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咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第4章 駒
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04.知らない屋敷

 翌日、アレクサンドラはいつもより早く目が覚めた。早朝の屋敷はとても静かだ。使用人も半分程離れに移った都合もあるが、どこも人が少なくしんとしている。しばらくしても屋敷の中は朝の通り静かで、奇妙な感覚に背筋が伸びる。アレクサンドラは記憶がある限りずっと両親と一緒だった。こんなことは初めてだ。まるで知らない屋敷に来たようだった。

 少し前から2人だけだった執務室はいつも通り。思わずそっと机を撫で、ため息をつく。両親は今何をしているだろう。怒っているだろうか。それとも失望しているだろうか。


 食事を知らせるベルが鳴り、そこを後にした。

 夫と2人きりの食事の席はがらんと感じられた。これまでも視察の都合で2人の時はあったが、今日からは勝手が違う。どうしたものかと黙々とスープを口に運んでいると夫から声がかかる。

「今日の予定は?」

「え? ええ……朝の内に川を見に行って、戻りがてら道の様子も確認するわ」

「こちらの仕事も終わりかけだが代わろうか?」

 突然の申し出に驚きながら、アレクサンドラは遠慮がちに確認した。

「……いいの?」

「かまわないよ。帳簿はすぐ終わる。……今日は君が家にいた方がいいだろうから」

 夫の顔はいつも通りだが、色々と気遣ってくれているのがわかった。アレクサンドラは静かに礼を伝えた。


 夫が出かけている間、アレクサンドラはあれこれ頭を巡らせ、2人だけで仕事を進めるための予定を立てた。集中していると時間が過ぎるのは早い。馬車の音で我に返ると、すぐに夫が姿を見せた。

「おかえりなさい」

「ああ、報告は後で

「あの子には?」

「埃っぽいから着替えてからだ」

 そっけなく聞こえるが、娘を気遣う優しさがありがたい。書類を置いて部屋を出て行く夫の背中に声を掛けた。

「着替えて昼食にしましょう。午後、あなたに話すことがあるの」

「わかった」

ヨーゼフがちらりと見たアレクサンドラは少しだけ得意気な顔をしていた。



「――というわけで、この予定表を共有したいの」

 食後の執務室。アレクサンドラとヨーゼフは1枚の紙を挟んで向かい合っていた。その紙には数日分の予定が並ぶ。

「一応今わかっている範囲の予定は書いたの。こうして視察の予定を書いておけば分担もしやすくなるでしょう? 上手く調整すればあなたの負担が減って帳簿も遅れずに済むわ」

 夫は表とアレクサンドラをまじまじと見比べ、薄く笑った。

「いいとも。そうしよう。この表は年間通して保管を?」

「出来るけれど、必要?」

「大事だと思うよ。どこで何を見て、どう判断したか、日誌、帳簿と併せて役立つはずだ」

「ふうん」

 アレクサンドラはそこまで大袈裟なつもりはなかった。ただこれがあれば便利だと思っただけだ。これを作った一番の目的は告げなかったが、ヨーゼフが好感触な反応を返してくれたことが思いがけず嬉しい。

 ヨーゼフも告げなかったが、実はこうした表は商会には存在する。客先を訪問する係には予定表があり、それらの報告や購入履歴、要求をまとめた得意先ごとの台帳があり、毎年のことに対応できるようになっているのだ。ヨーゼフにとってはそれを知らないアレクサンドラがこれを考え出したことが面白かった。

 ヨーゼフはアレクサンドラのことは優秀だと思っている。広い意味で世間知らずではあるが、これまでの彼女の提案は領地のために納得のいくものだった。ただ問題があっただけ。

――この娘も普通なら自分のような年上と結婚せずに済んだのだろうに。

気の毒な気持ちで自らの妻を見る。彼女は何事か考えながら日誌とその予定表を見比べていた。

「もし、君が良ければだが。予算も2つに分けて、離れとこちらで帳簿の欄を付けても構わないがどうする?」

夫の提案に妻は驚いた。

「ええ、それはありがたいけれど、両親は社交には出ないし構わないかと思っていたわ。何よりあなたの負担ではなくて?」

「それはないから安心してくれ。食費から細かく分けることはしない。医療費や服飾品などの記録だけだ。はじめから予算を分けることでリーゼにかけられるお金も算出しやすくなるだろう。2、3日のうちに見本を作れるがどうする?」

