15.寄る辺ない涙
ソファに届く春の日差しは心地よく、アレクサンドラはいつの間にか眠っていた。
あの日も穏やかな春の日だった。5歳のアレクサンドラは父の執務室で母から絵本を読み聞かせられていた。
ソファの隣に座る母は穏やかに、時折挟まれる娘の質問に答えながら本を読み進めていく。この絵本は貴族の子ども向けに領主と領民の関係性を説明するものだ。
「――こうして、税金で橋は直りました。民は皆、領主をとても誇りに思いました」
「お母様、ほこりってなあに?」
「立派な行いをした人を素敵に思うことよ。私たちのご主人様は素敵だって、みんなが喜んだの」
ふうん、と頷く娘はリボンで飾った自分を褒めてくれた両親を思い出す。
「お父様は、ここの人たちみんなからそう思われているわ。サーシャもいつかそうなるのよ」
「はい、お母様」
この時既に、アレクサンドラは自分の代でこの領地をどうするか心に描いて決めていた。だからそれを達成するつもりで頷いた。
「お前はお利口だな。どこに行っても人気者で、お父様も嬉しいよ。お母様の様に美しく、常に誰からも褒められる人になっておくれ」
「はい、お父様」
カタン、と音がして目を開ける。ぼんやりと見る窓の日差しは少し傾いていた。ほんの数分と思った夢はどうやら眠りの一部だったらしい。気が付いた自分の上にはひざ掛けが掛けられている。起き上がって周りを見るが誰もいない。誰のおかげか使用人を呼べばわかるが、なんとなく呼べずにそっと畳んだ。
あの時の両親の言葉が果たして自分に相応しいか、アレクサンドラにはそう思えなくなった。件の標識は領地の案内役、朽ちかけでは領地が廃れてみえる。直す余裕がなかったのは自分のせいでもあるだろうし、些細なことだが人のためになればと考えた。それこそあの絵本の橋と同じように。
その考えも今までの自分のせいで聞き届けられなかった。
いつだって「領地を思う当主であれ」と教えられた。民に不便ないように領地を管理するようにという教えはいつも胸にある。提案もそれに沿った。教わった事と現状とできちんと考えた。正解ではなくても努力はしたし、成果を上げたものもある。上げた税収の運用や判断は机上の話から現実になったばかりだが、今回の事は怒鳴られる程間違えているとは思えない。
こんな些細な事すら受け入れられない、こうなったのも全ては自分のせいだが、納得がいかず悔しかった。
父親が信頼しているのは夫だ。自分ではない。
小さい頃から優秀だった。勉強もダンスも出来た。容姿もいい。友人もたくさんいた。両親にも周りにも愛されていたはずだ。全てが思い通りになって当然で、そうなるべきだと思っていた。
ただそれだけだ。
その記憶しか今のアレクサンドラにはない。
あんなに振りかざした当主教育も、与えられた他人の夫の方が余程それらしく形にしている。下手をすれば自分ははんこを押すだけの生活だ。
相手は伯爵家の三男。ただの小銭持ちで歳を重ねた未婚のみっともない男のはずだった。随分と馬鹿にしたものだ。
ふと妹を思い出す。親に捨てられた侯爵家の嫁。昨秋王都で耳にした噂はあれを褒めるだけでなく、世間知らずな様子を蔑み笑う声もあった。
だけど自分はかつて見下したその2人以下だ。
この1年少しの間、自分がへそを曲げている間も、夫は真面目に働いていた。任された帳簿や視察、期待以上の成果を出せるよう、真剣に、真摯に向き合い取り組んでいた。領民のこと、家のこと、それよりなにより自分のこともよく考えてくれていた。自分より立派に領地を管理していた。
傍から見れば夫が家を乗っ取ったと言われても不思議ではない。だが夫は必ずアレクサンドラに確認をとり、言葉がきつかろうと説明もしてくれる。父に遠ざけられた帳簿もこの男はきちんと見せて、相談してくれる。内心無知な娘だと馬鹿にしていたとしても。
――私は一体何をしているのだろうか。
夫は自らの努力で自分の立場を確立させたというのに。妹はやっかみを受けながらも侯爵家の妻として務めているというのに。
ようやくアレクサンドラは気が付いた。夫はこの家を利用したのだ。自らの社会的立場を確立するために。
夫にとってこの家は利用するだけの存在だ。白い結婚もそう。この家を乗っ取る気もなく、全ては離婚への備え。夫はこの家に居ればいるだけ名誉も財産も上がる。父の決定がない限り離婚はないと聞いているが、何もかも全て計画のうちだ。そして見事にそれは達成されつつある。
夫の計画は完璧だ。どうあっても最後に捨てられるのは自分だ。
――捨てられる……?
