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咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第3章 仄暗い森
14/30

14.ざわめきの中

 2年目の春。冬の途中に悪くした父親の体調が戻らない。数年分の心労が祟ったのか、すっかり痩せて弱々しい。畑が動き出す季節に向けて父親はアレクサンドラに当主代理を任せた。

 張り切りたいが理由は複雑で隣に立つのはいけ好かない男。ため息を隠すアレクサンドラを他所に相手はどこまでも冷静で、すんなりとアレクサンドラに帳簿を見せ、予算やあれこれを相談したのも癪だ。

 重要な視察以外は手分けをした方がいいと、それらしい理由を付けて可能な限り別行動を試みた。男は大人しく従った。幸い今春急ぎの整備はなく、定期的に農地を見て回るだけだ。



 ゆっくりと屋根なしの馬車を走らせる道は春の草花が芽吹きかけている。気分が晴れたアレクサンドラは農地にいる領民に声を掛けた。

 種まきの最中の女性たちがわっと集まる。田舎の娘たちは王都で流行の最先端を行く自分たちのお嬢様が大好きだ。口々にドレスを褒める。そしてその話の流れで男を褒めた。

「私も早く結婚したいわ」

「あんた、結婚するならお嬢さんの旦那様くらい良い人じゃないと!」

「お嬢様もお幸せでしょう。あんなに素敵なご主人で」

この言葉にアレクサンドラは凍りつく。

「あたしたち、とっても幸せです。うちの領地のご主人様方がとってもご立派で」

幸せなど感じたことがない。腐りそうになる気持ちを隠し、出来る限りにこやかな笑顔で形式だけのお礼を言って、早々に馬車を進めた。


 少し先では土起こしをしている男性たちの姿が目に入った。こちらでも馬車を停めて声を掛ける。

 年配の彼らはまず父親への見舞いの言葉を述べてくれる。父親は領地を愛しているし、領民も父親を慕ってくれている。アレクサンドラは素直に礼を述べた。

 今年の作付の話から道具の話になる。

「今年から土起こしの道具が新しくなりまして、以前より軽々と空気を入れられます。昨年の秋に若旦那様から良い肥料を紹介していただいて、冬の間寝かせてましたから、きっと良い土ができます」

「新しい道具は軽くて、刃の数も多いから一度にたくさんの土が起こせます。随分はかどりました」

「さすが都会の店は違いますね。相談させてもらえるなんて、ありがたいことです」

屋敷に届く男への称賛は一部はおべっかかと思っていたが本物だった。目の前の農夫たちはあの男を信頼している。

「旦那様の代わりがお2人なら安心です。精一杯頑張りますね」

「来週にはすっかり終わりますので、ご一緒に見にいらして下さい」

にこにこと笑う農夫たちは本当に嬉しそうに、さすがお嬢様の旦那様だと喜んでいた。

 アレクサンドラは歯ぎしりを堪えて笑顔を保った。領内を巡ると、どこでも父親との見舞いと同じくらい男への褒め言葉が寄せられる。領民たちは男の親切さと知識に信頼を寄せていたのだ。1を聞いて10を悟るような賢さにも、気取らない態度にも感心し納得していたからこそ、皆が良き夫を迎えたアレクサンドラのことも褒めた。

 屋敷に戻る頃には悔しいと思う気持ちすら湧き上がらなかった。


 領民に寄り添い、慕われ、帳簿以外の仕事もこなす。将来の『当主の夫』は完璧だった。



 数週間の間、必要に迫られて何度か2人で視察にも出た。例の農地に土も見に行った。具合が悪いと嘘をつくこともできたが、アレクサンドラのプライドはそれを許さない。農民たちは若夫婦を歓迎し、収穫量を上げてみせると目標を語った。「親身になって相談に乗っていただけたおかげです」とある農民が口にした時、男は笑っていた。初めて見る男の人間らしい表情に何とも言えないものを感じた。



 屋敷に帰れば書類処理がある。

 数週間の間にアレクサンドラは気が付いた。この男はいつも必ず、どんな些細な事でも書面にし、アレクサンドラに確認し、その手で判を押させる。思いついた案はアレクサンドラの意見を仰ぐ必要などない程に完成していても、必ずこちらに話を通す。