その言葉にアレクサンドラの目が輝く。

「ありがとう。それならあなたの負担にならない範囲でお願いするわ」

決定権はアレクサンドラにあるが、実際帳簿を預かるのは夫だ。習ったとおりの予算配分は出来るが実践が少ない彼女のために夫は夫で色々と考えていた。



 不思議な感覚の1日が終わる頃、アレクサンドラはゆっくりと紅茶のカップを傾けた。初日の今日は無事に終わったが、近いうちに必ず両親が現れ、娘を含む自分達に干渉してくる。

 仕事に関しては予定表を見せればいい。これを作ったことでお互いの仕事を把握でき、あらゆる予定が立てやすくなる。それは本当だ。夫の提案した保管の真価はきっとこの予定表が何枚か重なる頃にわかるのだろう。予算に関しては非常にありがたく思う。

 これの一番の理由は両親への対策だ。きちんと務めを果たしていると、視覚的に伝えられる。意見があればありがたく検討するつもりだ。

 だが、娘に関しては譲ることが出来ない。あの表を利用して娘と両親だけの時間を作らせないつもりだった。娘のことをどう守れるか。アレクサンドラの頭にあるのはそれだけだった。



 その日、アレクサンドラは夢を見た。まだ幼い自分が身支度をする母親を興奮気味に見つめている。小さい頃お気に入りだった可愛いドレスを着ていた。これは王都での初めてのお出かけの日だ。

「お母さまはいつもきれいね」

「ありがとう、サーシャ」

 侍女に髪を結われながら母はふわりと笑った。目を輝かせた自分が質問を投げかける。

「私もお母さまみたいになれるかしら」

「ええ、勿論よ。お前は私によく似て、とても美しいもの」

 ぱあっと顔を明るくして、ドレッサーの前の母親に飛びついた。はしたない行為だが、母親はアレクサンドラの頭をそっと撫でた。

「本当? それにお父さまのような優しいひとと結婚できるかしら」

「ええ。サーシャがお行儀よく、美しいレディでいればね」

 はしゃいだ自分が離れて嬉しそうにくるくると踊り出す。子ども特有の短いドレスの裾がふんわりと広がる。満足げにそれを眺めて、もう一度母に聞いた。

「お父さまとお母さまはダンスパーティーで出会ったのよね? 私はいつ行けるのかしら」

「もう少し先よ。あの時のお父様、とっても素敵だったわ……サーシャにもきっと素敵な王子様が現れるわ」

「王子さま? 凄く素敵だわ」

 これから先、何年も自分が囚われ続ける呪いのようなパズルのモデルになる絵本を開いた瞬間だった。これ以降、アレクサンドラはこの絵本に父親と母親の語る言葉を描き足し、これから1年後にパズルの組み立てを始めてしまう。

「そうよ、ここがサーシャのお城よ。サーシャはここのお姫様。舞踏会で王子様に出会うの。美味しいものを食べて綺麗なドレスを着て、めいっぱい幸せになりましょう」

 支度を終えた母親が立ち上がり、アレクサンドラの手を取る。満面の笑みで頷いたアレクサンドラは未来への希望に溢れ、幸せそうだった。



 憂鬱な気持ちで朝を迎えた。身支度をする使用人たちにばれないよう、貴族の仮面でやり過ごしたが、本音を言えば泣きそうだった。

 自らを省みてしばらく経つ。あの時ぐるぐる回るばかりで捕まえられなかった記憶が苦しい。娘のためを思って新しい一歩を踏み出して尚、何も償えていない。決意は強まるが、情けない気持ちは強くなる一方だった。



 予定表を活用するようになってしばらく。仕事面はかなりスムーズに進んでいる。お互いの予定が一覧になっていることで諸々の連絡や手配の流れが良くなった。領地は順調だ。

 家の中は母屋だけ見れば上手く進んでいる。上手に説明をしたことで乳母や娘に近い使用人たちはこちらの味方。先触れなく勝手には両親が母屋に入ることはない。だが決して粗末には扱えない。離れの母親が先触れを寄越しては頻繁に訪れ客間でお茶を楽しんで行った。次第に滞在時間が長くなったため、アレクサンドラは自分が娘を連れて離れに遊びに行くことにした。これもスケジュール表に記載する。遅れればヨーゼフが迎えを寄越した。


