10.残像
緩めの三つ編みをハーフアップにまとめた髪がふわふわと揺れる。薄い桃色のドレスに身を包んだリーゼはこれから向かうお茶会へ期待ではしゃいでいた。今日は去年誘ってもらった友人主催のお茶会で、社交デビューの日でもある。
ベルネット家の今年の予定はほぼ全て決めた。アレクサンドラは去年誘われた友人関係のお茶会には全て出席、夜会も夫婦で参加することにした。サロンだけは返事を出していない。前回のことを考えても堂々と出席する方がいいのはわかっている。だが今年は娘のデビューの方が大事だ。発言を曲解されかねない社交界で、嫌味の応酬や口さがない噂話の余計なトラブルは避けたい。
個人差はあるが、3歳頃から社交界に連れ出す家が多い。この頃の子どもは両親の隣や後ろで簡単な挨拶が出来ればいい。名前が言えれば十分だ。
3歳半になったリーゼのマナーは年相応。贅沢な願いだが、出来れば今年のうちにたくさん友達を作ってほしい。自分たちのグループがさらりと解散したのを思い返しても、家の関係や習い事や能力でお互いを値踏みし始める前に、友達が増えている方が幸せなような気がした。
ふわりと桃色の裾を広げて、娘が馬車を降りる。3着作ったドレスの中でこのドレスが娘の一番のお気に入りだ。
まだ少し身長は伸びるだろうが、秋頃になるとデビュタントのドレスで混雑してしまうからと、早めにデザイナーを呼んだ。去年のワンピースの裾も短くなり、新調する必要がある。
子どものドレスは大人のそれとは違い、スタイルを良く見せるためのラインは必要ない。標準的なデザインに調整が利くようにバックリボン、身長が伸びた時のために丈は少し長めにし、それに加えてレースを隠しボタンで留められるデザインを提案された。胴体正面のデザインも豊富で、シンプルなものから子どもらしい可愛いもの、大人の間で流行っている前衛的なデザインを真似たものまである。あのワンピースは切り替えや裾に布を下に足して、縫い目の上をフリルで飾れば作り直す必要はないという。自分が子どもだった20年前とは随分違う選択肢の多さに感心しながら、アレクサンドラはその説明を聞いた。
同時に色も選ぶ必要があるので色見本を用意してもらう。
アレクサンドラ自身は幼い頃から顔が派手で、華美なデザインの強い色のドレスも良く似合った。だがリーゼは違う。どの色のどのデザインが一番可愛いか、アレクサンドラは娘の顔を見た。リーゼはきらきらした布を嬉しそうに眺めていた。
ふと、去年のワンピースは自分が決めてしまったことを思い出して、娘に声を掛けた。
「リーゼは何色が好き?」
しばらく考えたリーゼが指差したのは、アレクサンドラの持っているドレスの色だった。いつぞや駆け寄ってきた姿が思い出される。だがその色はリーゼに合わせるのが難しいように思われる。
「お母さまの」
「お母様と同じお色がいいの? リーゼの好きな色を選んでいいのよ」
少し迷ったリーゼはワンピースとよく似た淡い色を指差す。
「このお色も好き」
デザイナーはにっこりと笑った。
「こちらの鮮やかなお色でしたら、襟付きワンピースにされて顔周りに白いレースを重ねるとお似合いかと思いますがいかがでしょうか」
薦められたレースは細やかで美しい。白が入ることで色の強さが柔らかくなり、リーゼの顔にも似合うようになる。
「こちらの淡いお花のお色ならばドレスがおすすめです。おリボンを飾っても可愛らしいと思います」
鮮やかな色を似合わないと否定せず、アレンジしやすいワンピースを薦めるのもさすがのセンスだ。上手な提案に感心して話し込んでいる脇で、リーゼは数色の見本を寄せた。可愛い手元に野の花のように淡い色が集う。どの色も彼女に似合う色ばかりで、アレクサンドラはその表情から本当は淡い色が好きなのだろうと察した。
親子はその中から3つを選び、シンプルなドレスを頼んだ。今年選ばなかった色は来年、鮮やかな色はワンピースにしようと約束した。今難しい色もいつかのリーゼには似合うかもしれない。リーゼも約束に嬉しそうに頷いた。
