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咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第4章 駒
19/30

03.手

 その晩、珍しくヨーゼフがアレクサンドラの部屋を訪れた。夕方からずっとアレクサンドラが浮かない顔であることには気が付いていた。視察の報告の時もどこか意識が外にあった。

 ノックに対しては努めて明るい声で返事をしながらも暗い顔の妻に声を掛けた。

「アレクサンドラ? どうした。戻ってからずっと妙だ」

 見抜かれている気はしていたが、それでもアレクサンドラの胸にもやもやしたものが広がる。話すべきかどうかを一瞬迷い、それを飲み込んだ。

「そう? ……なんでもないわ」

出来る限りの笑顔で応えたつもりだったが、夫は隣に座った。関係は改善されたとはいえ、夫からこの距離に座ることは稀だ。

「……そうは見えない」

「そんなこと……。ただちょっと、疲れているだけだから大丈夫」

 僅かな沈黙の後、夫はふっと小さく息を吐いた。

「……話したくないなら構わないが、1人で抱え込まず、大事になる前に話してくれ。疲れているところを邪魔してすまなかった」

 夫はそれだけ言うとソファから立ち上がり、自室に戻ろうとする。


 一度沈んで浮いたソファと同時にアレクサンドラが揺れる。人の動きで起こった風が首元を涼しくさせた。

 自分のことで大分迷惑をかけた夫に、これ以上家の恥をさらし、迷惑をかけるのは気が進まない。しかし夫の言う“大事に”が既に始まっているかもしれない。始まっていない証拠はなく、もし始まっていたらそれを直す必要性が生じる。それを出来る保証は自分の中のどこにもない。

 アレクサンドラは意を決して声を掛けた。

「あの…………実は……その……両親のことなのだけれど」

ドアの前にいた夫はアレクサンドラに向き直り、話を聞いてくれる姿勢を示す。

「私がそうされたかはわからないわ。ただ、両親がリーゼを可愛がることが、おかしく見えて……怖いの」

「……怖い?」

「そう。私がおかしいのかもしれないけれど、あまり両親にリーゼに関わってほしくないの」

 ヨーゼフがもう一度隣に座る。ほんの少しだけ温かい気配にアレクサンドラは情けなさを募らせた。

「私が幼い頃から受けてきた躾が正しいと思えなくて……何もかもを肯定されて、許される。それだけで育った。責任を問われる事もなく、叱られたのも……そうね、つい最近なの」

それすら、自分のためでなかった。

「私はそれを疑わなかった。一瞬も。常に自分が正しくて自分が中心なの。この家の主役は私、妹はいつかいなくなる、皆は私のための登場人物。いつの間にか友達ですら……本当に何も疑うこともなくそう信じていたの。いい歳をして、おかしいでしょう。それを両親だけのせいにする気はないけれど、あの様子を見ていると不安になるの」

 まるで、目の前でもう1人の自分を育てられているような言いようのない暗い気持ち。ばらばらにしたあの恐ろしいパズルが、いつでもリーゼの胸に抱かせられるように、もう一度両親の手の中にあるような気がした。


 夫はそっと妻の背に手を添えた。

「……君がそう望むなら、ご両親に別に住んでもらうことが出来るが、どうする? 勿論、遠くじゃない。庭の離れだ。いつでも会いに来てもらえるが生活は別だ」

 思いがけない言葉に驚いてヨーゼフを見ると緩く笑われる。

「嫌な言い方だが、気を悪くしないでほしい。君の様子から気が付いていたことはたくさんある。いくら今同じ名を名乗っていても、僕からは介入できないことで黙っていた」

目を丸くするアレクサンドラを前にヨーゼフは言葉を続ける。

「これまでの僕が子どもに身近ではなくて、男だからかも知れないが、君たち親子は少し不思議だ。誰も彼も、乳母がいるのに子どもをやたらと気にする。まだ幼いあの子のことを気にかけるのは当然だが、なんだか必死な気がしてね」

夫の言葉はアレクサンドラを刺していく。それでもずっとアレクサンドラに協力的だった夫の優しさもわかっているから尚更だ。

「君は母親だから、きっと男の僕には理解できないことがあるんだろうと、それを悪いことだとは思ってはいなかった」

夫の手が離れた背中が涼しい。

「ただ、今君の意見を聞いて考えを改めたよ。君はあの子に対して過保護になっている。その理由がもしご両親にあるのなら、ご両親を娘から遠ざけた方が良い。そうではなくて、もし君が妹さんへの罪悪感であの子を気にかけているのなら、君自身が少し立ち止まるべきだ」

