08.捨て駒
帰りの馬車でアレクサンドラは心を決めた。
家に帰ると夫は出かけていた。クローゼットの中の独身時代のドレスを数着選ぶと、ドレスメーカーに繋がる商会の担当者を呼んだ。デビュタントに向けてメーカーは大忙しだが、仲介する商会はそれほどでもない。すぐに来てくれた。
アレクサンドラが来年までの依頼としてドレスの直しを希望すると快く引き受け、様々な提案をしてくれる。レースやビーズの提案の中から、レースとフリルの組み合わせを選んだ。苦い思い出のある飾りだが今のアレクサンドラに取ってはこれがベストだ。華やかではあるが柔らかく見え、レースも少なく予算もかからない。
その夜、アレクサンドラはヨーゼフを執務室に呼び出した。
「私、あなたに話さないとならないことがあるの。あなたは知っていると思うけれど、それよりずっとひどいこと」
本棚からすっと1冊の本を抜く。黒い表紙のそれは随分ボロボロの手帳だ。
「ドレッセル家と我が家の間には2代前からの約束があったの。お互いの子ども同士を結婚させる、というそれが全ての始まり。そして父と母と私が間違えたことが、全ての原因」
見た目よりずっと重く感じるその手帳をめくる。
「これは父の手帳……日記にしていたようなの」
開いたページはいつか妹が見たあのページだ。偶然、姉もまたこれを見ていた。
「これを読んでほしいの」
生まれた長女可愛さに、捨てるために子どもを作ったという無情な言葉が並ぶ日記。それを夫に差し出すアレクサンドラの顔は苦しそうに歪んだ。
「そこからしばらく続くの……読み終わったら聞いてほしいの。あなたが親切にしてくれたあの時も話せずにいた、ひどい話よ……」
受け取った夫はいつも通りの表情で手帳に目を移した。
重苦しい空気が部屋に満ち、紙をめくる音だけが、それを揺らしていく。どれだけの時が経っただろうか。
「――なるほど」
静かな声にアレクサンドラは拳を握った。
「あの日の妹さんの理由も、噂のことも、よくわかった」
ちらりと見ると夫もまたアレクサンドラを見ていた。その目に映る自分はひどく情けなく頼りない。
「そうか、君が少しおかしかったのはこれか」
手帳には捨て駒への粗末な扱いと、駒への称賛がぎっしりと並んでいた。
ヨーゼフは記憶を手繰る。あの日、アレクサンドラが言葉に詰まりながら伝えてきたのはやはり最低限の情報だった。噂も全て知っていたが、どこか繋がらなかった。違和感という程でもない何かにひっかかり、アレクサンドラの様子から目を離せなかった理由はここにあった。廊下のぼろぼろのカーテンの見事な刺繍も、あの時の卑屈な態度の理由もわかった。
「――黙っていてごめんなさい。……妹はあちらに差し出すために生まれた子。幼い頃、妹は私にとって邪魔者だった。それがある時、父からそこに書いてあることを聞いて、それからは何でもない存在として扱うようになったの。どうせいなくなるのだからって。あの子が使用人のように働いていても気にも留めなかった。噂になっていた私の嘘も本当よ。捨てる予定のあの子が、格上の侯爵家に嫁いで良い思いをするのがうらやましかったの」
何かに追われ怯えるように娘を見つめるアレクサンドラのあの視線。娘とよく似た妹。いつもより暗い声音でも、アレクサンドラはしっかりとヨーゼフの目を見て話していた。
「確かに両親はそこに書いてあるそのままだったけれど、両親の育て方以上に、私に思いやりや理解力がなかったことがいけないの。外に出ていたにも関わらず、年齢相応に成長も出来なかった。気が付いたのも最近。あなたに話すのも今。こんなに下らない女でごめんなさい」
両親を追い出しても変わらずに不安定だった様子は全てこれが原因だ。アレクサンドラは唯一の主として育てられ、全てを肯定されて躾けられた。妹を虐げることのおかしさもそのままに。過ちに気付いた時、どれほどのショックを受けただろう。そして今はどれだけ何に怯えて生きているのか。
ヨーゼフは手帳を閉じ、努めて優しく声を掛けた。
「僕に謝ることはない。……アレクサンドラ、リーゼは君の妹じゃない。もし罪悪感で重ねているのなら……」