お茶会の参加者に挨拶をして回る。誰もがリーゼのマナーを褒めてくれた。娘を隣に座らせ、お菓子とお茶を楽しんでいると、庭の奥に数人の子どもの輪ができていることに気が付く。見れば少し大きなお姉さんたちが小さい子に本を読み聞かせており、その親たちはその脇でお茶を楽しんでいる。
リーゼもそちらを見ているので、混ざるか訊ねると元気よく頷く。手を引いて連れて行くと輪の外側にいた幼い姉妹に挨拶をされる。にこにこと笑う姉は6歳、ドレスの裾をつまみながらもきちんと挨拶をした娘はリーゼと同じ3歳だ。もし妹と一緒に社交に出ていたらという気持ちが胸を掠め、アレクサンドラの心が痛む。そっと背中を押すと、リーゼは2人と手を繋いで子どもたちの輪に入って行った。
王都での日々は表向き順調に過ぎていく。
いくつかのお茶会で去年は会えなかった懐かしい友人に再会できた。アレクサンドラより先に子を産んだ友達が多く、どこに行っても子育てや習い事の話は尽きない。友人の紹介で新しい友人も増えた。茶会は勿論、夫と夜会に出ることで、少なくともアレクサンドラへのからかい交じりの誤解は解け始めた。
だがサロンには行かない。今年はやめておくことにした。その理由はリーゼを見た一部の貴族の反応だ。
大人の中にはリーゼを見て複雑な表情を浮かべる者がいた。誰もはっきりと口にはしないが、侯爵夫人に似ていると思っているのだろう。父マルコを知っている人ですら、少し言葉を濁した程だ。
想像はしていたが状況は良くない。きっと陰ではあれこれ言われているだろう。その大半が自分をあざ笑うものだというのは容易に想像できる。最早サロンではどんなに笑われているかわからない。噂の早い社交界でここまで長引くのは、元々自分を良く思っていなかった人たちの存在と影響だと気が付いたがどうしようもない。
それでも自分のことなら我慢は出来た。そこに少しでも夫や娘への中傷が混ざるなら許せる気がしなかった。言い返して口論になる恐れもある。サロンに顔を出さなくて正解だったと心からそう思った。
あの時も今も噂は噂のままで済み、笑われるのは自分だけで済んでいる。もしアレクサンドラが何かすることで大事になり、娘が似ているという噂が悪意を含んで侯爵家に伝わり、それが侮辱に解釈されるようなことがあれば、この家は終わりだ。夫が繋いでくれたこの細い道を踏み外す訳には行かない。
余計な事態を招かないためにはとにかく静観するのが一番だ。目的は娘のことだけ。そのためだけにアレクサンドラは前を向いて社交の場に立ち続けた。
秋の中頃、新しいリボンを買いにアレクサンドラとリーゼは馬車に揺られていた。貴族向けの店が並ぶ区画に向かう道すがら、馬車は大きな公園の脇を通った。公園の見事な紅葉を眺めていると、ガゼボでお茶を楽しむ2人のご夫人が目に留まる。側にいる侍女たちの雰囲気から格上の貴族だとわかる。何の気なしに見ていた2人の姿が近付いてくる。大きくなったその人の、表情まで読み取れるようになった瞬間、時が止まったような気がした。
――ソフィア。
たった数秒、そこを通る間の出来事だったがアレクサンドラの目にはくっきりとその像が残った。
2人の女性の片方は実の妹だった。隣には侯爵家の長女、フランシスカ。2人は紅茶を片手に、まるで本当の姉妹のような雰囲気で笑い合っていた。妹の顔は確かに妹だとわかるが、その顔付きも表情も初めて見るものだった。そして妹に似ている娘とは違う笑顔だった。
成長して着飾ったソフィアは美しかった。アレクサンドラとはタイプが違い、大人しく上品な雰囲気をまとっていた。地味だ地味だと蔑んでいた自分が恥ずかしくなるほどに。
窓に張りついても、公園は過ぎ去って2人の姿ももうぼんやりと見える程度だ。
正面で侍女の膝に座る娘は何も知らずに無邪気に外を眺めている。紅葉の公園は美しく、領地とは違う人工的な並木は見事なグラデーションを示している。それを楽しむ、妹のどことなく儚げなそれと違うはつらつと明るい笑顔。なんとも言えない気持ちに、誰にも悟られないよう小さく唇を噛んだ。
アレクサンドラの気を楽にするように、リーゼは社交の場を楽しみ、順調に友人を増やしていた。王都に来たことで同年代の子どもから刺激を受けたのか、娘は自分の考えを話すようになった。表情も益々豊かになる。3歳以下の子どもは滅多に居らず、いても母親から離れないから、彼女が実質一番下で可愛がられている立場だが、背伸びをしてお姉さんたちに混ざろうと必死なのだ。
