表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第4章 駒
17/30

01.記憶

本話から前作にない新部分です。

 アレクサンドラが夫ヨーゼフに謝罪した1年後、ベルネット家に子どもが生まれた。元気な産声を上げた女の子に、屋敷中が喜びに沸いた。夫は妻の体調を心配し労った。両親は喜びの中であれこれと世話を焼き、報告の手紙を送ってくれた。

 達成感と疲労感の中で、アレクサンドラは隣に寝かされた娘の顔を見る。1年前から自分は随分と変わった。夫と協力して仕事をするようになり、少しずつ距離も縮まった。父親との関係も良くなり、家の中は前よりずっといい。

――これからはこの子のためにも、もっといい方向に進まないとならない。

目の前の彼女はベルネット家にとっては待望の跡継ぎでもある。どうか健やかに育ってくれと心から願った。


 数時間後、娘の目が開いた。胸の中でむずかりながら、ゆっくり開かれたその瞳の色にアレクサンドラは息を止めた。まだ生まれたてで、どこが誰に似ているなどと明確にはわからない。そう思っていた。だが瞳の色を見た途端、気が付いた。


 娘は、母アレクサンドラにも父ヨーゼフにも似ていない。似ていたのは妹――ソフィアだった。


 使用人たちは誰もが当主のマルコに似ていると言うが、アレクサンドラはその言葉を笑顔で受け止めながら、違うことを考えていた。自分の父に似ている女児というのはすなわち、ソフィアに似ている。もうあれからずっと誰もが話題にしない妹。大きくなってからの自分があまり領地に帰りたがらなかったこともあり、ソフィアが領地にきた回数は少なく、部屋に籠もってばかりいた。だからここの使用人たちの記憶に薄くても仕方がないことだが、そのこともまた暗い影を落としていく。

 無垢な赤ん坊はアレクサンドラに手を伸ばす。


 応えるように伸ばしたアレクサンドラの指を握りしめる小さな手は、温かく弱々しい。

「抱かせてちょうだい」

乳母から受け取った柔らかい身体は小さいがそれでも重い。まだ名前もない彼女を母親はそっと抱きしめる。


「若奥様?」

涙が流れていると教えてくれたのは乳母だった。感動して泣いたのかと誰もが温かく笑う中、アレクサンドラの心を占めていたのは、見ないふりをしてきた「捨て駒」のことだった。




 妹がいたのはもう大分前の様な気がする。たった数年前まで彼女は一緒だった。十数年の日々で一番はっきりと覚えているのはあの婚約騒動だ。それ以外の事はあまり覚えていない。生活のほとんどに彼女は「妹」として存在していなかったから。

 あの婚約騒動の時、元々自分の話だというのに妹は何も言わずそこにいただけだった。条件の事も知ってか知らずかわからない。ただ最後の質問に「従う」と答えただけ。それすら本人の意志だったかどうか。

 その次に覚えているのは祖母が亡くなった時。初めてにして唯一、妹の悲しそうな顔を見た。その時以外、彼女の表情らしい表情を見ていない。そもそも日頃から表情が乏しかった。贈り物に笑顔を浮かべていた時もあったかも知れないが覚えていない。何を取り上げても黙って従った妹の表情はいつも真面目だった。いつだって大人しく言うことを聞いていた。だから本当にただ一度、祖母と別れる時に見せた寂しそうな表情が記憶に強い。

 使用人に混ざって働くようになってからは、本当に表情など見ることもなかった。いつもそのあたりで洗濯か掃除か、細々した何かをしていた。着飾ることも、出かけることも何もなく。ただ、そこで働いていた。


 そうさせていたのは両親。気にも留めずにいたのは自分。


 逃げるようにぐるぐると頭の中を回る微かな記憶を引き留め、思い返す程に酷い自分しか見えなかった。妹を蔑ろにし、妹のことを考えずに好き勝手振る舞う自分。自分に都合のいい嘘をつき、自分のことしか考えていない自分。

