06.振り向く
娘が2歳になった年、私は社交に復帰することにした。去年も一昨年も夫が1人で出てくれている。正直気は重い。出産と育児を理由に欠席していたが、もうそろそろ限界だ。領地だってそんなに田舎ではない。自分がどのような扱いを受けるか憂鬱ではあるが、これ以上隠れていては、折角夫が盛り返してくれたこの家に、良くない噂が再来しても不思議ではない。一度醜聞を集めた以上それは杞憂では済まず、自分だけの問題ではない。今だってどんな噂が囁かれているか。どんなに気が重くても、守るべきものもある。唇をきゅっと結んで決意を固めた。
それに王都の屋敷に行きたいという思いもあった。どうしても確認したいものがある。
そうと決まれば急ぐ必要がある。シーズンはまだ先だが、社交に向けて親子分の準備を始める。まだ社交には出なくても娘のよそ行きは必要になる。ドレスメーカーを呼んでワンピースドレスを仕立ててもらう。馴染みのデザイナーは鮮やかな色の布ばかり持ってきたが、彼女に似合うのは淡い色。顔付きがあるので当然だが、何度でも自分と違う要素を知らされるのだと細く長いため息をついた。
この頃の娘はすっかりおしゃべりだ。短い単語をつなげては、明確に意思を伝えようとする。こちらの話した言葉も、完璧ではないが懸命に聞いて覚えようとしている。好奇心が旺盛な年頃なのか、本を読んでくれとねだることも増えた。
長い距離を歩けるようにもなった。急に駆け出して転ぶこともあるが、柔らかい絨毯を敷いた家の中なら安全だ。家中を楽しそうに動き回っている。乳母以外の使用人たちも常に目を光らせて危なくないように見ていてくれる。私より力の強い夫が抱いたまま外に散歩に連れ出してくれることもある。
両親はすっかり離れの住人になった。
1週間に一度、お茶の席を設けて交流と報告をすることで関係を保っている。初めの頃はちくちくと細かく確認を取られた事もあるが、私たちは抜かりなく例の表を使って両親を納得させた。当主とその補佐として私たちは上手くやっているつもりで、実際領地の事に関して具体的に何か言われることはなかった。
私たちは両親の前でも娘を注意し、決してその過度な甘やかしに飲まれはしない。初めは不満そうだった2人も、私たちが全体を上手く回している様子に口を出せなくなって、最近は遠くから見てくれている。
両親には悪気がない。だからこそ困る。自分たちが正しく間違いないと思っている。もし私たちが喧嘩をしたり、娘が怪我をすることがあれば、それみたことかとやってくるだろう。
自分でもひどい自覚はあるが、両親が離れで暮らすようになってしばらくしてから身体が軽いことに気が付いた。ここ数年、無意識のうちに両親に対し緊張感を抱いていたらしい。何かに追われる感覚も少なく、ぼんやりと時間を楽しむことも増えた。執務室で仕事をしている時や娘を抱く時に胸がざわざわすることもあったが、徐々に少なくなった。
こうなってから夫の存在をより心強く思うようになった。夫のおかげで今の生活がある。
夫はというと変わらずそこにいてくれ、仕事の相談にも育児の相談にも応えてくれる。感覚は違うが、彼は彼なりに娘を大事にしてくれている。
私も乳母もリーゼに対して子ども扱いしがちだが、夫はいつでも彼女を小さな淑女として扱っている。大人に話し掛けるのと同じように、良い時も悪い時も、声のトーンも常に穏やかに接した。一見冷たそうに思えるが娘は彼が大好きで、すっかり懐いている。いつも真面目なその顔が娘に接する時だけは少し緩む。本の読み聞かせだけは「下手だから」と断られるが、実はあの時の様にこっそり読んでくれているのかもしれない。彼女を抱き上げて庭を散歩したり、いろいろ話をしたりと、可愛がっているのは確かだ。
夏の半ば。出来上がった娘のワンピースが届く。自分のドレスは仮縫いもしたから後回しだ。侍女たちが包みを開けてくれているその脇で、乳母と共に娘にワンピースを着せる。
柔らかい黄色のワンピースも、薄紫のワンピースも彼女に良く似合う。ひらひらしたワンピースの裾からは綺麗な綿レースがのぞく。併せて仕立てたペチコートの裾もふんわりと可愛い。
