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咲く花の色は  作者: 餅屋まる
第3章 仄暗い森
13/30

13.正しい旋律

 何事もなく雨季が過ぎ、草が青々と光り輝く季節が訪れた。娯楽の少ない田舎で、アレクサンドラは散歩とピアノの練習、母親とのお茶だけを楽しみにしていた。父親と男と3人での執務室は息苦しかった。


 この頃は男に対抗心を燃やすことに疲れていた。視察に出る男が自主的に問題を持ち帰るのも、商会で働いていた頃の知識が役に立つのも仕方がない。父親に却下されて苛立ちが募るくらいなら、後出しになろうとも男に被せるような意見や視点を変えた異見を考え出した方がいい。

 勿論、意見や提案が通った事もある。温かい季節の害虫が気になったため早めの除草作業を提案したところ受け入れられた。虫を介した病気もある上、雑草がなくなった結果、作物の出来が良くなったと領民からは評判が良かった。

 それ以外にも細々とした領地の整備や問題を解決した。アレクサンドラだって長年当主教育を受けて来た。経験不足なだけで、務められる能力はある。

 対抗心がないといっても男を気に入った訳ではない。相変わらず視察の殆どを男に行かせていたし、執務室の中ですら会話は少ない。原因は男の小言だ。

 帳簿を任された男は前任の母親に比べてとても細かい。領地の整備の予算に関しても度々言い争いになった。耐久性を含めた費用対効果を計算してからでないと許可が下りない。気晴らしにと母親と2人で王都から菓子を取り寄せていたのだが、ある時小言を言われた。確かにその月は取り寄せ過ぎたが、わざわざ明細を重ねてこなくていいはずだと憤慨した。


 言い合いをするのも面倒で1人でピアノを弾く時間が増えた。アレクサンドラはピアノの音色が大好きだった。興味を持った当時の習い事はまだチェンバロが主流だったが、前衛的な物が良いと判断してピアノを選んだ。チェンバロより軽く華奢な音の正しい音階の正しい旋律。


 ここに座ると思い出す事がある。

 幼い頃、招かれた家のホールにピアノがあった。彼女もピアノを習っていたので、2人で鍵盤の前に並んで座り、高音と低音に分かれて同じ曲を弾いた。アレクサンドラは高音。きらめく音が気持ちよく弾けていく。対する彼女の低音はしっかりと落ち着いた音で響いていく。簡単な曲しか弾けない2人は、どちらが先に教本を終えるか競争する事にした。

 両親はピアノの稽古を増やした。アレクサンドラ自身も必死に練習した。練習が楽しかったのがいつまでだったか覚えていない。そして見事に勝った。

 両親が揃って『一番のアレクサンドラ』を褒め。ご褒美にと豪華なドレスを作ってくれた。周りの伯爵家の誰も着ていない煌びやかなドレスだった。

「偉いぞ、アレクサンドラ。一番のご褒美だ」

「素敵ね、サーシャ。これからも頑張ってあなたが伯爵家の中で一番になるのよ。可愛さはもう一番」

「そうだな。頭もいいし、なんたって未来の当主だ」

 ドレスと共にこの話がお茶会で話題になり、相手の悔しそうな顔を見た時にアレクサンドラは思った。友達も相手の親も必死に彼女を慰めていたけれど、負けるのは良くない事だ。現に自分は彼女以上に褒められうらやましがられている。

 楽しかった練習が楽しいかどうかわからなくなって、勝負に勝ってまた楽しくなった。誰よりもお利口で優っていればご褒美ももらえる。優越感と共に『友達』に励ましの言葉をかけた。


 ポロン、と指が鍵盤から落ちていく。

――私も、目の前の譜面の様に押せば正しい音が出せる人生を歩むはずだったのに。


 もうずっとアレクサンドラはあの男に『負け続けている』。情けなくて仕方ない。父親は厳しくなった。男は常に冷静。母親だけだ。母親だけはいつも慰めてくれる。

 もう一度弾き始めたその音が自分を責めているような気すらした。苦しくてどうしようもなくて、最後まで弾けずに静かに鍵盤の蓋を降ろした。




 季節は進み、社交シーズンが近づいてくる。朝晩の空気が涼しくなり始めたこの頃、領地にもちらほらと誘いの手紙が届きだした。ここ数年の事を思えば気は乗らない。しかし行かなければそれもまた噂の元。

 母親はアレクサンドラを励まし、アレクサンドラも隣に立つ夫に期待できない分、せめてとドレスの新調を計画した。どのみち、既婚者になったため、これまでのドレスのいくつかは着られなくなり、仕立て直す必要があるのだ。

 数日後、見積もりを片手に男が現れた。

「これだけの数を作る必要があるのか? 手持ちのドレスを見せなさい」

癪だが帳簿を預かる男が許可しなければドレスは作れない。大人しくクローゼットを開ける。

「王都に置いてきたのも同じようなものよ。ほとんど着ていけないわ」

未婚と既婚ではドレスの胸元が違う。関係なく着られるデザインもあるが手持ちの半分は未婚者向けだ。

 しばらく考え込んでいた男は着られないドレスを全て取り出す。

「新しく仕立てるのは2着まで。こちらは手直しに出す。要望があれば知らせを」

それだけ言うと足早に去って行った。


 翌日、昨日の怒りが収まらないアレクサンドラは父親と男が外した間に帳簿を盗み見た。

 帳簿をめくるうちに気が付く。何に於いても常に出来る限り切り詰めては貯蓄に回しているのだ。この前ちらりと見た時に今年の予算は頭に入れた。欄を確認しても間違いない。有り余っているとはいえなくても、決して不足もないはずだ。ここまでする必要はないような気がする。

 奇妙な流れに貯蓄欄を確認すると、恐ろしい事実を目の当たりにした。貯蓄がほとんどないのだ。これでは万一の際に領民はおろか自分達も厳しい目に遭う。食料の備蓄はあるが、それだけではどうにもならない事もある。慌てて帳簿を遡ると、過去の貯蓄の殆どは自分の結婚式に使われていた。

 背中が寒くなる。

 落ち着いてもう一度帳簿を見直すと、ここ1年程は黒字で、それは男が切り詰めた成果だ。

――それまでは?