そんな必要も心配もないのだ。自分がいるのだから。リーゼはリーゼとして2人で育てる、そう続けようと思ったヨーゼフの言葉を、アレクサンドラは首を横に振って遮る。
「大丈夫よ、ヨーゼフ。私は娘を妹と重ねているわけじゃないの。似ていて胸が締め付けられたのは事実だけど、重ねているのは自分自身。あの両親の繰り返す言葉を真に受けて、伯爵家の当主として私と同じ下らない理想を押し付けられるのが怖かった。……それはあなたの協力のおかげで回避できたの」
ヨーゼフの顔は厳しいがアレクサンドラは視線をそらさない。
「リーゼのことは貴方もいるから大丈夫だと信じているわ。決してあの子を妹にも私にもさせない」
僅かにヨーゼフの唇が動く。何の音も響かなかったが、アレクサンドラは肯定の返事と取った。
「あなたには本当に助けられている。もし今離婚を求められるなら、全てをあなたに譲ってもいい程に」
薄い涙の膜が張る空色の瞳は夜の明かりに揺らめいて、妻の気持ちを夫に伝えた。
「これから話すことを良く聞いてほしい。あなたにお願いがあるの」
ヨーゼフはそっとソファを立って、それまで正面に座っていたアレクサンドラの隣に移った。妻はじっと夫を見ていた。
「あなたには常に自分とリーゼのことを考えて動いてほしい。これからずっと、私のことを考えないで。あなたがこの家のために尽くしてくれた何もかもを、私が台無しにしてしまう可能性があるの」
アレクサンドラはお茶会とサロンの件を夫に話す。夫はそれでも表情を変えなかった。その表情の変化のなさに、アレクサンドラは1つの考えに至る。きっとこれまでの夜会で夫は笑われていただろう。嫌な家に入って愚かな嫁をもらったと言われていたかもしれない。それでも立派に努めてくれていた。それは本人の態度からもいつかの手紙からも、友人達からも聞いた話からも確かにわかっていることだ。
益々情けなくなる思いに目尻のそれがこぼれかけ、顔に力をこめる。
「今度の夜会、私が隣に立つことであなたは恥をかくかもしれない。――だけど私、必ず出るわ」
しっかり握った手が少し震える。
「私のせいであの子やあなたが辛い思いをするかもしれないと、社交に戻らないことも考えたわ。けれどそれじゃだめなの。社交に戻らなければ、今と同じで立場は悪いまま。戻った今、もう一度下がれば面白可笑しく笑う人たちの思い通り。そんなこと、いいわけないわ。私はあそこに戻るわ、家と娘のためにも」
サロンの件からずっと今からの自分がどうするべきかを考えていた。
遠くから小さな声で笑われたことで、社交界でのリーゼの世話を夫に任せ、自分は表から下がることも考えた。夫の優秀さを思えば違和感も少なく、それが一番なような気がした。だが、日が経つに連れて考えは揺れた。アレクサンドラはこの家の当主だ。ひっそりとすることと逃げ回ることは違う。いつも噂に怯え、後ろ指をさされる当主兼母親など、情けなくて余計に娘が傷つくだろう。不安と意地の間で悩み続けた結論は今日出た。
「社交界での私はずっと完璧だったわ。完璧な伯爵家の次期当主に相応しい娘のはずだったの。それから逃げたくないの」
どんな噂がどんな印象をもたらしていても、これまでをなかったことには出来ない。本当は見せかけだけで正真正銘の正しい伯爵令嬢ではなかったけれど、ごまかして逃げるようなことだけはしたくなかった。自分の間違いは自分にしか正せず、それが出来なければおしまいだ。
いつかは自分たちの世代の考えで全てが変えられると思っていたが、それは小さな世界での話で、世間も時代もいきなり変わらない。この社会で生きていくのには、守るべき慣習や逃れられない事がたくさんあるのだ。どれだけ気に入らなくても従うことは必要で、先に進む時を見極める力が大事だ。
夫はこれまで充分にこの家とアレクサンドラのために努めてくれていた。これ以上、任せきりにするのは気が引ける。今日、友人から聞いたのは夫が口にしたベルネット家の穏やかな話ばかりだった。
「私は社交に出る。あなたとも、あの子とも」
アレクサンドラはヨーゼフの手を取る。
