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咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第4章 駒
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09.決別

 社交から戻ってすぐ、ベルネット家でリーゼの教育が始まった。

 王都滞在中にリーゼは観光を楽しんだ。舗装された綺麗な道路や整備された公園、美しい紅葉に目を輝かせた。街で買い物をして綺麗なリボンや新しい絵本をたくさん手に入れ、美味しいお菓子をお土産に大喜びで領地に戻った。それらが励みになり、来年の社交デビューに向けて興味津々で頑張っている。まずは読み書きとマナーからだ。特に読み書きは大好きな絵本が自分で読めるようになるのが楽しいのか、熱心に学んでいる。アレクサンドラもヨーゼフもこうしたことには幼少期から強い。遺伝もあってか賢いリーゼはすぐに知識を吸収した。

 仕事の合間に様子を見に行くと、乳母と一緒に絵本を読んでいることが多い。声を合わせて、真剣に読み上げるその様子は大変に可愛らしい。文字はまだ書けないが、指でなぞる仕草も見せる。


 家庭教師はアレクサンドラが世話になった講師陣に頼み、予定は夫婦2人で話し合って決めた。すっかり日常に溶け込んでいる例の表に娘の予定も書きこみ、娘の自由時間に自分の休憩をあてたり、一緒に視察に出かけるように予定を組んだ。生活リズムの変化にリーゼが混乱しないようにケアにも努めた。だが娘は無邪気に楽しんでいるようで、そっと見る限りは問題がなかった。穏やかに冬は過ぎていく。



 春の始まり、執務室のソファで予定表を見つめるアレクサンドラの隣にヨーゼフが座る。目の前の予定表には3人分の予定がぎっしり書きこまれている。

「……もう少しゆっくりでも良いように思うが、どうだろうか」

「……そう思う?」

「今はね」

 数ヶ月経ち、アレクサンドラは3つになる幼い娘の生活が不安になっていた。リーゼ自身は元気そのもので勉強を頑張っているが、乳母と遊んで過ごす時間が極端に減りすぎている。

 心配はヨーゼフも同じだった。

「君がご両親の件も考え、あの子の事をよく考えているのはわかるよ」

ヨーゼフが手配したミルクティーがアレクサンドラの前に置かれる。温かく甘い香りが頬を撫でた。

「……それもあるけど、寂しくないか心配になったの。……思い出せる記憶には全て両親がいるの。勉強やマナー、あらゆることを笑顔で褒めて励ましてくれる。遊んでいた記憶がないわ。段々とどうすればいいのか、わからなくて……」

 大半の貴族の子どもは教育を詰め込まれる。一人前とみなされる成人までの間に、全てを覚えさせるためだ。特に当主候補の子にはそうだ。遊ぶ時間は少なく、空き時間も親とお茶をし、友人に手紙を書いたりと社交の練習のようなことをして過ごす。

 覚えていないがアレクサンドラもそのようにして育ち、ある程度大きくなってからは両親と出かけたり、母とお茶をしていた。わからなくてもある程度は当然。

 だがそれ以上に胸を覆う焦りの原因は、自分の人生への自問自答の答えが出ていないことだ。

「……以前、あの子と妹を重ねていないと言ったけれど、少しは重ねていると思う。時々考えるの。妹はずっと何を考えていたんだろうって。寂しいと思っていたなら、私が親を取り上げたようで本当にひどいことをしたと思うわ。そしてリーゼに寂しい思いをしてほしくないの」

ミルクティーはカップの底を映さず、その表もアレクサンドラの影を映すだけ。揺れる瞳を見たのはヨーゼフだけだった。

 ヨーゼフはその様子に今まで黙っていたことを告げることにした。

「これは1つの残酷な憶測だが……もし、彼女が自分の扱いの真実を知っていたとしたらどうだろうか」

 ヨーゼフ自身は自分がどういう扱いかを知って育ってきた。あの夜会でのソフィアの様子から察したのだ。自分の側にいるべき姉の姿を探す瞳には怯えはなかった。多少の溝があるのは当然だが、妹が溝を深くもっているのは姉ではなくあの両親、家自体だ。きっと彼女はどこからか自分の運命を知っていた。姉が両親を取りあげる以上に親が彼女を捨てていることを理解していた。

「可能性の話だが、ゼロではない」

――私が見た父の手帳を、妹も見ていたら?

