表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第3章 仄暗い森
16/30

16.夢の終わりに

 執務室では夫が1人、アレクサンドラが昼間怒りに任せて置いていった標識の書類を試算し直していた。

――却下されたことは知っているはずなのに。

「……今日の仕事は終わっているよ。温かくして休みなさい」

 思わず渋い顔になったこちらをちらりと見て、ひざ掛けの主はすぐに書類に目を戻す。


 アレクサンドラは躊躇いながらも、いつもと同じその空気にそっと踏み出した。

「……あの……私、あなたに謝らないといけないの。その、私が世間知らずであなたに苦労を掛けていることや、それから……」

謝ろうと思うも上手く言葉を選べない。ひとまず仕事の話からと絞り出した言葉は何とも情けないものだった。

 どういうことかと片眉を上げ、手を止めた夫はもう一度扉の脇の妻を見た。少し俯き気味の妻はいつもより華奢に見えた。昼間父親と喧嘩したことは知っている。随分とショックを受けたのか、泣いて眠ってしまったことも。

「あなたにも、その……随分と迷惑をかけたこととか……申し訳ないと思っているの。それで……」

のろのろとしか続けられないが、アレクサンドラは一生懸命言葉を探していた。これまで誰かに謝った経験など数えるほどしかない。

 夫の表情に一瞬ぎくりとしたものの、今更止めることは出来ない。逃げるのは簡単だ。そうすれば全てこれまで通り。けれど、自覚したことを繰り返すほど無意味なことはなく、そこまで愚かでもいたくなかった。

 気付いてしまった今、これ以上虚勢を張ってこの夫の上に立ったつもりで生きていくのは自分自身が許せない。棘のある小言も何もかも、自分のためだった。目の前の彼だけが唯一「自分」を尊重してくれた人だ。真摯に接してくれた人に対して少しでも誠意を伝えて変わりたかった。

「少し思うところがあって……だから、私も明日から一緒に視察に行くわ。毎日あなただけでは負担でしょうし」

 アレクサンドラが夫に謝辞を見せるのは初めてだ。説き伏せても、いつだってむくれるように渋々受け入れただけだった。初めて見せるしおらしさにやっと反省したのかと思いながらも、夫はその謝罪の真意を測りかねる。

「別に負担でもない。私はただ自分の責務を果たしているだけだ」

返したのは事務的な言葉で、傷つけるつもりはなかった。


 ただ今のアレクサンドラにとっては何より厳しかった。

 当主としての責務も半端、貴族としても胸を張れない現実を知ったアレクサンドラにとって、この真理をついた言葉は厳しいものだった。いつか美丈夫から聞いた自分に欠けた言葉が内側から胸を抉る。

 虚ろな光が走った瞳からはらはらとこぼれる大粒の涙に、夫がゆっくり立ち上がる。

「……ごめんなさい」

 一度も見たことのない表情のアレクサンドラがそこで震えていた。

 察した夫はそっと妻の手にハンカチを握らせる。涙を拭くことを許可しない距離は益々心細さを与えた。アレクサンドラは差し出された彼の手を指が白くなる程握り返す。

「ごめんなさい、ヨーゼフ……」

許してもらえると思った訳ではない。拒絶されて当然だとわかっていた。それでもショックだった。この人にまで不要だと詰られた気になった。自分という存在の今を事実としてとらえ、情けなさとやり場のない怒りがどうしようもなく苦しい。

 癇癪を起こさず嗚咽を洩らす妻の小さな背中を夫は優しくさすった。




 目を覚ますといつぞやの様にベッドの脇に夫になった男、ヨーゼフが座っていた。サイドテーブルには夜食と思われるサンドイッチ。

 起き上がると窓の外はすっかり夜だった。


 夫が読んでいた本を閉じる。一度泣いてすっきりした分、冷静になり、何を言うべきか理解出来ていた。変わらないその目を真っ直ぐ見て、アレクサンドラは口を開いた。

「ヨーゼフ、あなたの望み通りにするわ」

ヨーゼフはわずかに眉を上げる。

「私が下らない意地を張って馬鹿なことをしている間に、あなたは目的を達成した。商会もあなたの復職を歓迎するでしょうし、ご実家だって同じ。どこかのご婦人から再婚の話だってあるかもしれない。……我が家に貯金がないのはわかっているでしょうから、物を売ってでもあなたに財産を分けるわ」

