02.親の愛
1歳になるリーゼは歩き始めた。物につかまりながら立ち上がり、僅かな距離を頼りなく歩く姿は心配を誘うと同時にとても愛らしい。少しずつ歩くその距離を家中が見守っている。日頃そんなに柔らかい表情を浮かべないヨーゼフも、優しい目を向けた。
柔らかい絨毯を敷いた居間を今日も歩き始めるリーゼ。乳母と侍女が転倒に備えてすぐ側についている、その様子にソファのアレクサンドラはなんとなく思い出す。自分が歩き始めた頃、両親は側で喜んでくれていた。笑顔で何事か褒めてくれていた。何歳かわからないが自分の初めての記憶はそれだ。優しい誰かが安心できる腕の中に迎えてくれる幸せな記憶。
読んでいた手紙をテーブルに置いてアレクサンドラは立ち上がり、娘の向かう先で手を広げて我が子を迎えた。抱き上げた娘は大分大きくなっている。無邪気に笑うその顔は、誰に似ていてもアレクサンドラにとっては大切な娘だ。
同じ頃、リーゼは言葉を話し始めた。まだ何を話しているのかわからないが、乳母はしきりに返答し、聞いている風を装っている。必ず返事をしてくれる乳母に励まされるように、一切通じなくてもリーゼはおしゃべりを続ける。
その様子に、アレクサンドラ自身も幼い頃に両親に色々な事を伝えたくて自分なりに話をしていたことを思い出す。自分のそれはもう少し大きくなってからの記憶だが、言葉をどうして覚えたのかの記憶をたどる。
そういえば幼い頃、母は本を読んでくれていた。綺麗な言葉できらきらした夢を詰め込んだ子ども向けの童話。主人公が幸せになる素敵なお話。はっきり覚えている幼い自分が「読んで」とねだるその本はもうボロボロだ。随分前から自分のために読んでもらっていたのだろう。寝る前にもいつも幸せなお話を聞きながら眠っていた気がする。
アレクサンドラは絵本を買い、子守唄を歌う乳母と交代で娘に読み聞かせた。言葉の意味は理解していない様子でも、娘はニコニコ笑い、次第に眠りに落ちて行った。大事なのは理解しているかではない。本をねだる自分と、笑ってくれる母。その温かさだ。もし何も覚えていなくても構わない。それはそれだ。曖昧でも娘の記憶に良い印象で残ればと思ってのことだ。
そのうちすぐに、リーゼはたどたどしく単語を繋いで何かを伝えようとするようになった。乳母や使用人に倣い、アレクサンドラも彼女とたくさんの話をする。しばらくは眺めているだけだったヨーゼフもたまに返事を返すようになった。あまり扱いに慣れていない彼が、少しでも彼女に接する時間を設ける努力をし、彼女の話を聞いて理解しようとしている。生まれた頃は一般的な他の貴族と同じだったヨーゼフの変化、その父らしい一面も家の雰囲気を良くしていた。
家の中が柔らかくなっても、アレクサンドラの意識を掠めるそれは変わらない。たまに感じる心細さに追われるように、娘を抱きしめた。
その日、夫婦は揃って視察に出た。この頃では娘のために時間をずらして別々の視察に出るのが常であったが、今日だけは共に出かける必要があった。一瞬ためらったアレクサンドラだが、乳母と共に両親が娘の面倒を見てくれると言うので甘えることにした。
2人で視察に出るのは久々だ。和解してから妊娠が分かるまでの間は一緒に回ることがあった。夫は妻の判断力と記憶力に、妻は夫の頭の回転の早さと人との距離の取り方の上手さに、それぞれ感心したものだった。
今日は堤防工事の案件で今日中に決めたいという話だ。去年、上流の領地が川の拡張工事を行った都合で、雨季にこちらに流れる水の量が変わる恐れがある。もうしばらくの間、上流との情報のやりとりを元に規模や工賃などで話を詰めるばかりだった。雨季までに工事を終わらせたい領民は少し焦り始めていた。つい先日やっと上流から詳細な資料が届き、今日を迎えることができた。資料に加え、決定権を持つ者と財務を預かる者が揃うとさすがに話が早い。あっと言う間に工事の規模も日程も決まった。
馬車は軽やかに屋敷に戻った。
「ただいま戻りました」
外套を使用人に預け、着替えもそこそこに娘の姿を探す。夫は書類を全て持って執務室へ向かってくれた。
