05.ヨーゼフ=ベルネット
その年もヨーゼフは昨年同様1人で王都の社交シーズンを過ごした。
和解して以来、アレクサンドラは本来の優秀さに加えて柔軟性を見せるようになった。領地の管理も上々。問題はあったが娘のことも可愛がっている。伯爵家に婿入りした時の予定とはかなり違うが、結果的に順調な結婚生活を送っているといえる。
諸々のタイミングもあり、夫婦で並んで社交に出たことはないが、今年は妻から1人で社交に行かせることへの謝罪の言葉があった。娘が幼いのだから気にしなくていいというのに。初めの妻の態度からは想像もつかないが、いつか並んで歩く機会があるだろう。柄ではないが少し楽しみだと思う。
今夜は農業関係の家が集まる大きな夜会だ。この国の大半は領地で農業を営んでいる。農具を扱う大きな工場の取り締まりを務める貴族も来ている会だからか、件の侯爵家の参加があるという。
ベルネットとの問題は町と社交場に流れる噂で耳にしただけだ。商会でも薬は扱っておらず、一切の関わりがない。ただ立派な家だということは承知している。そこの若妻が不思議な人だということも。
本来ならば挨拶をするべき立場だ。だが問題に加えて彼女自身が生家の名を名乗った機会は久しくないと聞く。どうしたものかと迷うまま、歩いていると偶然にも階段の踊り場でその2人に出会った。
妻の妹のはずのその夫人は、見慣れた妻とは似ていなかった。
穏やかな微笑みも、妻の自信に満ち溢れたそれとは全く違う。知らない人は本当に姉妹なのだろうかと疑うだろう。
だが確信はある。娘に似ている。妻が不思議な執着を見せる娘は、目の前の夫人にとても良く似ている。屋敷中が義理の父である大旦那様に似ていると口にする度に顔を妻が顔を強張らせていた理由はこれだ。
あの噂と今の様子から察して、妻の抱える罪悪感は相当なものだとわかる。プライドの高い彼女が誰にも全てを話せず、出会った当初の苛烈な自分自身と闘っている。両親を遠ざける提案を受け入れた彼女の気持ちは、きっとそこにあった。さっと脳裏をよぎった妻の笑顔に胸が痛む。
次の瞬間、迷いなどなかったように目の前の2人に声を掛けていた。
名乗ると夫の方は真面目な顔に少しだけ警戒心を示す。妻の方はその視線を私の横と背中にそっと動かし、何か言いたげに唇を動かした。
「なんとも言葉にし難い環境ではありますが、私はいわば契約の夫のようなものです」
詳細を語ることは憚られる。今自分がするべきことは妻となったアレクサンドラの代わりに、ドレッセルの家に敵意も他意もないと示すことだけだ。一度でもいい。挨拶したという事実が大事だ。ベルネットの家が穏やかになることで、少しでも妻の心の負担が減れば良い。
複雑な表情の目の前の夫人は薄い笑顔で優しい言葉を返してくれる。
「わざわざご丁寧にありがとうございます」
嫁いで以来、顔を合わせる事も、名を口にする事もない。彼女が生家に今思うことを知る人は多分隣の夫だけ。何も口にしない理由に憶測も飛んだが、答えは全てその言葉に込められていた。隣に立つ夫も警戒を解いていた。
「恐れ入ります。中々お会いする機会がなかったものですが、是非ご挨拶までにと思いまして…。それでは失礼を」
礼をしてから見た若い夫婦の顔はにこやかで、世間の評判も頷ける気がした。
例年よりも早く社交を切り上げ、家に戻ると領地は順調に農作物の刈り入れをしていた。途中、領民たちに新しい農具の話をしていたこともあって屋敷に着いたのはすっかり夕方だった。
アレクサンドラは娘を抱いたまま玄関まで迎えに出てきてくれた。たった2か月の間だが、娘は少し重たくなっていた。夜会であったあの人と同じ顔で娘はにこにこと笑う。
王都での事は全て報告書として送っている。改めて報告する事と言えば、直接話すべきだと思ったあの夫婦の件だけ。土産物を嬉しそうに開ける妻を見ていると迷いが生じる。タイミングを誤れば必ず気に病むだろう。平気なふりをして、1人でぼんやり空を眺めるのだ。