 あのいつも冷めて諦めた瞳が、全てを知っていたからだとしたら。想像できない日々の暗さに、温かいカップを持っている指さえ凍り付くような気になる。

「アレクサンドラ。見ないふりをしていてもわかっているように、君だって駒の1つだ。そしてそれはもう過ぎてしまった。転んだ子どもは1人で立ち上がれないといつまでも心優しい親を待つのか? 君なら立ち上がるだろう。君の妹もそうだ。多分、あの人は全てをわかっていた」

駄々をこね、全てを拗らせてうずくまっていたアレクサンドラを立ち上がらせてくれた人は、優しく言葉を続けた。

「君の言う通りリーゼはリーゼだ。君でもあの人でもない。リーゼ自身の様子を見て、僕達が彼女と決めていくんだ。考え方は違うだろうが、こうして話し合うことが大事だと思う」

ヨーゼフの言葉は答えではないが、これからのことだけを教えてくれる。

「前も話したが、君が彼女に近いなら僕は君と対であろうと思う。近すぎず遠すぎず。娘と同時に君のことも見守りたい。その観点から行くと、彼女が生まれてからずっと、特にここしばらく君は仕事とリーゼにべったりだ。少し自分の時間が必要だろうと思う。というわけで」

ヨーゼフはアレクサンドラが視察にでる間の自分の空き時間と、アレクサンドラの自由時間をトントンと指で示した。

「ここの時間は、僕がリーゼと庭の散歩をと思うがいいかな」

 張り詰めていた糸を切るように、呑気な提案をしてきた夫に驚く。冗談を言う人ではないからこれが本気で、本気でアレクサンドラを心配してくれているのは充分にわかった。

「勿論よ」

「ありがとう。君も時間があれば是非一緒に」

ええ、と笑ってからアレクサンドラはミルクティーを飲み干し、予定表に向き直る。数ヶ月分を整理して、もう少しゆとりあるスケジュールを組み直そうと考えを巡らせた。



 この頃、両親は中々孫娘に会えなくなっていた。アレクサンドラがリーゼと共に離れを訪れるのは月に一度。それでもリーゼが勉強を始めた頃は庭の散歩の際に交流を持つことが出来たが、最近ではその時間も稀だった。

 初夏を迎えた頃、両親は母屋に乗り込んできた。名目はリーゼの教育の様子を見る為である。アレクサンドラは一瞬構えたが部屋には講師がいる。両親が口を挟む余地はないはずだ。

 その予想の通り、両親は一通り勉強の様子を見て大人しく離れに戻っていった。予定が空いたヨーゼフが同席したこともあったが、何も言われずに済んだ。アレクサンドラは胸を撫でおろした。


 それから2週間後、アレクサンドラとリーゼが離れの両親を訪ねた。いつも通りの報告をまとめ、リーゼに勉強の成果を報告させる。

 穏やかな空気の中、母親が口を開いた。

「ねえ、サーシャ……マナーの先生はあの方しかいらっしゃらなかったの?」

「え?」

「いえね、あなたの先生は侯爵家にも教えていらっしゃる方で、もっと優雅で素敵だったでしょう? それに比べて今の方は……リーゼにはもっと相応しい講師を付けた方が良いと思うの……」

 母親は優雅に紅茶のカップを傾けたが、アレクサンドラは固まった。

 講師を決めたのはアレクサンドラだ。本当は自分が教わった講師たちを付けたかった。だがマナーの先生はもうお歳で、代わりにと後任を紹介されたのだ。アレクサンドラ自身はこの先生を大いに気に入っていたし、リーゼに合わせて教えてくれる良い講師だと考えていた。

「大丈夫だと思います。先生のご紹介ですもの。それにリーゼも先生によく懐いております」

「そう? それならいいのだけれど……」

「カルラは心配しているんだよ。私もリーゼの頑張りに見合うような講師が必要だと思う。ドレスだってもっと可愛いものを――」

 父親の声を聞きながら、アレクサンドラは両親の考えを察した。この間様子を見に来てから、どうすれば自分たちの思い通りにリーゼを育てられるか考えていたのだろう。以前ならヨーゼフを巻き込んで味方に出来たが、あの日以来彼はあてに出来ない。だから2人で色々考え、立場を利用する作戦に出たのだ。口にしている内容も粗探ししたように些細な事ばかり。