 先程、アレクサンドラは僅かに迷ってソフィアの詳細を伝えるのは止めた。夫が誰かに話す人には思えないが、話すことが妹の恥につながる恐れもあり、今この話には関係ないと思ったからだ。だが夫はある程度、こちらの認識以上に知っているのだろうか。

 どこまでも見抜いたような言い方にアレクサンドラは大人しく頷いた。

「両方だと思うわ……」

 自分でもわからない。ただ確かなのはこのままではいけないという事だけ。自分か両親か、何かを変えていかなければならない。

「それなら尚更、僕はご両親を君から遠ざける提案をしないとならない。さっきも言ったが、僕が口を挟むことじゃないことでも、君が望むなら話は別だ」

 夫が全て正しいとは思わないが、この家であの親と一緒にいる限り、娘を守ろうと必死になる自分がいるのは目に見えている。ぼんやりとした妹への気持ちも消えずにずっと悩み続けることになる。ただでさえ娘は妹に似ている。だからどうすればいいのか、それをずっと悩んでいたのだ。両親の言動に気を配り、焦燥感に追われる日に娘の幸せはない気がした。

「私はひどい娘かしら」

ヨーゼフは一瞬眉を寄せるが、アレクサンドラの手を取り穏やかに笑う。

「知っていて、放っておく方が悪いさ」

 これまでずっとアレクサンドラに真摯な対応だったヨーゼフの言葉はこれまでの自分に対しても、ずしりとした重さを伴う。それでも婿に来た身で義理の両親を遠ざける提案など、相当勇気がいることを彼がするのは他でもない妻のためだ。いつでも冷静に考えている人だからこそ。

「僕がいるから君とは状況が異なるが、君が不安だとあの子も可哀相だ。約束しよう。僕はあの子にとっての親だ。彼女を守るために最善を尽くす。君の両親と揉めようと。同時に君の夫だ。君の意見が間違えていれば正す。君の意見が正しければ最後まで君の味方だ」

「……私は正しいの?」

 思わず縋りたくなって質問してしまった。「そうだ」と答えれば安心するとわかっても、ヨーゼフはそうは答えない。

「さぁ。ただ今の君が誰よりもリーゼのことを考えているのはわかる。僕はそれに賛成するし応援する」泣きそうな顔で頷く妻の手を両の手で包む。

 それにね、と夫が言葉を続けた。

「僕はあの人達が君を愛していなかったとは思わないよ。その愛が歪んでいたとは思うがね」

あなたは知らないから、と思う裏側から妙な安心感が広がる。この人はいつも冷静なのだから、この人の言うそれもきっとまた事実なのだろうと思える。必要以上に両親を嫌いになりそうな心を止めてくれる。

 自分が正しいとただの慰めで口にされるよりも、その方がはるかに嬉しかった。アレクサンドラの気持ちが緩む。ヨーゼフは本当に誠実で優しい人だ。


 ふとアレクサンドラは目の前の男がどう育ってきたのか、ほとんど知らないと気付く。家の事情や、家庭に執着がないのは以前聞いたが、さわり程度だ。詳しいことは何も知らない。夫は父親として娘のことをどう考えているのだろう。

「ヨーゼフ、あなたはリーゼをどう育てるべきだと考えているの?」

 そっと訊ねたことに、夫は少し考えてから口を開いた。普段あまり見せない、遠くを見るような顔は寂しそうにも見えた。

「僕の希望は、彼女がいつでも安心できる環境を自ら整えられる人になってほしいということだけだ。それは財産だったり教養だったり、人間関係だったりそれぞれあると思う。どれを、というのはない。勿論、全て揃えられるのなら何よりだけどね」

 社会で労働しながら生きて来たヨーゼフの願いは、娘が必要以上に何かに怯えて困る事のない生活だ。どうする()()かということは考えていなかった。

「親は優しすぎても厳しすぎてもいけない。彼女を自分と重ねる気はないが、僕は遠くから見守って、必要な時には叱ってくれる親が理想だからそれを目指しているつもりだ。そもそも、親として出来ることは彼女を導くことだ。長い人生の中で親が面倒を見るのはわずかな間だ。転んでも1人で立ち上がれるように育てたいと考えている。義務的な考えですまないが……」