いつ話したものかと頭を悩ませ、ふと気づく。前の自分ならこんなことで悩みもしなかった。歳を取ったからか、それとも自分の家と重ねているのか。思わず大きなため息をついた。
深夜、執務室で旅費の精算書類を片付けているとアレクサンドラがワインを差し入れてくれた。「明日にすればいいのに」と笑われたが、これだけは片付けてしまいたかった。かまどの火が落ちていてごめんなさいね、とゆっくりとした動作でグラスを置くアレクサンドラ。
ふと、話すなら彼女がいつも顔をきりりと引き締める、この部屋で話すのがいいような気がして口を開いた。
「先日、ドレッセル家のご夫婦に会ったよ。挨拶した程度だが」
「……そう」
少しの間の後の返事は震えていた。
アレクサンドラには、挨拶をしてくれたのも、わざわざ話してくれるのも、夫が自分の気持ちを理解しているからだとわかった。それでも心臓は跳ねた。
自分が過ごした日々に映り込むことのない妹。最後の姿すら思い出せない妹。いつも薄い影がそこにあっただけ。確かに「いた」。しかし思い出せず、わからない。
ドレッセル家が妹を厳重に守っているのは明らかだ。それほどまでに恨まれているのかと考えた時もあったが、そうでないこともわかっている。
ベルネットの醜聞が流れたあの時、火事という事実以外の全てはただの噂だった。ベルネット家における彼女の生活の実態が事実として語られたことは一度もない。妹はそれを話さなかったのだ。話せば妹の完全勝利だったそれを、ただの一言も。ただ長男が自らの醜聞を蹴り、妹の姿を見た周囲が事実を話し、火事とまとめた噂にしただけ。それだけだ。
さすがに無知な娘を送り込まれたドレッセルの家は、ベルネット家の思惑や事情に気が付いているはずだ。それでも何も言わないことで妹を守っている。この2つの家が社交の場で対峙すればそれだけで話題になる。あの家はどんな娘も育てられるだろうが、虐げられていた令嬢として妹は社交界で蔑まれるだろう。何かをすることで妹も我が家と共に傷つくのだ。それを避けているのだろう。自分の手紙を不問にしたのもきっとそれが理由だ。相手にしないという意思表示に、こちらは救われている。
だがそれに甘えずにベルネット家はドレッセル家に一切の反意がない事を示す必要があるのも事実。何も言えずにいたのに、夫は1人で向かってくれたのだ。胸が詰まって声が震えた。
「……元気そうだった?」
目を伏せたままの言葉に夫は短く返事をしてワインを飲み干した。
妻の本心はわからない。どう声を掛けて会話を続けるか迷う。静かな空気の後、夫は口を開いて何も言わずに閉じた。
ヨーゼフは妻を慰めようとして止めた。
いつかもそうだった。彼女が自分で救われないとだめなのだ。
しかし自分はその言葉を見つけられない。
ヨーゼフは非常に利口であり、重ねてきた年齢の分だけ観察眼は鋭い。商売の一端を担う仕事人としては優秀だが、決して他人に優しい男ではない。恋人もいた事はある。だが別に恋や感情に浮かれたり溺れたりしなかった。そういうものだと思って接していた。ただそれだけだ。
貴族の兄弟関係は複雑だ。家々でかなりの差があり、同じ順番で生まれた同じ立場の者をうかつに自分と同じと考えてはならない。長子を跡取りと厳しくする家と甘やかす家、長子を跡取りとせずそれぞれに厳しくする家。
ヨーゼフの家はベルネットと同じで小作農に頼る小さな領地を治めている。それ故に親は厳しかった。兄弟は自分を末に男3人。次期当主を座は兄弟間で争う弱肉強食の世界で、関係は険悪ではないが良好とはいえない。勝負を勝ち取った長男は親の重圧に耐えながら家を継ぎ、兄に負けた次男は表面上は呑気に家を出たが、その先で両親を見返そうと躍起になっている。
兄たちと少し歳が離れた事で然程期待されていなかった自分は、その通りそれなりの出来だった。努力しても兄には追いつけないと明らかだ。それでも親には大分厳しくされた。表面上は勝負に混ざるふりをしながら、補佐を目指して一番得意だった算術を頑張って伸ばした。
