時代の影響もあるが、貴族は元々子だくさんだ。子1人の家は珍しい。自分にとって、両親の他に一番身近なのは妹であるはずなのに、随分遠ざけてしまったものだとため息をつきながら刺繍糸を切った。
リーゼは父親のヨーゼフが大好きだ。去年出席したお茶会で両親に連れられた子を見てから、5歳になる今年はヨーゼフともお茶会に行きたいと張り切っている。
お茶会は基本的に女性が中心だ。男性が参加する場合は大きめの会になる。そしてたまに誘われたりもするが、アレクサンドラはその類の会を断っていた。そうした会は、夜会とは違い男性の参加が必須ではないため、場合によってはとても目立ってしまうのだ。社交の場には出るが必要以上に目立つことは本意ではない。それにはヨーゼフも同意した。
今年も当然断るつもりでいる。リーゼには以前チェールトが誘ってくれた会への参加を約束して、他のお茶会のことはなんとなく濁しておいた。
なんだかんだ言いながら、ヨーゼフはリーゼをとても大事にしている。本の音読は断られるようだが、リーゼはそれ以外のことをヨーゼフによくねだり、ヨーゼフも彼女がはしゃぎすぎない範囲で叶えた。庭の散歩もヨーゼフと一緒にすれば走り回れるし、視察に行けば抱っこしてもらえて遠くまでよく見える。虫だって大丈夫。娘は大喜びであまり笑わなかったヨーゼフも、この頃はよく笑うようになった。
ヨーゼフ自身、この生活を幸せに感じていた。結婚当初は割り切って生活していたが、年々変わる妻と成長する娘、順調な領地の様子にも満足している。
心の内は変わらない。アレクサンドラを愛しているかと言われれば、やはり即答はできない。だが大事に思う気持ちは強くなった。未熟な自分自身と闘って、少しずつでも前に進んだ彼女の苦労も強さも見てきた。今も回収できない過ちに悩む姿を心配している。普段はしっかりしているアレクサンドラが、たまに思いつめたような虚ろな目をしている時がある。振り切るように首を振ることも。
彼女の最後の秘密を知った時は、義理の両親に怒りを覚えもしたが何もできない。他人の自分が誰かの過去を責めることで、この人が幸せになるとは思えなかった。代わりに、それ以来アレクサンドラを少しだけ甘やかすようにした。気が付いているかは知らないが、リーゼと2人でこっそりとアレクサンドラの好きな花を飾ってみたり、偶然を装ってお土産にアレクサンドラの好きなワインを買ったりしている。
いつかはドレスのことを誤解されていたが、今回も何か言う必要はない。いつも彼女が、誰も触れられないその心以外、何の不自由もなく満たされていてくれればそれでいい。
庭先で遊んでいたリーゼがヨーゼフの元へ駆けてくる。だっこをせがまれ、抱き上げる。背も伸び、もうすっかり重たくなった娘がにこにこと喜んだ。目を細めるヨーゼフが見つめるその顔は段々とよく知る誰かに似てきていた。
季節は巡り、秋。
今年のリーゼは自分の好みのドレスたちと一緒に、いつか保留にした鮮やかな色の服を1着だけ仕立てた。デザイナーのアドバイス通り、襟付きのワンピースだ。うきうきした心で袖に手を通した本人の意見は、これは明るいシーズンに着たいわ、という冷静なものだった。確かに秋の紅葉にその色は目立ち過ぎて、リーゼの髪が少しくすんで見える。春に着ることにしたワンピースはクローゼットにしまわれた。
この頃は好き嫌いも口に出せるようになった。どんどん大人になる様子を嬉しく思いながら、アレクサンドラは妹からリボンを奪ったことを思い出す。自分の好みではない色でも容赦なく取り上げた。随分と馬鹿なことをしたものだ。