陽が落ちた部屋が陰り、すっと足元から涼しさが上ってくる。
――誰に?
妹は捨て駒だった。それはずっと知っていた。約束を果たす為だけの存在だと聞いた。だけど自分は違う。「この家は全部自分のものだ」と言われてきた。ずっと望む通りに叶えられ温かさに包まれていた。だからこの家は自分の意のままになる。そう信じていた。自分は特別だと。
でも現実は違う。
アレクサンドラも父親にとっては駒の1つだ。
――離婚が成立すれば私は捨てられる。父は養子を迎え当主にするだろう。私は醜聞を切り捨てるためにこの屋敷に閉じ込められる。
そして母親もそれに賛成する。
――母にとって私はお人形だもの。
可愛がるだけの都合のいい人形。
自嘲の笑みすら浮かばない。重心が定まらず視界がゆらゆら揺れる。座っているのに、崩れ落ちそうだった。
アレクサンドラは充分に理解している。確かに幸せで望まれていた。両親は自分を大事に育てた。愛情も確かに、ありすぎる程にあった。アレクサンドラを立派な貴族として、強い当主として育てようとしてくれたことは事実だ。
だが同時に間違え続けていた。ただ与えられる甘い言葉で機嫌を良くする日々しか記憶にない。甘えだとわかっているが、何も正そうとせずに、間違えた途端に手のひらを返されたのも納得がいかない。
あの時のように両親を詰って当たり散らすのも簡単だが、それこそ出来ない。気が付いてしまったから。
おかしいのは自分もだ。責められるべきは両親だけではない。あれだけ友人がいながら、言葉をかけられながら、過ちに気付かなかった自分が悪いとわかっている。どれも全て自分に都合良く解釈していた。どうしようもなくやるせない。
今やただ1人、夫だけが自分を大人として取り扱い、アレクサンドラとして接している。
初めからそうだった。
「醜聞まみれの行き遅れ」に対してきちんと向き合って話をしていた。利用するための相手だとしても、こちらを馬鹿にした様子はなかった。条件の解釈は自分の感情。男の力でどうにか出来ることも正論で終えた。癇癪を起こした時も甘やかさず、冷静に対処していた。
疎まれるのも構わず注意し続けた。それは全てアレクサンドラのためだ。
向き合ってくれたのは、祖母とあの男だけだ。大人になって尚幼い自分を見捨てず、誰よりも自分を見て正してくれようとした「夫」。
惨めだ。なんと惨めで愚かな現実が悔しくて仕方なかった。妹の婚約者に馬鹿にされた時の比ではない。友人の開いてくれたパーティーで、遠くから見ていた人たちの顔が浮かぶ。どうしてあの時、気付かなかったのだろう。滑稽な気すらする。自分で自分が許せず手が震える。
――私は間違えたのだわ。
堂々としろと、選ぶのはお前だと、いつもそう言われていた。
――いつからか自分の言動を疑わなくなった。私自身が間違えていた。
さっき見た夢が胸を過る。
――いつから……?