「リーゼ、良く似合うわ」
娘はきっとわかっていない。けれど嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねるように歩いた。
「お父様に見せに行きましょうね」
そっと抱き上げて歩いていく。随分重たくなった。
夫は執務室にいた。この頃歩き回るリーゼを執務室には入れていない。ここは絨毯も古くて薄いまま。机や本棚も多い。ぶつかったりインク壺を倒したら大変だからだ。
久々の執務室をきょろきょろ眺めるリーゼを抱いたまま、夫に声を掛ける。
「お仕事中に失礼するわ。ヨーゼフ。リーゼのワンピースが届いたの。見てちょうだい」
計算していた夫はややあって顔を上げる。
「ああ――よく似合うね」
「もう片方もお花みたいに可愛かったわ」
「そうか。お出かけの日に見るのが楽しみだよ」
うっすらと優しい光をたたえた目がリーゼを見つめ、リーゼがにこにこと笑う。今はもうお金に困ったりしていないが、良い物を仕立てさせてくれた夫に礼を言う。
「ありがとう。それじゃ、汚さないうちに着替えさせるから」
そう言ってそこを後にしようと思うと、食い気味で声を掛けられる。
「君のはどうした?」
実はドレスを新調するように提案してくれたのは夫だ。数年間表に出ていなかったからこそ、と薦めてくれた。領地の税収も順調、夫のおかげで家計も潤沢、無理はなかった。
「これからよ。……リーゼを着替えさせたら確認して報告するわ」
「そう……あ、いや、君が気に入ったのならそれでいいよ」
なんとなく笑い合ってそこを後にした。
リーゼを乳母に預け、私のドレスを確認する。使用人たちが吊るしてくれていたそれはいわゆる既婚者向けの地味なドレス。デザインも色も控えめで、以前の自分なら嫌がったものだが、今はこれを着ることに何の感情もない。むしろ目立たずにいられるならそれが良いような気さえする。
そっと近付いて気が付く。自分が希望した生地よりも少し良い生地に変わっていた。仮縫いの時は補正とリーゼに意識を割いていたこともあって気が付かなかった。おまけに予定になかった胸元以外、袖口や裾にもビーズの飾り刺繍がある。当初よりもぐっと華やかさが増していた。どちらもきっと夫の指示だろう。
恥ずかしながら、私はこの前までレースとビーズでどれだけの価格差があるかを知らなかった。高級なビーズが存在することは知っていたが、伯爵家では分不相応で縁がない。華やかなドレスが大好きな私が満足するまでビーズを飾ると値が嵩む、それを避けるためにレースの方がやや割高でも結果的に安く上がると考えた親の思惑でレースばかりに囲まれていたのだと察した。そして一般的にはレースの方が豪華だから当然褒められる。それで満足していた。いくら何でも本当にあらゆることに疎く、真実を知る度に顔を覆いたくなる。
近付くにつれてビーズは光の反射できらきらと輝いた。少しのビーズでも十分に綺麗だった。確かにこれまで華美なドレスを着ていた私の新調したドレスが地味で、生地の質まで落としていたら、また家を疑われかねない。どうせ社交界での私の印象は悪いままで、夫とも不仲だと笑われている。夫の配慮には感心すると共に感謝しかない。
ドレスをそっと撫でて、私はもう一度執務室に向かった。それでいいと言ってくれたその優しさの意味も今はもうわかっているから。
社交のシーズン、秋がやってきた。
引退した両親は社交には出ない。娘を預かると言ってくれたが、丁重に断って親子で馬車に揺られた。出発してすぐは初めての旅行とよそ行きの洋服にはしゃいでいた娘だが、間もなく乳母の腕の中で大人しく眠ってくれた。この年齢ならと思って連れてきたが正解だった。あの家に残してくる方が怖い。社交にはまだ早いが、乳母と王都の屋敷に留守番させるつもりだ。
王都の屋敷は変わりない。うるさい程に騒ぐ胸を抑えながらちらりと庭を見ると、そこは控え目な草花に溢れていた。黒くすすけたあの時の様子はない。