 アレクサンドラは首を横にふる。些か概論的で遠く思える意見だが、この国ではその方が自然だ。一般的な貴族は子どもを乳母や教師に託す。少しでも早く強い大人になることを子どもに期待して教育する。少しずれてはいるが自分もこの貴族社会を生き残るために強い当主たれと生きてきたのだ。言いたいことはわかる。

 それに多分、彼女はこの家の跡取りとして育つことになる。ある程度は強くないと社交界で生きていけず、そのために必要な厳しさもある。いつかあの子が厳しい状況に立つ可能性もある。

「ただね、アレクサンドラ、両親が揃ってそうだと寂しいかも知れないだろう。だから、君があの子を心配して大事にしていることを、僕は良いことだと思っている」

 俯きがちなアレクサンドラの瞳が揺れる。夫はアレクサンドラの育児を否定はしないでくれるのだ。誰よりも娘のために自分が厳しい立場に立つ覚悟を持っている。

「君はリーゼを抱き上げる時、本を読む時、接している時、常に気にかけ背中に必死な空気を背負いながらも幸せそうだ。きっと娘も君の存在に安心を覚えているだろう」

 そっと手を離した夫が立ち上がる。

「落ち着かないだろうが焦らなくていい。期限のある話ではないから、ゆっくり考えるといいよ」

「ありがとう」

「おやすみ、アレクサンドラ」

そっとドアが閉まった。いつも1人のこの部屋がやけに冷えた気がしてアレクサンドラは自分の手をこすり合わせた。


 翌朝、アレクサンドラは夫の部屋を訪れ、両親を離れに移すと伝えた。

「多分、私が正しいわ。いつかお父様が言っていたの。多少の犠牲を払ってもどうするのがいい結果につながるかを考え、決めるべきだと」

今はまだ少し後ろめたい。けれど真っ直ぐ前を向いていた。

「……助けてくれる?」

 返事の代わりにヨーゼフはアレクサンドラの額にそっと唇を寄せた。


 その晩、アレクサンドラとヨーゼフは夕食の席で話を切り出した。孫娘の躾の件はかする程度にまとめ、その理由の大半を領主の運営においた。端々を補足するヨーゼフの角が立たないような話し方はさすがだった。

「不安とは思いますが、僕らだけで大丈夫かどうか、少し離れたところから見守っていてほしいのです」

 これに両親は難色を示した。特にマルコは自ら立場を譲りはしたが、まだまだ働ける。自分に完全に隠居しろと言う若夫婦にほんの少し怒りを覚えたほどだ。自分から言うのと相手から言われるのでは気持ちが違う。食卓にカチャリと小さな金属音が響く。

「いくら近いとは言っても、別居となると今までの様な距離ではなくなる。報告も受けずに何かの際に力を貸せと頼まれるのは難しい。何も離れに行かなくてもいいのではないか?」

「そうよ、リーゼのこともあるでしょう? あなたたちの負担が増えるのは心配なの」

 母親は可愛い孫娘が心配だ。想像していたが2人ともここに残りたがる。

 口を開きかけた夫の手にそっと自分のそれを重ねてアレクサンドラが口を開いた。

「お願いよ。私が決めたことなの。確かに執務室にはいらっしゃらないけれど、領地のことも娘のことも、私たちはどこか2人ともに頼ってしまっているわ。このままではリーゼが大きくなるまで私たちは甘えっぱなしになってしまいそうなの。離れはお庭の向こうで、すぐそこだもの。お父様、お母様、見守っていてちょうだい」

 アレクサンドラの言葉にも良い反応はないが、そこはヨーゼフの力の見せ所だ。定期的な報告を約束し、迷惑はかけないことを誓った。これがアレクサンドラの願いであり、自分が決めた優秀な婿による誠実で堅実な提案もある。父親の手元は震えてはいたが声を荒げることはなかった。次第に反論できなくなり、説得の末、老夫婦は離れに行くことが決まった。


 離れの扉が閉まる瞬間をアレクサンドラは隣に立つ夫と共に見届けた。ぎゅっと握りしめた夫の手は優しく握り返してくれた。





※ルビ・傍点が表示されない方へ 

以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます

どうするべきかということは→「べき」に傍点

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