アレクサンドラの胸に冷たいものがぽつりと垂れ、波紋を広げていく。妙に背中が涼しい。美しい大きな瞳はこれ以上ない程に開かれる。揺れる視界に映るのは今ではない、いつかのここ。
それは4歳のアレクサンドラがこの領地に来たあの日の記憶だ。屋敷に着いたアレクサンドラは綺麗なドレスに着替え、両親に挟まれてこのサンルームに座っていた。
「お父様、お母様、やっぱりみんなにもこういうドレスを着てもらうべきだわ。あれじゃ汚いもの」
隣に座って優しく髪を撫でてくれる母が穏やかに口を開いた。
「いいこと、サーシャ、あの人達と私たちは違うの。私たちは貴族。尊い身分で、あの人達より偉いの。美しくあるのも仕事なのよ」
確かに母は常に美しい。いつも綺麗に着飾っていて、アレクサンドラの目には女王様の様に見えていた。尊い、という言葉はわからないが、偉いはわかる。
「あの人達は偉くないから汚くていいの?」
「そうだよ。あの人たちはああやって土に汚れているのが仕事だ。お前は偉いから、お母様の様にドレスやリボンやきらきらしたもので美しく着飾るのが仕事だ」
父の言葉は子どもにとって恐ろしい程の甘さを含んでいた。アレクサンドラの好きな綺麗な物を見に着けて着飾り、領民たちから眩しそうな羨望の眼差しを向けられ「奥様」と呼ばれていた母。この家のお姫様である自分はいつか、目の前の女王様になれるのだ。
ふわりと優しい母の笑顔は小さい胸を益々弾ませた。
「それにね、サーシャはとても賢い。家庭教師も褒めていたよ。お出かけもきちんとできる」
頭を撫でる父の大きな手が嬉しい。
「私たちの大事なお姫様、大きくなったら私の代わりに領民たちを治めて、お母様の様に美しくあっておくれ」
アレクサンドラは大きく頷いた。ふと、王都においてきた、生まれたばかりの妹を一瞬思い出す。
「あの子は?」
僅かに目を合わせた両親は、どちらも満面の笑みを返した。
「あの子はすぐにいなくなる。ここは全部お前のものだよ」
父の向こう、サンルームの大きな窓からは広い領地が見える。これが全部、自分の物。
「サーシャを大事にしてくれる王子様を見つけて、皆で幸せに暮らしていきましょうね」
きらきらと眩しい景色が目の前に広がった。美しいお姫様である自分と凛々しい王子様、優しい両親と、それからやっぱりちょっと綺麗になった領民たち。想像の後ろで、両親は優しい言葉を繰り返していた。
自分はそこを目指すのだ。
絵本の完璧な物語の最後のシーンは完璧な1ページ。その未来図のパズルを完成させるため、アレクサンドラは初めのピースをそこに置いた。親子3人が並び立つピース。真ん中に座る、綺麗な自分。
身体が沈み込むような感覚に襲われ、ソファからがばりと立ち上がると、苦しい胸をかきむしった。ここしばらくずっと色褪せていた未来図は全て“嘘”だ。どうしようもない毒による幻。
振り向いたソファは恐ろしいものに見えた。忌々しい程の温もりの記憶。
ぎゅっと目をつぶると、冷たさが苦みに変わる。寒さの震えは怒りになって体中を駆け巡った。
息を飲み、下唇をぐっと噛むと、そのパズルを床に叩きつけた。ばらばらになったパズルはアレクサンドラの心に無残に散らばる。幼い頃から、ひとつひとつはめてきたピース。王子様との結婚という額縁に入れて完成するはずだったパズル。ずっと胸に抱いてきた大事な未来。
これを組み立てるように語り続けた両親。
考えていたようで何も考えず信じ続けた自分。
肩で息をしていたアレクサンドラはその場に座り込む。力が抜けてもう立っていられない。ぼんやりとした瞳から涙が流れるが、ハンカチを取り出す事もぬぐう事もできない。
「私は一体……なんだったのかしら……」
漏れた言葉に応える人はここにも、心の中にももう居ない。
今、アレクサンドラの要望はほとんどが叶えられる。お菓子もお茶も、この家で過ごす時間に不自由はない。憂鬱な社交に勇んで参加する気はないが、参加しようと思えば素敵なドレスが手元にある。贅沢をしなければ新調だってできる。領地のためにすぐに動かせる資金もある。あの贅沢遣いの生活から余裕を生み出し、それを叶えてくれたのは紛れもなく、アレクサンドラが拒絶し続けるあの夫だ。あの夫がいなければ今の生活はない。
自分よりよほど立派にベルネットの家に生きている他人。いつもアレクサンドラに冷たく小言を吐いてくる男。そのどれもが正論で悔しくて気に入らない。
ぎゅっと目をつぶる。瞼の裏に燃え盛る炎がちらついた。
もう自分は20を超えた。一体何に縋って何をしているのだろう。人生は巻き戻らない。華々しい生活を全て灰にし、挽回する機会を全て足蹴にして、このまま老いて死ぬのだ。自分はいてもいなくても同じ。独りぼっちの日が来る。
「惨めだわ……」
立ち上がると足元がふらふらした。それでもいかねばならない。
※ルビ・傍点が表示されない方へ
以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます
色褪せていた未来図→「未来図」に パズル
明日で第3章終了します。第4章開始前に1日お休みを挟むかもしれません。何とか続けられるように努めます。