 思い出の中の自分は、どこも完璧ではなかった。


 たった1人の妹。

 今やこの家のどこにも気配はない。誰も名を口にせず、持ち物も、なにもない。王都の屋敷の部屋も改装して全く別の部屋になっている。

――消してしまった。

手が震える。

――私はとてつもない過ちの上に生きている。


 アレクサンドラは娘を抱きしめた。この子をどうして幸せに出来るだろう、答えのない疑問が胸に重く沈んだ。




 それからしばらく。アレクサンドラは仕事に復帰した。母子共に健康、娘の世話は乳母がしてくれる。


 この時代のこの国では、貴族は自分の子どもの世話のほとんどを乳母に任せる。たまに顔を見てあやす程度だ。社交や勉強が始まる頃まで、始まってからもあまり顔を合わせない家もある。病の影響もあり、子ども時代は短く、成人を16とし、すぐに大人として扱うこともそれの要因だ。子どもの命は大事だが、甘やかし可愛がる習慣がある家は少ない。そういう意味ではアレクサンドラは珍しい存在でもある。


 アレクサンドラは主である都合もあり、世間に倣って乳母を頼った。

 体調が戻っていた当主のマルコだが、加齢による衰えを感じたことを理由に、アレクサンドラが復帰すると領主の権限のほぼ全てを若夫婦の2人に譲った。今は少し口を出す程度で、1日の大半を妻カルラと共に孫娘を可愛がる時間にあてている。

 アレクサンドラ自身も乳母に任せながらも娘を気遣った。仕事の合間に娘を抱っこし、様子を見る時間を設けている。優秀な夫のおかげもあり、生活に不自由はない。

 ヨーゼフは娘とは距離があるが、アレクサンドラの負担が減るように仕事を引き受けてくれる。これまでの働き方もあり彼は確かに仕事をこなす。帳簿を見られるようになってから、アレクサンドラ自身の感覚も整ってきている。夫の助言を受けて領地管理の他にも生活を見直し、この頃は贅沢をしない生活に慣れ、しっかりと貯蓄も出来ている。まだ有事に満足のいく額には遠いが、この動きが貴重だ。



 久々の休日。アレクサンドラは娘のためにタオルにリボンで刺繍を施す。薔薇を刺繍した脇に名前を縫おうとして、リボンが捻じれてしまった。

 大概の事はそつなくこなせるアレクサンドラだが、実は刺繍はあまり得意ではない。小さい頃から、目を凝らしてする細々した作業だけは不得手だ。王都では素敵な物が手に入るし母もいるからとそのままにしていた。しかし子どもが出来て意識を改めた。妊娠中に練習を試みたが、集中しようとすればするほど、何かに追い立てられる気になって手が進まなくなった。刺し違えて指を痛めたこともある。指が治るまでと休むうちに離れてしまった。生まれてから、もう一度思い直して、針を手にしている。

 娘が生まれてから思い出したことだが、妹は刺繍が得意だと王都の使用人たちが褒めていたのを耳にしたことがある。そういえば、しょっちゅう屋敷のカーテンの前に座っていた気がする。見えていたのはちまちま動く腕と背中だけ。貧乏くさいと笑った記憶が、自分の中に固まっていた。

 リボンの捻じれを直しながら思い出す。王都のカーテンに散らされた小花の刺繍、今やあれだけが彼女が家にいた証拠だ。模様替えしていない廊下にまだ残っているだろうか。

 娘は名前をリーゼ、と名付けた。捻じれたリボンは頭文字のL。それが一瞬細いSにも見える。細いため息をついて、アレクサンドラはリボンを引っ張った。



「若旦那様、視察にお出かけならお嬢……若奥様がこちらを、とのことです」

ヨーゼフを呼び止めた使用人は、その手に小さな布を1枚持っている。不思議そうな顔でそれを受け取ったヨーゼフは思わず目を見開いた。

 手元にあるのはヨーゼフの名前の刺繍の入ったハンカチだ。上手とは言えないが、きっちりと刺されたそれは作った人の性格をよく表していた。

 使用人はにこにこと笑う。

「若旦那様は商会で目が肥えていらっしゃるから、ご自分でお渡しになるのは恥ずかしいと仰ってましたけれど、お上手ですよね」

 王都のそれとは違い、この屋敷の使用人はアレクサンドラに甘い、というより小さい頃から断片的に見てきたからだ。前はあまり礼など言わなかった彼女が、ここしばらくは礼も言うようになった。こうした最近の変化も併せて誰もが彼女を見守っているのだ。だからアレクサンドラが変わった原因のヨーゼフにも優しい。