 当然なのだが、初めの頃はそれが気に入らなかった。

 アレクサンドラはこれまで父親と2人で行っていた仕事を1人で行い、加えて予算との都合も考える。急に負担が増えたのだ。意見はともかく、添えられる小言がとにかく鬱陶しい。柵の修繕1つとっても必要性や時期、木材1つとっても木の種類や耐久度や価格などを細かく確認する。これが常にであるため、アレクサンドラもあれこれ調べる習慣はついたが、大体において男の方が一枚上手だ。

「こちらの書類に目を通して返事を」

書類と小言の多さに辟易しながら、ろくろく目を通さずに了承の判を押そうとすると必ず注意された。

「判を押せとは言っていない。返事を寄越すようにお願いした。まずはきちんと目を通してくれ」

こうなると読んだ読んでいないの言い合いが始まる。アレクサンドラは自分の負担の多さを訴えたが、「あなたにはそれだけの責任があるはずだ」と冷たい目を向けられただけだった。


 アレクサンドラも理解はしている。『書類には必ず目を通し、理解して当主が判を押す』べきだと当主教育で教わった。誰が判を押そうが最後に責任を負うのは当主だ。知らないでは済まない。

 判の在処を把握し、完璧な案を用意した状況で尚、アレクサンドラに意見まで求めて、責務を果たさせようとする。真面目なだけなのはわかるが、この状況でこの男が自分に押し付けてくるこれらが全て責任逃れだと思いたかった。未熟な者同士のはずなのに、当主代理にだけ全てを押し付けようとする。何かあれば男はこの家を見捨てればいいのだから。

 こんな男に当主のなんたるかを語られるなど御免だった。


 今もサイドテーブルには未処理の書類が積み上がっている。ついさっき、思わずため息を洩らしたばかりだ。憂鬱に眺めていると自らの机の上を早々に片付け、男は立ち上がった。

「どこへ」

「外へ。こちらは片付いている。それが片付くまで視察は引き受けても構わない」

そう執務室を後にした。

 見ればあちらの処理は終わっているようだ。帳簿の脇に急ぎではない書類が積まれている。帳簿が目に入る度、これまでの財政管理を詰られている気になる。


 アレクサンドラは椅子をぐいっと引くと、積まれた書類に向き合った。



 母親とはたまにお茶をする。楽しみであるお菓子は費用を意識し取り寄せる回数を減らした。ひと月当たりの金額が落ち着くと、男は何も言わなくなった。父親の傍らに寄り添い、現状を嘆く母親は随分色褪せて見えた。




 ひと月経ち、季節はすっかり春だ。王都の屋敷に届いたお茶会の誘いが領地に転送されて来た。すっかり書類が片付いた執務室に届いた手紙の大半が家と男宛だった。

 商会からは父親への見舞いの言葉と、これからの季節に向けての営業の言葉が並んでいた。それとその商会の持ち主である男爵家からの見舞いの手紙。自分の商会を立ててくれる男と、ベルネットの家への感謝が綴られていた。

 中でも一番驚いたのは、結婚式には姿を見せなかった男の実家も手紙を寄越していた事だ。不出来な三男だがそちらのお役に立っていると聞いた、これからも宜しく頼むと、父親への見舞いの言葉に添えられた言葉は、アレクサンドラにとって衝撃的だった。


 何を以って不出来というのだろう。結婚式に姿を見せなかったのは自分の醜聞のせいだと思っていたが、それだけではなかったかもしれない。薄く笑う目の前の男は忌々しいが能力はある。一体どういう人生を過ごしてきたのか、気になっても当然聞く事は出来なかった。



 それからしばらく、男宛に貴族のご夫人方から手紙が多く届いた件は父親の耳にも入った。愛人は珍しくないが、これ以上の醜聞を避けたい父親は男を問いただした。男は親子の前で堂々と手紙を広げて見せる。並んでいるのは昨秋の社交で男が広めた商会の商品に関するお礼の言葉だった。

 ベルネット家が親しくしている貴族たちの領地は大抵が小作だ。自領にしたのと同様に、便利な農具や安価な布など様々な物を紹介したのは想像に容易い。中には手直ししたアレクサンドラのドレスを褒める手紙もある。その手直しをしてくれるメーカーへの紹介を乞うものも。怪しい気配はどこにもない。