「――それでね、カルラの古い知り合いがマナー講師をしていると――」

 人に手紙まで出して手を回してもいる。こうすれば断れないと踏んでいるのだ。言葉の端々から、あわよくば母屋に戻ってくる考えも透けて見えている。いつかの言葉が耳に蘇る。

「――お前たちは中々によくやっているが、何しろ初めてのことだ。私たちの経験の方がより良くリーゼの為になるはずだ」

ぴしりと胸に亀裂が走る。

「そうよ、サーシャ。リーゼはこの家を継ぐんだもの……」


――もううんざりよ。


 アレクサンドラは母親の言葉を朗らかに遮った。

「ご心配ありがとうございます。でもリーゼのことは私たちが責任をもって育てます。夫もすぐ側にいてくれますもの」

にこりとリーゼに笑いかけると娘も嬉しそうににこっと笑顔を返した。付き添いの乳母に言いつけてリーゼを連れて先に母屋に戻ってもらう。

「だがね、アレクサンドラ、私たちはこの家のことを思って……」

「ええ、ありがとうございます。私も同じ思いです」

 その返答に母親は真っ青になり、その隣で父親が真っ赤になる。手に持ったカップをガチャリと乱暴に机に置く。アレクサンドラの言葉は両親の現状を肯定し、家のために口を出すなと2人を明確に拒否したのだ。

「お前は……! お前は数年前、自分がしでかしたことをわかっているのか! 私たちがどれほど……!」

「わかっています。その節はご迷惑をおかけいたしました」

すいっと頭を下げると、父親は言葉を失って震えた。

「わかっているからこそお断りしているのです。リーゼを私の様に育てないために」

アレクサンドラの心は二分されていた。怒りに燃える半分と、冷たく凍る半分。悪びれない両親の姿はとても醜く見えた。

「お父様、お母様。私を大切に育てて下さったことは大変感謝しております。ですが、娘のことは話が別です。あなた方が迎えて下さった夫はとても優秀で優しい方です。お陰様で家は順調と言えます。私ももう子どもではありません。この家は私たちがしっかりあの子に渡します」

 ソファから立ち上がる。

「待ちなさい! まだ話は……」

「……リーゼは……ソフィアによく似ていて、ああいう淡い色の服が似合うの」

アレクサンドラの口から飛び出た数年ぶりの名前に両親が息を飲む。

「それにあの子自身も淡い色が好き。今日のワンピースもあの子の好きな色よ」

 この場の誰もがあの子によく似た妹の好きな色を知らない。王都の使用人に聞いても誰もソフィアの好みを知らなかった。自嘲の意味を込めて呟いたアレクサンドラの言葉は両親の胸を抉った。

「リーゼのことでご意見が変わるようならお手紙を下さい。夫と相談して考えます。もしお考えが変わらないのなら、しばらくこちらには伺いません。……本日はこれで失礼します」

 一方的な言い方ではあるが、この両親と話しても平行線なことは知っている。そのうち父親が大声を出す可能性もある。アレクサンドラはさっと礼をして呆然とこちらを見つめる両親をそのままに離れを後にした。



 はしたないのは承知で渡り廊下を足早に通り抜けて母屋の扉を開けた。ドアを閉める直前、振り向きそうになる。ぎゅっと唇を噛んで扉を閉め、真っ直ぐ前を見た。目の前に伸びる一階の廊下には、今の気分と正反対の柔らかい日差しが差し込んでいる。ここも急ぎ足で通り過ぎて、駆け込んだのは誰もいないリネン庫だ。

 ドアを背中にずるずるとへたり込むと、涙が流れて来た。

 両親に癇癪を起こした時はいつも、言うことを聞いてほしかったから。両親を離れに追いやったのは胸の中の小さな自分を娘に重ねたから。今拒絶したのは大人になった自分の意志で、あの人達を良くないものだと思ったから。

 後悔と寂しさと、こんな事態を招いた自分の人生を悲しく思った。愚かでも温かかった両親を自ら捨てた。もうこれで独りぼっちなのだ。これまでもどこかで考えていた親の影を心から失って、心が晴れることもなく、そこに訪れたのは孤独感と喪失感だった。妹への罪悪感も湧き上がる。震える手を握ってくれる夫は今ここにはいない。


 涙が止まるまで泣いてアレクサンドラは立ち上がった。いつの日か別れた誰かに堂々と会える自分になるために。



4-08の注釈、前後書きを間違えており失礼しました。

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