それには理由があった。全員で競えと言う親の言いつけ以上に、ヨーゼフは領地のために働きたいと思っていた。親が厳しい分、領地の大人たちが優しく思えた。自分たちの生活を支えてくれるこの人たちがもっと幸せに暮らしてほしいと、そう願った。当主にはなれなくても補佐なら、と狙いを定めたのだ。
だが結果は残酷で正直だった。算術以外は兄たちに追いつくことができず、補佐の立場も財産を与えられることもなく、成人と同時に家から追い出された。
次兄の様に上手くやれるとは思えず、算術を活かせる商会の会計に世話になることを決めた。彼らの役に立つことは自分の将来の夢にも近い。幸い罵られながら育った経緯でプライドは高い方ではないし、平民に混ざって仕事をするのは苦ではなかった。
初めの頃は家に対して暗い気持ちを抱えていた。しかし社会に出て様々な人と関わっていく中で、家のことは気にならなくなっていった。たまに社交にも出る。結婚は出来ずにいたが、なんだかんだと生活は満ち足りていた。
この縁談が持ち掛けられた時に思ったのは「これは利用できる」ということだった。久々に家のことを思い出したのだ。本当の自分の夢が叶う。結婚にはすっかり興味を失っていたが断る理由もない。酷い噂は知っていたが、自分の目標に関係のある噂ではないし、構わない。娘の容姿も年齢も興味がない。後がない相手の事情も事情で利用するには丁度良かった。
そして初対面の日、愚かで美しい娘が気の毒になった。
20を迎えても自分自身を冷静に理解できていない。悲しい程に憐れだった。次兄の様に何かに執着して心を擦り減らしている。それが自分のせいだとどこかでわかっているから逃げたくて、物や人に当たり散らす。幼児の様だった。
義理の両親の様子から彼女がこれまでどう育てられてきたのか、推して測るものがあった。父親が手のひらを返し、急に冷たくなったこともわかった。その口から彼女への評価を聞いたことがある。戸惑う様に前は優秀だったと繰り返す。口を滑らせたのであろう失礼な評価も忘れていない。
あまりの状況にため息をつきたい日もあった。
当然だが相手は成人している。彼女に限らず甘やかすことを良しとは思わない。頼られれば応えるが、彼女のプライドの高さからそもそもが滅多にない。育ちの原因がわからない程、無駄に歳を取ったつもりはない。
妹の様子を思い出す。
あの時自分の横と後ろをさまよった視線に怯えや恨みは一切なかった。期待もなかった。ただ『探して』いた。それがこの家の異常さを訴えていた。
妹はこの家と。姉は妹と。そしてあの日から両親とも、誰かが埋めることのできない溝を抱えている。
残念だが一番の元凶はそれを理解していない。だからその溝をどう埋めるか、改めるかは彼女たち本人が見つけなければならない。
出来るのは少しだけ背中を押し、手を差し伸べて待つことだけ。
「2人とも、幸せそうに笑っていたよ」
考えた末に穏やかに伝えた言葉に妻が小さくため息を洩らした。聞こえない様な声で「良かった」と呟いたような気もする。
アレクサンドラを愛しているかと聞かれれば応えづらいものがある。
だが家族として、大切に思っているかと聞かれれば答えは簡単だ。同情で側にいる訳ではない。いくら発端が結婚を利用する気持ちだったとしても、彼女自身を利用するものでもないし、同情で子どもを産ませるほど無責任なつもりはない。
過去は変えられないけれど、不安に怯えながら生きていてほしくはない。この人は自分よりも長生きする。自分が側にいられる時間は思うほど長くない。その間に少しでも不安を薄くする手伝いが出来ればいい。
この人に少しでも穏やかな人生を歩いてほしいとそう思う、それだけだ。
ヨーゼフはいつの間にか固く握りしめていたアレクサンドラの掌を広げて、手をつなぐと立ち上がった。
「おいで。今日は一緒に寝よう」
結婚当初アレクサンドラが拒否したことを発端に、和解してからも夫婦は別々に寝ている。夫は領地に関することでなければ、アレクサンドラが望まないことは絶対にしない。そんな夫が妻に声を掛けたのは初めてのことだった。妻はゆっくり頷いて、夫に手を引かれ共に寝室へ向かった。