ぽつぽつ告げるうち、アレクサンドラは俯いていた。返事はない。


 重苦しいしばらくの沈黙の後、ヨーゼフの声が寝室に響く。

「ひとつ確認だが、君は離婚したいのか?」

本当に僅かだがいつもと違う声音にアレクサンドラはそっとヨーゼフを見た。気のせいだったのか、その顔はいつもと同じに見える。

「あなたはそのために色々としてきたんでしょう?」

「いや、離婚のために動いていたわけではない」

「……違ったの?」

「そう思っていたのか?」

一瞬、ヨーゼフの顔が険しくなるが、すぐにため息をついた。

「……そうか。すまない。君がそう思うのも無理はない。ひどく薄情に思えただろう。だがね、違うよ。離婚のためではない。それに離婚を決めるのは君の父上だ。僕らだけの望みで叶うものではない」

 ヨーゼフは本をサンドイッチの脇に置くと、ティーポットからグラスに紅茶を注いだ。

「でも……どうしてあんなに熱心に?」

「務めだからだ。熱心に見えたのなら……それはここが実家の領地と似ていて、その安寧が僕にとって目標の1つだったからだ」

思わずびくりと震える。だが懸念した言葉は降ってこず、夫は穏やかに話を続けた。


「僕の家もここと同じ、小作に頼る小さな領地だ。そこと重ねていたと思う。ベルネットの名を持つ僕がする事は、この家のためになる事だ。商会を使う様に頼んだのは恩義があるからだよ。あそこには16で家を出てから住むところも含めてずっと世話になった。財産分けを願ったのは貯金のためだ。だから働けなかった期間の貯蓄程度でいい。再婚にも興味がない」

ヨーゼフは嘘をつかない。それはわかっている。目の前の彼が春先の手紙に形式的な礼しか返していないのは事実だ。

 そして社交界でのヨーゼフの活動が商会の商品と共に、家の評判も静かに盛り上げたのも事実。良い婿を迎えたとベルネット家の評判は上々、春先の誘いの多さが証明していた。

――この家で自分のための地盤作りをしていたのではないの?

渡された紅茶は水出しされたもので透明度が高い。アレクサンドラの手の中でその水面は情けない表情をゆらゆらと揺らした。

 自分の結論すら見当違いという恥ずかしさと同時に、1つの疑問が持ち上がる。「何故縁談を受けたの?」そう言いかけてアレクサンドラは口をつぐんだ。聞くのが怖かった。もっと別の怖い理由が耳に入れば、今度こそ立ち直れる気がしない。

 まるでその気持ちを察したように、夫はゆっくりと話を続けた。

「君が知らなくても無理はないが……少し前までこの国では年齢差のある婚姻が普通だった。家を継がず、後ろ盾がない貴族の次男三男が名を成すのも財を建てるのも、時間がかかるものだ。30を回った頃に、初めて誰かを十分に幸せに出来るだけの財産と社会的地位を手に入れられる。僕は随分時代遅れだが正にそれでね。結婚を諦めていた」

勧められて口にした紅茶はすっきりとアレクサンドラの喉を潤す。

「簡単に言うと、この結婚は自分の夢を叶えられるから受けた。商会という人の出入りの多いところで、結婚の機会は作ろうと思えば作れる。業者繋がりの貴族や平民、年齢もそれぞれだ。だけど僕の目的は結婚ではない」

サンドイッチを勧められたが、緩くかぶりを振って断る。

「子どもの頃から領地のために何かしたいと思っていた。商会の仕事は働く人の為になると思って選んだ。君と結婚すれば領民のために働ける、そう考えたんだよ。だから僕は君を引きずり降ろそうとは考えていない。たまたま商会勤めで色々な道具や店を知っていただけだ。それだって大したことでもない」