足早にエントランスを抜け、2階の廊下を進む。見慣れた窓に揺れるレースのカーテンには美しい小花が散っていた。手に取ったそれは、細い刺繍糸で綺麗に穴をかがり、見事にカーテンを彩っていた。穴が開いても新しいカーテンを買えなかった理由はわかっている。糸が1本なのもきっと同じ理由だろう。
人の出入りで扉が開いている玄関ホールから風が吹いてさぁっと大きくカーテンが揺れる。間に合わずかがられることのなかった数か所の穴が陽の光を丸く壁にうつしていった。
ぼんやりとそれを見ていると、追って荷物を運んできてくれた使用人に声を掛けられる。
「奥様、まずはお召替えを。お疲れでしょうからお茶の用意もしております」
「ええ、ありがとう……」
返事をしながらも目を離せない。明るい光がやけに眩しく、円のまま目に焼き付くようだった。
誰も何も言わず上手に隠しているが、使用人たちは皆、リーゼを見て僅かに目を潤ませた。当然だろう。使用人に混ざって働く令嬢など異常なのだから、彼らからしたら相当気を遣い、この家をおかしく思っただろう。よく似た娘に何を感じても不思議ではない。
深夜、部屋を抜け出し、1人で廊下の一番隅の部屋に向かう。そっと開けた扉の向こうにはたくさんの肖像画が並んでいる。正面に飾られた当代の肖像画は自分自身だ。暗い部屋の中、自分の持っている蝋燭の僅かな灯りがそれをぼんやりと照らし出す。あの頃、自分はあんな風に笑っていたのか。自信に満ち、人を刺すような強い目。空色の瞳は寒い冬の氷の様だった。美しさはあるがどこか刺々しい自分の顔。自慢だった美貌は誰の目にどう映っていたのだろうか。これが完成した時、画家を褒めちぎり浮かれていた自分はどんな顔をしていただろう。
本当に嬉しかった。自分の絵を描いてもらえたことも、こんなに綺麗に、絵本に出てくるお姫様みたいに出来上がったこともとっても嬉しかったのだ。ただその感情の少しは、得意になって思い上がっていたものだ。
この家には間違えている自分しかいない。何もかも自分のせいだ。
「……ごめんなさい」
あの日、用意させた椅子を蹴り飛ばして癇癪を起こした自分。
前日にカーテンを引き、埃を払い、自分が希望した場所に椅子を用意したのは妹。
見せびらかした姿絵を褒めてくれた妹の顔が思い出せない。私が老いて、綺麗なドレスも似合わなくなっても、あの子はそれを笑いもしないだろう。いつだって「お姉様、素敵ね」しか言わなかった。言わせなかった。今だって、もし会えてもきっと同じことを言うだろう。
それに例え会えてもきっと私は謝れない。多分、困って曖昧に笑うだけだ。それこそ、人の目にはこの肖像画のような笑顔に見えるかも知れない。
気持ちを改めてヨーゼフに謝罪した時から変わったつもりだ。だが、何年も何年もずっと拗らせ続けた自分の口から、妹に対する謝罪を素直に口に出来る気がしない。なんと言って詫びればいいのかも、胸がガサガサするだけで、言葉が出てこない。
そもそも、あくまでも憶測だが二度と妹には会えない気がする。侯爵家は自らの評判を下げかねない妙な噂に対して否定はしたが、それだけだ。私やこの家に対する咎めもなかった段階で向こうの姿勢は明らかだ。ソフィアがベルネットの名で表に出たのはデビュタントのみ。それも答えの1つ。あの家は私が妹に関わることの一切を許さないだろう。
手紙すら門前で破り捨てられ、届いていないと言われても不思議ではない。
あの時、妹からリボンを奪って正当化したのは自分。
叱らなかったのは親。
先生を取られた気になって妹を疎ましく思ったのは自分。
肯定したのは親。
思い出した妹の事を言わなかったのは自分。
流していたのは親。
誰かの言葉で目が覚めなかったのは自分。
余計な嘘をついたのも自分。
訂正しなかったのも自分。
全部私のせいだ。
何度だってチャンスはあった。歪みきった自分が最後まで愚かだっただけだ。
何を奪おうと私を責めもしないあの子。ただそっとそこにいただけの子。
「ごめんなさい……」
本人には届かない声が、自分に染み込み、残りは部屋に震えて溶けていく。