恒例になった友人のお茶会に参加すると、会場は祝福ムードに包まれていた。聞けばリーゼの初めてのお茶会で一緒になった姉妹の姉の方が婚約するらしい。8歳の彼女は皆の優しいお姉さんだ。古く大きな伯爵家に見初められたのだという。アレクサンドラもリーゼと共にお祝いを述べた。次の春に王都でお祝いの会を開くそうで、リーゼも是非と声を掛けてもらった。リーゼくらいの子には婚約の難しいニュアンスはわからない。だが「王子様が見つかったの」という発言にその場にいた女の子たち皆が頬を染めた。
リーゼが5歳になった春。ベルネット親子は王都に戻った。初めて見る春の王都にリーゼは大喜びだ。秋には見られない緑が青々と茂り、色とりどりの花がそれを飾る。道もどこも明るく輝いている。屋敷の庭も見事に花が咲き乱れていた。秋の段階で春に戻ると伝えたからか、使用人たちが気を利かせて植えてくれたらしい。お披露目会のための滞在で長居の予定はないが、短い期間でリーゼと公園やお店を回る約束をした。
招かれたお祝いの会は盛大だった。古くからある伯爵家のお祝いということで、関係のある上位貴族も顔を出しており、屋敷も庭も客層もどこを見ても華やか。これもリーゼには初めて。
お祝いの言葉の真ん中で恥ずかしそうに手をつなぐ小さな2人はお似合いだった。この年齢の子どもが婚約する際は親による政略結婚の一環もあるが、この2人はしばらくの間に子ども同士で心を通わせていたらしい。お祝いの言葉を伝えると彼女は嬉しそうにはにかみ、その笑顔もまたお姫様の様だった。微笑み合う2人の様子と咲き乱れる花と、まるで絵本の最後のシーンの様な情景にリーゼは始終ぼうっとしていた。
その晩、アレクサンドラがリーゼにお休みを言いに行くと、娘はがばりと起き上がった。
「お母さま! 私はいつ結婚できるの?」
目を輝かせる娘の顔は完全に昼間のそれに夢を見ていた。笑いながら返す。
「リーゼが結婚するのは、もう少し先、あと10年位先よ」
「そうなの……そんなに待てないわ」
しょんぼりする娘をもう一度寝かせ、上掛けを首までかける。春先とはいえ夜は冷える。
「お父様とお母様と一緒に楽しく待ちましょうね。それまでにリーゼは素敵なレディになりましょう。リーゼの旦那様も、リーゼと同じようにお勉強やダンスやお稽古を頑張っているわ」
「はぁい」
「まずは大きくならないとね。好き嫌いなくたくさん食べて、たくさん寝て、明日も元気に過ごしましょう」
頭を撫でていると、落ち着いたのかリーゼは小さく息を吐いた。
「お母さま、私もいつか王子さまに迎えに来てほしいわ」
娘は王子様の出てくる絵本が大好きだ。女の子やお姫様を助けて『幸せに暮らしました』をもたらしてくれる存在。親心からすれば、素敵な王子様に娘を見初めてほしい。だが望み過ぎた例がここにある。出来ることなら、平凡でも誠実で優しい人とリーゼ自身が幸せだと思える結婚をしてほしい。
アレクサンドラは娘の頭を撫でた。
「……お母さまとお父さまはどうして結婚したの?」
突然の問いに言葉に詰まる。正直に仕方なく、とは言えない。いずれ話すことだが、今この場で娘の夢を壊すこともできない。縁があったと返すべきなのはわかっているが、それをどう伝えたものかと悩む。
だが眠そうな娘は返事を求めていたわけではないように言葉を発した。
「わたし、お父さまみたいな優しい方と結婚したいわ」
うとうとと閉じかけた瞳は半分夢を見ている。少し口角を上げて、幸せそうに言葉が続いた。
「お父さまをおじいちゃんみたいって言う子もいたけど、私はお父さまが大好き。優しくてかっこよくて……」
そんなことを言われたのかとぎゅっと胸が苦しくなるが、リーゼ自身は気にしていないようだ。この時代に珍しい歳の差夫婦は子どもから見ればそう見えるのかもしれない。40になる夫はわかりづらいが白髪もあると言っていた。こんなところでも娘に苦労をかけるのかと思うが、アレクサンドラにとってのヨーゼフは救いだ。きっとリーゼにとっても。
「……そうね。お父様はお母様にとっても素敵な方よ。リーゼもきっと出会えるわ。お前が心優しければ」