「でも、もしそれであなたの頑張りが無駄になる恐れがあれば、あなたが指示して私を隠居させるなりしてほしい。さっきも言ったけれどあなたにはここを去る権利がある。その逆も。でもあなたに居なくなってほしくはないの。全部をあなたに譲るわ。あなたがここを手に入れたと外に知らせるために、あなたに決めてほしい。……その時はあの子をあなたに頼みたいの」
アレクサンドラ自身はヨーゼフと離婚する気はない。だが相手が望むならどんな形でも応えるつもりだ。それでも彼が以前言ってくれた「離婚しない」という言葉を信じてこう伝えた。今は別れるよりも、彼にこの家を渡せればいいと思う。娘も父親を失わずに済む。自分は地位を失うが構わない。彼が当主の方が評判は上がるだろうし、リーゼにとって自分はあの親と同じ、この家の荷物かもしれないのだから。
「この事はあの子に話すわ。きっと私を嫌がると思う。その時、あの子のことを支えてほしいの」
「……わかった」
「想像以上に迷惑をかけるかもしれないけれど……」
「構わないよ。僕は事情を知ってここに来た」
ヨーゼフはアレクサンドラの手を握り返す。
「いいかい、アレクサンドラ。リーゼのことは僕も大事に思っている。だからその話をリーゼにする時は僕も一緒だ。あの噂を知っていてここに来たんだ。噂話はいつでもそれぞれだが、君より少し長い人生の中で見極め方も知っている。やり直せる可能性も」
ぴくりと震えた指先を夫の手が包んだ。
「君が反省しているなら、僕は何を言われようと証人として喜んで隣に立とう」
泣きそうになるアレクサンドラの手をぽんぽんと軽く叩いた。
ヨーゼフは自らの妻の変化を喜ばしく思う。今の妻の様子はこれまでのどの話し合いとも違った。癇癪を起こして喚き散らす姿も、自らに疲れ果て呆れていたベッドの上の姿も、迷子の様に震えて悩んでいたあの夜の姿ももうどこにもない。迷いながらでも先に進んでくれることが何よりだと感じていた。
そういえばと、夫は帰りに商会に寄って耳に挟んだからとドレスの話を振った。
「ドレスを手直しすると聞いた。時期柄今年の仕上げは難しいが、遠慮しないで好きに直してくれ。新調も出来る」
安価なフリルを選んだのを気にしたが、妻は柔らかく首を横に振った。
「ありがとう。あのドレスは私がそうしたいの」
前も着ているあのドレスを直すことに意味がある。
知らない夫は怪訝そうに眉を上げたがすぐに下ろした。
「君が良いなら構わないが……確認だが今年のドレスが気に入らなかった訳では」
「いいえ。あれは素敵よ。あなたと出る夜会ではあれを着るわ」
「そうか」
ヨーゼフは密かに安心した。アレクサンドラは知らないが、ヨーゼフは女性の服装に疎い。あくまでも商会が把握している流行の中から妻の好きそうなものを選んでいるだけで、センスには自信がなかった。
「来年はリーゼの分も作るから少し相談ではあるけれど、新調するならまた夜会用にするわ」
娘と出るお茶会に比べれば夜会の方が数が少なく、ドレスもたくさんは必要ない。
「わかった。……僕は良く知らないが、君は美人で有名だったんだろう。似合うドレスを着ると良い。隣に立つのはこんな男だが、君が今も綺麗なのは事実だ」
相変わらずにこりともしないその褒め言葉にアレクサンドラは微笑む。いつかもそうだった。夫は誠実で優しい。もしかしたら照れ屋かもしれない。
「ありがとう、ヨーゼフ」
アレクサンドラは初めて自分から夫にキスをした。
数日後、夫と並ぶ初めての夜会で、アレクサンドラは真新しいドレスに身を包んだ。オーソドックスなデザインだが、ビーズのきらめきが彼女の美しさを引き立て、華やかにその存在を主張した。
多くの人の好奇の視線の中、夫と腕を組み、アレクサンドラは前を向く。耳には様々なざわめきが届く。扇の影から睨む人も笑う人も見える。それでも前を見て夫の隣で微笑んだ。いつか誰かにこの上なく美しいと言ってもらえた、豪華な花のような笑顔で堂々と夜の社交に復帰したのだ。
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