 男はどこに行っても抜け目がなかった。婿入り先の伯爵家が元の勤め先を通して買い物をするので、辞めてなお、商会での彼の評判は上々。加えて出かける先々で商会の客からつながる貴族たちと親しくなり、商品をどんどん広めているのだ。その見事な手腕によって実家からも見直され、商会を営む大元の貴族からも高い評価を得ている。もし離縁しても、彼には求められて向かう行先がたくさんある事は明らかだった。仕事は勿論、かつて財産のなさで流れたと聞いた縁談も、今なら歳が近いどこかの未亡人に望まれ、簡単な話だろう。


 元勤め先と元雇用主に恩を返し、義理堅く務める。『敏腕会計士』は見事だった。


 アレクサンドラ自身は男の浮気を疑いはしない。離婚する時不利になるような事をこの男がするとは思えない。ただ、まさかここまで強かな男だとも思っていなかった。自分すら広告塔にされているとは。


 空しさが胸を駆け抜けていった。それは一瞬だった。


 アレクサンドラは初めて自嘲の笑みを浮かべる。何もかもが、本当にばかばかしく思えた。




 ある晴れた日、アレクサンドラは乱暴にサンルームの扉を閉めた。父親と言い争い、気分は最悪だった。この頃、父親は本当に厳しくなった。ずっと優しかった父親のあまりの変化にアレクサンドラはついていけない。

 言い争いの原因は些細な事。男に相談して予算も確認済みだが、父親は許可を出さなかった。

 領地の外れにある標識はもうずいぶんと古く傷んでいた。この地に客人は滅多に来ない。馴染みの者はそれがなくても方向はわかるからと、ずっと先延ばしになっているそれを片付けようと提案したのだ。

 財政は少し黒字だ。標識を直す余裕はあるし、客人が少なくても領地の入り口の見た目は大事だと男も賛成した。

 しかし父親はそれを否定した。たまたま黒字だった年の金を不急の『ただの見た目』の事に使うなというのだ。被せるように日常の贅沢も責められた。確かに母と共に菓子を取り寄せている。控えるというアレクサンドラの言葉にも父は耳を貸さなかった。それでもと食い下がるアレクサンドラに厳しい言葉が浴びせられ、最終的には感情論での言い争いになった。「現実を見ろ」「いい加減に大人になれ」という言葉がどうにも許せず、クッションを投げつけそうになる。

 ぐっと唇を噛んでこらえ、涙がこぼれないようにそれを抱きしめながらソファに座った。

 アレクサンドラだってわかっている。この1年と少しで嫌という程わからされた。ただ自分がどうすればいいのかはわからないままだった。




 ベルネット家当主のマルコは苦い日々を過ごしていた。

 全ての発端は大切な娘アレクサンドラの暴走だ。将来の当主に必要な物は与え、優秀に育ったと信じていた。美しく利口な娘。多くの友人と共に華やかな社交界で立派に振る舞う娘の姿を妻と、立派になろうと勉強に励む姿を自分と、領主として民をまとめる姿を期待し応援していた。

 だが彼女は道を間違えた。間違えた問題はなかった事にはならない。


 煩わしい約束の相手をきっかけに、アレクサンドラは急に子どもの様にわがままになった。捨て駒に知られないように秘密にしていた婚約の条件も、それまで緩く見ていた娘の社交での振る舞いも、何もかもが悪く作用し、最悪の結果を招いた。大事に選んでいた娘の結婚は絶望的だ。

 家の躾をからかう声が聞こえ始めてからは本当に地獄だった。親戚にも睨まれ養子も厳しい。不安に襲われた時、初めて自分が選択を誤った可能性に気が付いた。妻のように娘をただ可愛がり甘やかして育てたつもりはない。だが本当にそうだろうかと、呼吸が苦しくなった。

 焦りながら強引に夫を探した。幸いな事にその夫が優秀でかなり救われている。相手が会計士なのも幸運だった。娘も結婚を機に少しは改まるかと思ったが、妻と同様にもう何も期待できない予感すらする。

 手にする薬はドレッセル領の薬草から作られる。こちらからは取り消せない約束を、厚かましく何代も引き継いだ成り上がり侯爵家。潰れない立場にふんぞり返り、嫁には条件以上に何も望まないというその手紙を言質に最低限の教育のみで下の娘を嫁がせた。その分の全てを上の娘に与えたというのに。

 こんな事になった理由がわからない。確かなのはもう戻れない事だ。

 後悔虚しく胃が痛んだ。

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