乳母は湯浴みの支度中で今は両親が見てくれているらしい。居間においでですよ、と聞こえた言葉に礼を投げて居間へ急ぐ。
居間では両親が孫娘リーゼを大層可愛がってくれていた。
細く開いたドアの隙間からその温かいはずの光景を見て、アレクサンドラの背中に一粒冷たいものが走った。
「ねえ、あなた。リーゼはあなたにそっくりね」
「瞳の色だけだろう。この辺りはお前に似ている」
ソファでリーゼをあやす老夫婦は幸せそうな笑顔を浮かべていた。
この頃のリーゼはますますソフィアに似てきた。瞳の色以外にも、鼻と口元もよく似ているのだ。赤ん坊でもあり、表情が豊かな分、記憶の中の無表情なソフィアとは直結しないが、眠っている時等、ふとした瞬間の表情は全く同じに見える。父親にも似てはいるが、骨格が異なるためかそっくりとは思えない。誰かに似ていると思おうとすればするほど、妹が濃くなる。
両親はまるでソフィアに似ている事に気付かない振りをするように、マルコに似ていると繰り返す。これまでもそうだった。ソフィアに遠い使用人しかいないこの屋敷中が「旦那様にそっくりですね」と言うたび、2人は実の娘など忘れたような態度を取り続けた。いくら捨て駒だったとはいえ、ここまで来てもあんまりな現実にアレクサンドラは空しさを覚え始めていたから尚更、目の前の光景がうすら寒く見える。
「リーゼはいつかこの家を継ぐのかしら……賢い子だと良いのだけれど」
「なに、大丈夫だろう。それに万が一の場合は優秀で良い婿を見つけてやれば良い。この頃は財政も上手くいっている。習い事もさせれば、立派な淑女になれるさ」
カルラに抱きかかえられたリーゼがきゃっきゃと笑い声を上げると、マルコは満足そうに返事をする。
「そうか、リーゼも賛成か。お前は立派な当主になるな」
目の前の光景はそのままに、目の奥が暗転した。まるで嘘の世界を見ているような、奇妙な感覚に後頭部がしびれて冷えていく。両親がリーゼに言い聞かせる夢のような甘い言葉の意味を理解したくない。アレクサンドラの耳に残酷に響く言葉が力を奪っていく。
「念のためにもう1人子どもがいればとも思うが、こればかりはヨーゼフの年齢もあるし、どうなるか……」
「そればかりはわからないものね……男の子が生まれたらこの子はお嫁に?」
「いや、次はどちらか優秀な方を残そう。もう間違えられん」
力が抜けて崩れそうになる足を必死に踏ん張った。
「教育はアレクサンドラの家庭教師に頼めるだろう。ピアノの講師もいる。ドレスもヨーゼフのおかげで安く仕立てられるようになった。どこのお茶会から出せばいいか、よく考えよう。今度は上手くいく」
両親が何を考え、自分が今何を見ているのか、もうわかっている。
「今度こそ、と言うべきか……。どれ、アレクサンドラたちが忙しい間は乳母ではなく私たちが面倒をみてやろうか」
にこにこと笑う父親の顔は優しい。だがアレクサンドラには恐ろしく見えた。
「そうね、あの子たちも助かるでしょうし……またソファで絵本を読んだり、色々なことを教えて……楽しみね、リーゼ?」
母の笑顔にも悪意などみじんもない。だがどうにも不気味で、飛び出して行って無邪気に笑い声を上げている娘の耳をふさぎたくなる。
「しかし顔は私に似て気の毒だから、化粧の腕のいい者を雇う必要があるな」
「まぁ。あなた、大丈夫よ。きっと可愛く育つわ」
「まあ、あまり美人でも上手くいかなければ仕方がないものだ。なんとかしよう」
「ええ。大丈夫よ、リーゼ。安心してちょうだいな」
息をひそめて固まっていたアレクサンドラの胸に何とも言えない思いが広がる。ほんの少し苦いそれは気分を悪くさせるのには十分だ。いつも過っていたあの感覚の正体と全てがそこにある。
あの時からわかっていた。
父は「娘」など見ていないのだ。見ていたのは、母によく似た美しい次期当主になる駒としての生き物。母も、自分に似た人形を見ていた。「アレクサンドラ」という人間ではない。
