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咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第4章 駒
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11.夫婦

 リーゼは前にも増して勉強を頑張るようになった。特にこれまで苦手だったダンスを熱心に練習している。

 予定を見直し、自分達も娘にも自由な時間を設けた今は少し気持ちにも余裕がある。アレクサンドラは1人の時間にはホールにあるピアノの側に座るようになった。しばらくの間、調律していないピアノの音は少し狂っている。本当は娘にピアノを習わせるつもりでいたが、今の本人の関心はダンスだ。少しずれた音をぽーんと弾いた。ピアノは好きだ。だがここずっと良くない記憶を思い出して苦い気持ちになる。きっかけはリーゼの友達だ。

 友達の中には字が書ける子もいた。リーゼはその子と手紙を交換する約束をした。実際、3つや4つの子どもの書く字などほとんど読めない。手紙の大半を書くのは親だが、アレクサンドラも向こうの親も子どもの勉強の励みになるならと快く約束を交わした。

 その時、アレクサンドラの脳裏に幼い頃のピアノの記憶が蘇った。相手を負かせて喜んだ自分の意地悪さを恥ずかしく思うが、今更相手に謝ることも出来ない。それもあってピアノを勧められなかった。せめてリーゼには競うことよりも楽しむことを覚えてほしいと願うばかり。


 リーゼの教育については講師陣ともよく相談している。リーゼはアレクサンドラに似たのか少し気が強い。負けず嫌いなのも遺伝したのか、出来ないことがあると落ち込んだりするらしい。背伸びしすぎた影響か、焦る気持ちがあるのだろう。講師陣はリーゼの状況を冷静に理解し、焦らせないように努めると約束してくれる。

 アレクサンドラとヨーゼフが見ているリーゼは変わらず無邪気に笑っていたし、何の問題もないように思えていた。出来るようになった事は嬉しそうに報告してくれるし、出来ない事は2人で励ました。



 張り切るリーゼに変化が起きたのは春の終わり頃だった。座学に比べて成果が見えないそれが、彼女の心に焦りを産む。


 夫婦揃っての領地の視察から戻った時だった。乳母が言い辛そうに相談してきた。自由時間にも、部屋や庭で遊ばないでダンスの練習をしていると言うのだ。今日ついにそっと注意をしたが、聞き入れてもらえず今も1人でホールにこもっていると。

 今日は夜間の視察で遅い時間に出ていた。丁度戻る時間がリーゼの寝る時間だ。とっくにベッドにいないといけない。

 そっとホールを覗くと薄暗いそこで1人でステップを踏んでいた。口をしっかりと横に結んで、習ったテンポを守っている。と、足をもつれさせ、動きが止まる。ぐっと息を飲んで頬を膨らませて床を睨む。ぶるぶると震える手がその悔しさを語っていた。しばらくの後、耳たぶに触れていたもう片方の手が目尻をぐいとこすり、再びステップを踏み始める。ゆっくりとドアから離れ、3人は目を合わせた。

 アレクサンドラは考えていた。娘の様子は癇癪を起こす前の自分によく似ていた。頬を膨らませるそれもだが、小さい頃、ダンスが上手く出来ない時にごまかすように足を踏み鳴らす癖がついた。どう話したものかと言葉を探すうちに、先に夫が口を開いた。

「――あー……済まない。アレクサンドラと2人で話しても? すぐに娘を連れて行く」

その言葉に乳母は寝室の支度をして参ります、と娘の部屋に下がって行った。


 2人きりになったのを確認してからヨーゼフが告げる。

「すまない。リーゼのあれは僕の癖だ」

驚くアレクサンドラの目の前で夫は口元を抑え、僅かに顔を赤らめた。

「……あなたの?」

「そうだ。リーゼは僕がなんとかしよう」


 ヨーゼフは扉を小さくノックしてリーゼの元へ近付いていった。

「リーゼ」

目尻をこすりながらリーゼは振り向いた。

「お父さま」

「ダンスの練習か」

「はい……」

ヨーゼフが小さな頭を撫でても、その表情は暗いままだ。

「よく頑張っているな」

「……わたし、全然出来ないの。上手じゃないの」

ぼろぼろと泣き出す娘をヨーゼフは抱き上げた。

「そうか」

「みんなと一緒に踊りたいのに、上手じゃないの」

「そうか」

「もっと上手になりたいの」

段々としゃくりあげて、言葉が聞き取りづらくなる娘の背をさする手は優しい。

 ヨーゼフは察した。あのお茶会でのダンスに相当憧れている。きっかけは大事だが、今すぐにあんなに軽快なステップを踏むことは無理だ。リーゼにはそれがわからなくて受け入れられない。