サンドイッチのお皿をサイドテーブルに置いたその手は、掛布をぽんぽんとあやすように優しく叩いた。

「それだけだ」


「あのドレスは……」

疑問を恐る恐る訊ねてみると、珍しく夫の目に動揺が走った。

「気に入らなかったか? それは済まない。他のドレスを参考に好きそうなものを選んだんだ。何も言わないからてっきり問題なかったかと……」

大きく見開いたアレクサンドラの瞳に涙の膜が張られていく。

「あれ、あなたが?」

「……そうだ。例え予算も組めない飾りの中年夫だとしても、妻に似合うドレスくらいは用意させてくれ」

あのドレスは結果的に広告になっただけで、ヨーゼフがアレクサンドラのために考えた結果のデザインだったのだ。申し訳なさそうにする予算も何も、彼のせいではない。


 どこまでも予定だと思い、何もかもを疑って否定していた。アレクサンドラは涙がこぼれないように顔をしかめた。

「……ごめんなさい。私は貴方を疑ってばかりだったわ。本当にひどいのは私ね。どうしようもない程、自分勝手で馬鹿だわ。当主にも貴族にも相応しくない。あなたが領主なら……ここの人たちはきっと幸せだわ。譲れたらどんなにいいか……」

 その言葉に眉をぐっと寄せた夫が大きなため息をつく。アレクサンドラにはそれが益々辛く思えた。いつだって夫は正しかった。彼に叱られるのも呆れられるのも、受け入れるしかないと分かっている。何と言われても自分はそれだけの事をしたのだ。


 覚悟とは逆に、夫の口から出た言葉は穏やかだった。

「君はここの領民が皆、君をとても好きなのを知っているか?」

「ええ、なんとなくは……」

躊躇いながらも答える。嫌われていないのはわかっている。これまでいくら自分に都合よく解釈していた人生だとしても、領民たちが自分に悪意を隠しているとは思えなかった。あの人達は本当に良い人達だ。

 ヨーゼフは優しく笑った。

「そうか。ここの皆にとって君は大事な領主であり希望だ。だからそんなに弱気になってはならない」

そんなわけないわ、と口の中で呟いた言葉がヨーゼフに聞こえたとは思えないが、相手は緩やかにかぶりを振った。

「幼い頃、ここの領民たちに理想を語ったね。道の舗装に普段着の向上……君が語った夢は彼らにとって救いだった。領地の事を考えてくれる小さな女の子の存在が嬉しかったんだよ。目の前の現実がどうでも、彼らにとって大事なのは領民想いの領主がいてくれることだ」

「私……それは……」

「幼い君の真意がどうであれ、彼らの目には優しい主として映っていたし、今もそうだ。もし言いたいことがあっても、これからそうすればいい。議論の余地があっても、君がこの領地を思って動いていた事も努力も事実だ。離婚に関係なく君はここの主だ」

――違うわ。私は捨てられる。

沈むアレクサンドラの心中など夫は知らない。

「僕は君の夫だから受け入れられただけだ。君が望むなら父上の説得には協力しよう。君にはその権利がある。ただ申し訳ないが、現状からの離婚には少し時間がかかる。多分年内は僕はここにいるだろう」

はっとその顔を見ると夫は何か思案していた。現実を冷静に理解していた夫こそ、ずっとこの家を出る覚悟をしていたのかも知れない。この領地と、あらゆるものを支えながらずっとひとりで。

「……意地悪をしたいわけじゃない。少し辛抱してくれ。申し訳ないが、僕は君を子ども扱いして甘やかすべきじゃないと思うから悪者にはならない。少しわがままだが、君は大人で能力も十分ある」

――この人は、あれだけみっともない姿を見ながらも自分のことを必要以上に悪く思っていないの。

 紅茶の水面はさざ波に揺れる。見つめる先のその人はいつもと同じ真面目な顔で、話を続けていく。

「僕がわかる事は全て置いていく。良ければ商会との繋がりもそのままだ。ベルネットの不利益になる事は一切ないと約束しよう」

そこに愛情はなくても、この人は誰よりアレクサンドラの味方だった。この人だけがアレクサンドラの手を取ってくれた。


 アレクサンドラは夫の手に己のそれを重ねた。すべすべした自分の手とは違う、ごつごつした男の人の手。自分より硬く、僅かにかさついた肌は年齢を感じさせた。だが自分よりずっと大人で、働いた経験をもつこの男のおかげで自分は救われているのだ。

「ヨーゼフ。あなたが望まないなら離婚はしないわ。時間がある限り、ここに居てほしいの」

一瞬目を見開いてすぐ、夫が見せた笑顔には安堵の色が混ざる。

「そうか。それは何より」

見つめ返す妻の目には決意の光が輝いた。



 もう夢は終わりだ。



 ベルネット家に子どもが生まれたのはそれから1年後だった。



本日で前作との重複部分が終了です。お付き合いありがとうございました。

次話からが前作にない追加分です。宜しくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