13.前へ
秋になり、社交のシーズンがやってきた。
アレクサンドラは4歳になったリーゼと王都のお茶会に参加する。しばらくの間はお利口に挨拶回りに付き合い、隣に座っていたリーゼは周りの母親たちからの質問にもきちんと答えていく。しっかりした受け答えに誰も彼もがリーゼを褒めてくれる。
難しい話に移ると、子どもたちの輪の方へ混ざって行った。今年は3歳の子がいて、リーゼはお姉さんだ。本を読む輪の前の方を譲れるか不安な気持ちで眺めていると、それとなく、同じくらいの年齢の子の隣に腰を降ろすのが見えた。
内心でほっとしていると主催に声を掛けられる。今日の主催は一番仲のいい友人だ。
「すっかり母親ね、サーシャ」
「そう見える? きちんとできていればいいのだけれど」
「あら、あなたにしては珍しく弱気ね。お家も問題ないのでしょう?」
「ええ」
けどそれは夫のおかげだ。アレクサンドラ自身は毎日手探りで生きている。そう思っても例え親しい友人にも口にはできない。
当たり障りない回答をしたつもりだったが、友人は気弱な印象を受けたらしい。以前の自分ならどう答えていたか、もうわからなくなっていた。本人は自覚していないが、ここしばらくのアレクサンドラの受け答えは前よりも柔らかい。言葉選びもだが、どこか傲慢な意識が自信として滲んでいた語気の棘はすっかり失われていた。
「お嬢さんは貴方みたいにピアノを?」
「いいえ、あの子には関心のある事を頑張ってもらおうと思っていて……今はダンスに夢中よ」
「可愛いわね。あなたのお嬢さんならきっと上手に踊れるようになるわ。あなた、私たちの中で一番上手だったもの。いつかうちの息子とも踊ってちょうだいね」
人好きのする笑顔を浮かべて、彼女は今到着した招待客を迎えに行ってしまった。
背中をぼんやり眺めながらアレクサンドラは思う。内心で悩んでいることはあり、娘のこともあり、自由奔放というわけにはいかないが、社交で他人に見せる対外的な自分自身の在り方は変えていないつもりだ。昨年の事もあり、堂々とベルネット家の代表として立っているつもりだ。それが一体、友人の目にはどう変わって見えているのだろう。悪く見えていたらと妙な心配が首をもたげる。
しばらくして友人が戻ってきた。何やら気まずそうな、神妙な表情だ。
「あの、サーシャ……今いらした方から珍しいお茶をいただいて、それを是非皆様に振る舞いたいのだけれど……」
何故客である自分に確認するのだろうと不思議に思うと、友人の形のいい唇が苦い言葉を続けた。
「ハーブティーなの……」
この国でハーブを生産しているのは例の領地だけだ。数年前、泣き喚いたのを思い出す。あの時は本当に嫌だった。今、差し入れた人に悪意がないことはわかる。勿論友人にも。例えあったとしても、ここでそれを気にすることはできない。
「まあ、珍しいわね。お気遣いありがとう。心配は無用よ。是非あなたとそちらの方の宜しいようになさって」
安心したような顔の友達はアレクサンドラの手を取って感謝を述べた。
「ありがとう。あなた、前よりもっと温かくて素敵になったわ」
足早に使用人の元に向かう彼女の背中が、今度はぼんやり涙で滲んだ。
「あら、ハーブティー?」
「良い香りね」
間もなく会場に爽やかな香りがただよい、カップを片手に皆がその茶葉を楽しんだ。僅かに視線を感じながら、アレクサンドラも笑顔でカップを傾ける。あの時、アレクサンドラの嘘の婚約を祝ってくれた誰もが、穏やかに見守っていたが彼女がそれに気が付くことはなかった。
シーズン中頃に参加したお茶会は随分と大規模だった。子どもたちはそれぞれにグループを作って銘々の時間を楽しんでいた。
リーゼもすっかり慣れて花の周りで同じくらいの年の子と楽しく遊んでいた。はずだった。
突然、女の子の泣き声が響いた。親たちが慌ててそちらを見ると、1人の女の子が泣いていた。そしてその前には戸惑っているリーゼ。
「リーゼ!」
アレクサンドラは慌てて席を立った。泣いている女の子の親も足早に現れた。わあわあ泣いている女の子は泣き声の合間に「リーゼがぶった」と訴えていた。
「……でも……だって……」