自分の言葉が胸を抉っていく。
「さ、もうお休みなさい。明日の朝は、どんな夢を見たかお母様に教えてちょうだいね」
元妹の部屋の灯りを消して廊下に出る。廊下の突き当りには肖像画の部屋がある。今年の秋には画家を呼んで今のアレクサンドラに直してもらう予定だ。あの姿をなかったことにするためではなく、あの時の自分があの部屋に相応しいとは思えないからだ。
初めは自分への戒めを込めてあのままにするつもりだった。だが、それならば自分の部屋に飾れば良い。新しく頼むべきか悩みを解決してくれたのはあの画家だ。先の秋に相談した画家は、変わらずにアレクサンドラの容姿を褒めた上で、快く引き受け、上から重ねることを薦めてくれた。画家は、いつぞやは苛烈な美しさを振りかざした彼女の変化に、そうするべきだと思ったのだ。アレクサンドラは感謝を述べてその提案を受け入れた。
絵にかいたような幸せな話。完璧に組み立てるパズル。全てを燃やしたあの日。
もうずっと昔のような気がするが、まだそこに残っているのだ。確かにある。
前に進む決意をした。どうあっても絶対に同じ間違いは犯さない。だから振り向きながら進む。きっとそうする方が自分にとっては賢い判断が出来るから。
窓辺のカーテンは大切に使い続けるつもりだ。
私たち親子が王都に滞在している間に、領地の本邸に両親から手紙が届いたと知らせがあった。戻ったら目を通そうと思う。
目の前の庭で娘が花を摘んでいる。無邪気に笑う娘の顔はこの頃では私に似てきた。普段の顔は今でも妹によく似ているが表情が変わってきた。真面目に勉強をしている時は夫に似ている様子も見せる。娘は可愛い。元気に育ってくれてありがたく思う。
この子はいつか、この家を継ぐ。
その言葉が浮かぶ度、答えがわからなくなる。大丈夫だと思いながら、どこかが冷たくなるのを感じる。娘には理想論ではなく現実に即した、描き直せる絵本を夢見てほしいと思うがこれも正しいのかわからない。
「お母様」
笑顔で花を差し出す娘。娘はこの色が好きだ。あのカーテンの小花と同じ色。妹の人生に咲く花は何色で、この子の人生に咲く花は何色だろうか。
「綺麗ね」
そう答えた自分の声が彼女の耳に優しく届けばいいと願う。
娘の側に立った夫が娘を抱き上げて穏やかに笑う。抱き上げられなくなる日が遠くない娘をそれは大事そうに抱き上げてくれる。その人の手はとても優しい。12も年上の夫は当然、どんどん老いていく。出会った頃にはなかった手のしわや目尻のしわが胸を締め付ける。よく笑うようになったことを嬉しく思う反面、いつかの別れが寂しい。
「摘んだお花は後でお部屋に飾りましょうね」
小さな手の中の花は風に揺れる。
私はきっと死ぬまで妹への記憶に囚われて生きていく。刺繍を刺す度、ドレッセルの名を目に耳にする度。何気ない日常の端々で。
私が歩く道は細い。少しでも間違えたら「それ見たことか」と転落してしまうだろう。それでも歩くしかない。自分が出来る償いは2人目の私も2人目の妹も出さないこと。この子が正しく前を向いて進むように願い、花を照らすように努めることだ。
それが私の人生。
私の選んだ選択肢の結末。
少し先の夫と娘の元に足を進めた。娘は夫の腕に座って嬉しそうに笑う。夫が差し出した手に、もうすぐ重ねる自分の体温が優しく伝わるといいと本当にそう思う。いつか友達が素敵になったと言ってくれたその通り、優しい人になりたい。この手を最後まで離すことなく、この家の時間が過ぎていけばどんなに幸せだろう。
いつか炎が燃えた庭には花壇が作られ、たくさんの花が咲いている。揺らめく陽炎は幻覚か涙のせいか。たくさんの色が溢れる日々の中にあの子の答えがあることを祈って、そっと笑った。
これにて終了です。
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