「ああ、ありがとう。礼は私から直接言うよ。ご苦労だった」

ぺこりと頭を下げた使用人はアレクサンドラの元へ戻っていく。きっと何か伝えてくれる気だろう。


 その夜、ヨーゼフはアレクサンドラにハンカチの礼を言う。彼女は澄ましていたが照れているのはじわじわ伝わってくる。「リーゼの練習用」だと繰り返されるそのハンカチは、売り物と比べれば劣る腕でも丁寧に刺されたことは確かだ。プライドの高い妻をどう褒めたものかと言葉を探していると、すっと空気を冷やした妻がぽそっと言った。

「気に入らなかったら処分してかまわないわ」

「……随分意外なことを言うね」

ヨーゼフは驚いた。アレクサンドラは大概のことを上手に出来る。あの時を除けば、いつだって自らを卑下したような言い方はしなかった。謝罪も感謝もするが必要以上の謙遜もなかったし、まして卑下することは貴族の矜持にも関わる。今何故そう発言するのかヨーゼフには理解が出来なかった。

「大事に使わせてもらうつもりだよ」

そう言うもアレクサンドラは「そう。また出来たら渡すわ」と小さく返しただけだった。

 礼を告げた時とは違う気まずい空気が漂う。どうしたものか、ともう一度考えたヨーゼフだが、彼女が話す気がないものを無理に引き出すことは気が進まない。それでもこの空気をそのままにこの場を後にするのも情けない話だ。

「リーゼの分の刺繍は何を?」

「あの子のものは、綿の布に絹のリボンを刺しているの」

ふっと緩んだような空気が戻ってくる。

「そうか」

 その返事を境に最近の娘の話に持っていく。仕事は分担しているが、アレクサンドラは空いている時間のほとんどをリーゼと共に過ごしている。嬉しそうに娘の話をする妻の顔を見て、夫は僅かに首を傾げた。それでも何も言わず、その夜は穏やかに過ぎていった。



 娘はすくすくと成長し、ベルネット家には穏やかな時間が流れる。両親は時間が許す限り、「可愛らしい初孫」のリーゼを構った。アレクサンドラも夫のおかげで時間は取れる。親子3人でゆりかごを傍らにお茶を楽しむこともあった。

 和やかに見えるこの家で、アレクサンドラは何かに追われるような感覚を覚えることが増えた。何気ない瞬間に何かがふっと頭を過る。それは苦手な刺繍をしている時や、両親とお茶をしている時、執務室で仕事をしている時だったりと様々で共通点も予兆もない。過るものの正体もわからない。ただそっと少し苦い、不思議な気持ちになるだけだった。



 秋に向けて、誘いの手紙が届き始めた。出産直後だろうと、乳母に子どもを預けて社交復帰するのもまま普通だ。去年は社交を休み、産後半年経つアレクサンドラの元にはご機嫌伺いの誘いが届いた。夫との和解を知らない人の、面白半分の誘いもある。

 選り分けながらその中の1通を見て、かつての自分の愚かさを思い出す。手紙は漁業の盛んな領地に嫁いだ友人からのもので、去年は忙しく欠席したが今年は参加するから会えたら嬉しい、というものだった。


 当主教育では国の成り立ちや産業は教わったが家ごとの負担や方針は教わらない。去年欠席者同士で手紙をやり取りしたとき、その過酷さを知った。いつかのチェールトの通り、産業を支える家は決して楽ではないのだ。

 あの侯爵家の条件もどれも当然。約束と無関係に、あの家はそれを守れる嫁を求めているのだ。条件が合わない家に行くべきではないという発言も至って普通のことだ。自分だってそう望んでいた。人の言葉を随分と自分に都合良く捻じ曲げて理解したものだ。のんびりした小作農の自分の領地の、自分のことしか考えていなかったのが恥ずかしかった。



 秋を迎え、夫は1人で社交に向かう。

 アレクサンドラは視察の回数を最低限に減らすことを夫に相談し、出来る限り早く帰ってくれるように頼んだ。意外な言葉にヨーゼフは僅かに驚く。理由は告げられなかったが早く切り上げることを約束した。

 夫が発ったその日、アレクサンドラは娘が寝たのを確認してから執務室に向かった。今日から仕事はかつての領主代行、この屋敷の家令が手伝ってくれる。自分よりベテランだ。だが胸が騒ぐ。自分でもどこかおかしい自覚はある。だがわからない。一体何が自分をこうさせるのか。心細い気持ちを抱えながら夫の机をそっと撫でた。



お騒がせしました。誤字脱字チェックの都合なのですが、更新間に合いそうです。

宜しくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