いつかの怒りも全てそれだけのこと。「アレクサンドラ」への心配など全くなかった。あったのは「家」のこと。貴族なのだから家のことを優先するのは当然だ。「自分だけ」を優先したアレクサンドラ自身が言えたことではない。だが納得できなかった。当主としてマルコのそれは正しいが、親として、教育者として正しくないこの人たちに幻滅すると同時に嫌悪感が募る。
――妹はただの「捨て駒」、私はただの「駒」。間違いは私自身。今度は今そこにいる――
リーゼが少し暴れて、たまたま隅にあったクッションに足があたり、それがソファから転がり落ちた。
「元気で何よりだ」
朗らかに笑う父親の声が忌々しく聞こえる。自分だって娘が健康でいてくれることは何より嬉しい。1歳そこらの幼子にお行儀が悪いと叱るのも違うとわかっている。だが、この親だからこそ忌々しいのだ。
心の中の幼い自分が泣きながら訴える言葉に応えは出ている。自分が道を間違えた時、注意するのも親の役目だ。それをしなかった両親への不満が、この苦い気持ちの原因。結果的に妹を虐げる生活を肯定してしまったことへの罪悪感と、理解しなかった自分への嫌悪感と、全ての元凶でもあるこの両親への失望。
娘の落としたクッションを拾いもしない2人の様子も不愉快だ。これ以上ここに居て、良いことなどない。
「お父様、お母様、ただいま戻りました。リーゼは良い子にしていましたか?」
アレクサンドラはにこやかに居間に踏み出す。震える足はドレスで見えないはずだ。笑顔の両親の言葉が耳から耳へ通り抜けていく。孫娘の素晴らしさを語るこの人達の本意はわかっている。
「そうですか。ありがとうございました。視察の件は後程ヨーゼフと共にご報告に参りますね」
外向けの笑顔を貼り付けて立派な娘を演じる。
――情けない空しさばかりだわ。この人たちにとっては全てが駒。妹も、私も、そして孫娘ですら。
リーゼを抱きかかえてすぐ、アレクサンドラは居間を後にした。娘の落としたクッションは拾わずそのままにした。立場上、自分が拾って戻す方がいいことはわかっている。仕返しをすることは良いことではないし、決して気分は晴れないけれど、どうしてもできなかった。わかっていても、心の中の小さいアレクサンドラのプライドはそれを許さない。暗に自分は失敗作だと言われたのだ。聞いてしまった会話を忘れて、笑顔をたたえる最低限以上の『良い子』でいることはできなかった。
掠めていった不安の正体はわかった。この人達が常々娘にかけていた言葉が怖かったのだ。妹の存在を忘れたような空々しさもだが、何よりも繰り返される言葉。自分の時もそうだったかわからない。けれど気が付いた時にはもう自分がお姫様だった。思い出せる記憶は全てあの言葉を握り締めた自分だ。
両親はいつもアレクサンドラを甘やかして褒めて肯定した。必要な物を与えてくれ、少しの贅沢にも応え、過ちを見過ごした。そこに浸かっていた時はそれでいいと思っていた。引きずり出された時は何故こんなことになるのかと、現実の方が憎かった。それが今は恐ろしい。
思えば娘はたくさん聞いていた単語を真似するように話し始めたし、良く話す相手の口調を真似している。歩き始めるまでは乳母が多かったが、歩き始めてからは両親も多く側にいた。そして声を掛けていた。このままではいつか自分のようになるのでは、という恐ろしい予想が胸につかえて息を詰まらせる。
自分がどう扱われようと今更だ。散々間違った自分の責もある。だが、自分の娘を好きにさせる気はない。
この子を自分にさせないために、正しく育ててやることは出来る。妹に出来なかったように大事にすることも出来る。妹の代わりではなく、母子として思い遣ること、それしかなくてもそれは出来る。この子を自分にも妹にもさせないために。いつかこの家を継ぐのが彼女だとしても、この子はただの道具ではない。誰の駒でもないのだ。
嬉しそうに笑うリーゼを抱いたまま、アレクサンドラは振り返らずに廊下を進む。
※ルビ・傍点が表示されない方へ
以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます
間違いは私自身→「間違い」に傍点
そして孫娘ですら→「孫娘」に リーゼ