ある日、リーゼが庭を綺麗にしたいと言い出した。何事かと思ったが、どうやら先日お邪魔したお茶会での見事な花壇が忘れられないらしい。
お茶会は基本的に貴族の屋敷の庭で行われる。噴水や花壇が彩る美しい庭も貴族の財力やセンスを自慢する材料の1つである。ベルネット家の王都の屋敷は、屋敷本体にお金をかけるために庭にはあまり力を入れていない。小さな花壇があるだけで、いつぞや燃えたそこにも芝がそのまま生えているだけだ。領地の庭は造園した訳ではないが、野草が咲き、枝葉は危なくないように綺麗に刈りこまれていた。
リーゼは元々花が好きだ。領地の庭を散歩するのが大好きだったし、王都に来てからは綺麗な植え込みや庭を見るたびに目で追っていた。聞けば要望は花壇を整えて花を増やすことだ。これなら費用も嵩まず、王都の使用人の負担もそこまで増えない。ヨーゼフとアレクサンドラは彼女の要望を叶えることにした。
元々の予定にはなかったが、夜会で再会したチェールトに誘われ、シーズンの終わり頃の大規模なお茶会に急遽夫婦での参加を決めた。参加しているのは農業関係に強い男爵家や子爵家だ。
チェールトは実家の侯爵家の関係でソフィアを知っているらしい。リーゼの顔を見て一瞬眉を上げたものの、すぐに表情を笑顔に戻した。義理堅く優しい彼は子どもにも礼儀を尽くす。挨拶もドレスも素敵だと褒められて、リーゼは嬉しそうに笑った。
この辺りで一番大きな子爵家の庭は美しく整備されとても広い。庭の真ん中では8歳くらいの子どもたちが輪になって踊っていた。貴族のダンスから、農民が踊る簡単なダンスまで、調子よくステップを踏む。貴族が農民のダンスを踊るのに驚いたが、聞けば農作物が産業の男爵家などは農民と親しくすることもあり、季節の祭りに顔を出すことも珍しくないという。自領も仲は良い方だが、見回り以外ほとんど接点はない。驚くアレクサンドラの隣で、平民とも距離の近かった夫は笑顔で話し続けていた。
子どもたちは簡単な楽器や歌に合わせてくるくると楽しそうに踊る。ふわりと翻るドレスの裾は蝶のようで、弾ける笑い声が賑やかだった。その様子にリーゼの目は釘付けになった。うらやましそうに見つめても背中は押せない。リーゼはまだダンスが上手ではないし、上手であってもあんなに大きなお兄さんお姉さんに混ざって踊るのは無理だ。
「今度、一緒に踊れたらいいわね」
頭を撫でると娘はこくりと頷いた。
全ての社交が終了し、屋敷に戻るとアレクサンドラは大きなため息をついた。あの日以来、リーゼのために動きながら、残り半分は自分のために動いていた。
侯爵家が混ざることもある大きな夜会や、商会繋がりの夜会で、もしかしたらという思いで妹の姿をそっと探した。しかし姿を見かけることはなかった。顔を出しはしないがサロンの話題もそっと耳に挟むようにした。だがそこにも妹の気配はなかった。口に出して誰かに聞くことは叶わない。全てを知っている夫にも言えずに、1人で心をすり減らした。
会ってどうしたいのかもわからない。謝りたい気持ちと、どう伝えていいかわからない気持ちが胸の中で渦を巻く。それでも探さずにいられなかった。
シーズンが終了して思い出した。ドレッセル家はシーズンの初めの頃しか王都にいないと、顔合わせの時に聞いたではないか。あの公園で見かけたのは中旬、もう引き上げる頃だったのだろう。
そしてアレクサンドラは悟った。いつぞやの自分の考えは当たっていたのだ。奇跡が起こらない限り自分は妹に会うことはない。手紙を書く勇気すらない自分には何もない。
妙に涼しい風が足元を過ぎていった。季節はもう冬だ。
※ルビ・傍点が表示されない方へ
以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます
侯爵夫人に似ていると→「侯爵夫人」に ソフィア
実の妹だった→「妹」に ソフィア
明日から少し短めで最終話に向かいます。全14話予定です。