しどろもどろなリーゼは、泣き声に驚いて言葉を続けられない。じっとりとした空気がまとわりつき、自分に向けられる初めての好意的ではない視線に泣きそうになる。
アレクサンドラは娘の正面にかがんだ。
「リーゼ、あの子を叩いたの?」
リーゼは口をぐっと結んだまま頷く。
「どうして?」
「――…だって虫がついていて……取ろうと思ったの」
リーゼが不自然に合わせている手の中には虫が捕まえられていた。
貴族令嬢らしからぬリーゼは日焼けも虫も平気だ。いつぞや庭で虫を捕まえ、得意げに見せられた使用人たちが悲鳴を上げた。その時リーゼは虫が嫌いな女の人がいることを学んだのだ。だから今もきっと親切で取ったそれを見せられずにいる。
「――そう。優しいわね。けど、急にお友達に触っちゃだめ。きちんとごめんなさいして、お話しましょう。偉いから出来るわね?」
「……はい」
泣く娘を宥めている親は、自分の子に質問できずにいた。ぶたれたところも、本当にぶたれたのかもわからない。すぐ側のアレクサンドラ親子の会話をうっすら耳に挟んで状況を察して視線を上げた。そこにリーゼが足を進めてきた。小さな頭がぺこりと前に揺れる。
「ごめんなさい。……あのね、ドレスに虫がとまっていたの。それで取ろうとして……それで……」
母親は今度こそ事情を察した。リーゼの手の中に証拠がいることも。
「そうだったの。テア、泣き止みなさい。ごめんなさいしてくれているわ」
しゃくりあげる女の子に、リーゼはもう一度謝る。
「あなたについていた虫を取ってくれたんですって。意地悪じゃないの」
テアと呼ばれた女の子は泣き止んで、リーゼの手を見つめた。
後ろに控えていたアレクサンドラがゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ありません。私の教育が原因です」
その様子に、一部の大人が目を見開いた。
――あのアレクサンドラ=ベルネットが頭を下げた。
アレクサンドラはこれまでも誰かに詫びたことがある。だがあの事件以来、どうにもイメージが悪い。火事もガーデンパーティーもサロンでの出来事もプライドの高さだけが評判として独り歩きしていた。だが目の前の彼女はしっかりと詫び、子どもにまで頭を下げている。それも一番笑われた振る舞いの件でだ。
「ごめんなさいね」
大人に謝られた女の子はぱちぱちと目を瞬かせる。
母親は快くそれを受け入れた。
「いいえ、ご親切にして下さったのですもの。こちらこそ驚いて、お騒がせしました。テア、お礼を言って仲直り出来るわね」
テアはリーゼの方を向いて頷く。リーゼがにこりと笑うと、すっかり今まで通りの雰囲気でリーゼの手の中をのぞき込み始めた。虫が大丈夫な子らしい。虫を手に遊び始めた子どもたちをみて、大人も落ち着きを取り戻す。
アレクサンドラはテアの母親と話しながらテーブルに戻り、騒がせたことを詫びた。誰もがその丁寧な謝罪を笑って受け入れる。そもそもただの子ども同士のよくある揉め事で大したことではない。ただ、その片方がかつての話題の人というだけで。随分変わったらしいという噂も流れているアレクサンドラを誰もがじっと見つめて観察する。全てを燃やす炎の令嬢は、灯りや温もりに変われたのか。囁かれる噂に対して余程真実に近い、今ここにいる実物を見極める方が良さそうだと判断したからだった。その後、テーブルでは娘のお転婆具合に困る母親たちの話が大きな花を咲かせた。
帰り道、アレクサンドラはきちんと仲直り出来たご褒美にお菓子を買うことを提案した。リーゼは大喜びでいくつかのお菓子を買った。お家に帰ったら皆で食べると喜ぶ姿に、あの時の自分の言葉選びを反省する。
やり直すチャンスはいつでもあった。今日のリーゼの様に謝ることもいつだって出来たはずだ。胸に一瞬過ったものを『都合が悪い』と捨てた自分のことを、忘れることはできなかった。
※ルビ・傍点が表示されない方へ
以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます
あのアレクサンドラ→「あの」に傍点