「先生がリーゼのことを褒めていたよ」

「……ほんとう?」

「ああ。それから乳母がリーゼのことを心配していた」

「……うん」

「足は痛くないか?」

「……痛い」

「眠いか?」

「……眠い」

「じゃあもう今日はおしまいだ。また明日にしよう」

 返事をしないで娘はまた泣き出してしまう。片手に彼女を座らせると空いた手でハンカチを取り出し、リーゼの涙を拭いた。

「リーゼ。明日、一緒に練習しようか」

 ぐずぐずと泣いていたリーゼが泣き止む。

「お父さまと?」

「ああ。だから明日のためにゆっくりお休み」

 そのまま廊下に出て部屋に連れて行く。娘は鼻をすすっていたが、もう涙をこぼすことはなかった。乳母が娘を受け取り、お休みを告げたヨーゼフはもう一度ホールに戻った。

 灯りを消していると、コートを片付けて戻ったアレクサンドラから声がかかる。

「ありがとう、ヨーゼフ」

「ああ、いや。随分と恥ずかしいところが遺伝してすまない。あんなところが似ると思わなかった……」

頭を掻く夫は本当に恥ずかしそうだった。部屋が暗くて顔が良く見えないが、もしかしたら少し顔が赤いのかもしれない。

「ダンスが苦手なの?」

「違うよ。……でも得意でもないな。ムキになるあの癖は算術の時に」

 意外だ。算術はヨーゼフが一番得意なことのはず、と思ったアレクサンドラの思考を呼んでか、ヨーゼフは言葉を続けた。

「兄たちは少し歳が離れていたから、僕とは色々なことで力の差があった。追いつけないで当然のことも叱られる。特に兄は優秀だったから、両親もそのイメージが抜けなかったんだろうね。それが納得できずに悔しい。出来ないことも悔しかった。どうしていいかわからず、意地になって机に向かい続けた」

話しながら足を進め、もう一つ灯りが消えた。

「その結果、勉強は出来るようになったが……知恵熱が出た時に耳が冷たいことに気が付いて触る癖がついた。ああしている時はね、悔しいのもあるが、1人で戦っていて自分自身に情けない気持ちなんだ。出来ると信じているし……今思えば、もう少し感情を上手に消化できていれば良かったと思う」

 ヨーゼフは思い出していた。熱が出ても使用人が心配するだけで、両親も兄たちもそれぞれの日常から外れることはなかった。当時は寂しいと思わなかった。ただベッドでも教本を広げ、どうすれば早く戻れるかだけを考えていた。涙の理由も全部そうだと思っていた。

「あのまま、練習させて足を痛めたらどうなるかなと思って、止めることにした」

そしたらきっと彼女は自分を責めてしまうから。

「どうして一緒に練習をすると?」

「なんとなく」

 あの時、両親や兄たちが見舞いに来てくれてもきっと何も変わらなかった。もっと惨めになっただけだ。気遣って甘やかされたかったわけではない。大きくなって寂しいという感情を知ってからも、多くを望むことは無意識下で避けていた。望むものは自分で手に入れる。ヨーゼフはそういう性格だ。

 ただ、リーゼは目の前の彼女が混ざった別の人間だ。もし側にいることで彼女が少しでも救われるなら、そう思った。何か具体的な例や確信があるわけではない。

「……あなたにも、そういう時期があったのね」

「……まぁ。そうだね」

 アレクサンドラはふっと笑った。夫はいつも一歩引いた冷静な人だと思っていた。生まれた頃からとは思わないがあんな癖があるのは意外だった。

「てっきり私の癇癪かと思ったの。可愛い癖で良かったわ」

夫は肩を竦めて恥ずかしそうに笑った。

「明日、私も見に来ていいかしら。あなたが踊るの、見たことがないわ」

 残り1つのランプは、目を細めて眉をしかめたヨーゼフを浮かび上がらせた。

「仕事は?」

「なんとかするわ」

笑顔の妻にヨーゼフは小さくため息をついた。顔が少し熱いからきっと赤くなっていて、相手のあの笑顔から察するにそれを見抜いている。得意じゃないんだけど、と小さく呟いて一歩前へ進む。

「それなら、今ここで見せるよ」

仄暗いホールの中に2人分の楽しそうなステップの音が響いた。

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