 両親を離れに移してすぐの頃は不安定だったアレクサンドラも徐々に落ち着き始めている。あれ以来何かを話すこともなく、こちらからも特に言葉を掛けることはないが、ヨーゼフは妻の様子をよく見ていた。

 彼女の育てられ方は察していたし、話を聞いて気持ちも理解できた。だがまだ何かある。刺繍の謎も解けていない。加えて娘の顔を見て思う。妻がこの娘に対して必死な理由はきっと他にもあるのだ。それも話したくないことが。

 数年前のことを思い出せばなんとなく想像はつく。だがそれは確信ではない。アレクサンドラの傷を抉る恐れがある以上、気付いていることを悟られるのも、正直に話すのもはばかられ、ただそっと様子を見守り続けた。

 思えば2人はお互いのことをほとんど知らない。知ることがなかった。そして知る必要も。結婚して和解して子どももいるが、個人のことは釣り書き程度のことしか知らない。2人で食事をするようになって初めて、夫婦は互いにそれとなく話を振ることを試みた。それも次第に仕事の話に寄ってしまう。


 2人の時間が増えて、アレクサンドラはこの事実に僅かに悩んでいた。

 夫の方は妻の事情や好みをある程度把握している様子だが、妻は目の前のヨーゼフという男が、何が好きで何が嫌いで、趣味は何で、そんなことも一切知らない。直してくれたドレスも「似合うように」と思ってのことで彼の好みではない。育ちのことだってあの時に聞いたそれだけだ。実家や商会でどう暮らしてどう生きて、何を思っていたのか、知らない。親に決められた夫をそっと窺うも、いつも相手は冷静な顔をしている。

 ヨーゼフは両親を追い出してからの生活について何の意見も示さない。それがまた、どことなく心細い様な気にさせる。ヨーゼフには自分がどう見え、どう思われているのか、今更ながら気になるのだ。プライドが邪魔して聞けずにいるのも情けなく胸が痛んだ。




 ある日の午後、ヨーゼフとリーゼは屋敷の中でおいかけっこをして遊んでいた。ちょこちょこと急ぎ足で歩くリーゼの後ろをヨーゼフがゆっくり歩く。リーゼは後ろを振り向いてはきゃあと笑い声を上げて、また前へ進む。この遊びはアレクサンドラとはしない。転んでも疲れても、ヨーゼフが必ず抱き上げてくれる、その力強さの安心感からリーゼはこの遊びの相手にヨーゼフを選んでいた。

 仕事の合間に廊下に出たアレクサンドラは階段の下のこれを見て驚いた。リーゼがあんなに嬉しそうに走るのを見るのは初めてだ。見ればいつも澄ましているように見える夫もどこか楽しそうだった。暫く見守っていると、疲れたリーゼが床に座り込み、ヨーゼフがそれを抱き上げる。そのまま、ぼそぼそと聞こえない声でリーゼに話しかけると居間に入って行った。

 まだ仕事は残っているが、2人の様子に少し興味を引かれたアレクサンドラはそっと階段を降りる。唇に人差し指を立て、使用人たちに口止めをしながら居間の側に寄った。

 ソファに座った夫の側に、絵本を持ったリーゼが歩み寄る。さすがにまだ字は読めないが、絵本を読んでもらうのが大好きだ。

 ヨーゼフは絵本の読み聞かせはしない。だがリーゼはその本を彼の膝の上に置いた。ニコニコ笑う娘を前に、困ったような顔を浮かべるヨーゼフだったが、彼女を抱き上げて自分の隣に座らせた。

「リーゼ、優しいお母様と違ってね、あまり得意じゃないんだ。それでもいいかい」

 表情は見えないが、娘はきっと父親を見上げて笑っているのだろう。

 報告書を読むときと同じ堅い声で読み上げられる夢いっぱいの絵本に、思わず笑いそうになる。同時に胸に広がる嬉しい気持ちに涙がこぼれそうになった。

 ここに居ることがばれないうちにとアレクサンドラはその場を離れる。階段をのぼる頃には夫の声はすっかり聞こえなかった。


 今この家の時間は穏やかに変わりつつある。本当の意味で自分たちが中心になり始めたのだ。あの時の薄情な判断は間違えていなかったはずだ。ぎゅっと目を閉じると今でも誰かの姿が見えそうになる。息を止めると誰かの声が聞こえそうになる。それでも、間違えていなかったはずだ。アレクサンドラは自分の執務室の扉を開けた。



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