少し前にお金が厳しいという話があったはず、と思い出して母が預かっていた帳簿を引っ張り出すと、赤字ではないが危うい金額だった。原因は社交と服飾。中でも自分のデビュタント後の宝石代とドレス代は大きい。必要な贅沢だと思っていたが、思えば何かを望む際に値段を気にしたことは少なく、そして拒まれた事も少なかった。


 震える手で帳簿を元の位置に戻す。男の小言の理由が分かった。父親が帳簿を自分に中々見せずに、母からすぐに取り上げた理由も想像できる。複雑な気持ちになるが何も言えない。

 もしこの状態で領地に何かあれば家はおしまいだ。工夫できるドレスを優先して貯蓄をせず、領地を蔑ろにしたと噂が立ってはそれこそ本当にどこにも顔向けできなくなる。


 アレクサンドラはドレスの新調を諦めた。男が提案した通り、手持ちのドレスの手直しを頼んだ。母親は不満そうにしたが構わない。そもそも社交自体気乗りしないのだ。

 それでも、手直しされたドレスの胸元がアレクサンドラが好きな豪華で繊細なレースで美しく飾られていたのが救いだった。




 様々な理由で気乗りしなかったシーズンは予想通りの展開だった。結婚式以来、交流を再開した友人もおり、誘われはするがあまり楽しみではない。

 勇気を出して参加したお茶会では夫と一緒でない事を大袈裟に残念がられ、招待客からちらちらと見られた。こんな状況では益々夫と並んで社交の場に顔を出す気になどなれない。理由をつけてここでも別行動にした。

 親友のお茶会には気軽に参加で出来たが、そこですら息が詰まる思いをする事がある。アレクサンドラが夫と仲良くない事は明らかなため、出産や子育ての話題が出ると皆が急によそよそしくなるのだ。アレクサンドラからしてみれば、視線も気遣いも何もかもが煩わしい。欠席という選択肢が叶えば良かったが、この友人との付き合いを止めればもう何も残らない。笑顔を貼り付けて過ごした。


 誘われて既婚者のサロンにも出入りしたが一度きりだ。そこで耳にしたドレッセル家の噂も気に入らない。若き夫婦の評判は上々。自分とは雲泥の差だ。

 あの長男が城勤めをしている間に愛人になろうとした女性が数人いたが、誰もが失敗したらしい。それぞれかなりの美貌の持ち主なのにと笑われていた。それでも諦めずに挑戦している者がいるとも。

 その内のアレクサンドラが知る人物は、確かに飛びぬけて美人だった。あんな美人を相手にしないなんて、そもそも冷たい男だったのかとあの時の事を勝手に納得していると、扇の奥で誰かがふふっと笑うのが聞こえた。

 そっとずらした視線の先では2人の夫人が見事な扇を揺らしていた。

「皆様、ご存知ないのかしらね。なんと無駄なことを。あの方、ずっと婚約者のためにと何もかもをお断りしていらした真摯な方なのよ。あれだけ律儀な方が他所の女に靡く訳ないでしょうに」

「本当にね。付き合いの長い者は皆、誠実さに憧れて見守る側に回っているというのに。下の方々はそんな事情もご存知ないのね。知らぬ恥で浅はかなこと」

「でもあの奥様も妙よ、嫌味を言われても気になさらないんですって。プライドがないのかしら?」

「まぁ。見た目も中身も冴えないのねぇ」

 息を飲んだ。

 いつぞや無礼に思った侯爵令嬢の言葉が蘇る。あれはそういう事だったのか。知らずにグリオルを狙うのは不躾に色めきだった女たちだけ。彼に近い高位貴族たちは皆グリオルの真面目さを知っていた。自分も恥をかいたのだ。今更だがその場で相手を罵倒しなかった事だけが救いだった。




 噂こそないが、扇の奧で笑われ陰口を言われているような憂鬱な社交に嫌気がさし、シーズンが終わる前に領地に戻った。

 領地は丁度収穫の終わりを迎えていた。しばらくすれば冬の前には次の税収の参考になる収穫量が報告されるだろう。

 社交が気晴らしにならなかったことでアレクサンドラの気持ちは重たいままだった。気持ち良く散歩をするにはこの頃が最後だと思い出し、表に出ようとすると男も視察に出るという。帳簿の件で一度男を見直しかけたが、王都での社交で、アレクサンドラは気持ちを拗らせていた。この男と並んで出掛ける気にはなれない。男が連日出かけるので結局アレクサンドラは屋敷に引きこもった。

 男はそんなアレクサンドラの様子を察し、指示がなくても領内に出かけて行った。

 平民である領民とも砕けて話をするからか、誰も彼もが良い婿をもらったと褒める。男は領民からの評判がとてもいい、そんな様子は自然と屋敷にも伝わってくる。アレクサンドラは益々男を疎ましく思った。



 結婚から1年。冬が始まる頃だった。

 税収を知りたくて盗み見た帳簿に、視察で気が付いた整備案と共に男宛ての手紙がしおり代わりに挟まれていた。むき出しの便箋の文字が目に入り、アレクサンドラは思わず読んでしまった。それは男が以前勤めていた商会からで、この1年の贔屓への感謝と、男が抜けた穴が中々同じように埋められずに会計員を増やして頑張っていると綴られていた。

 男に寄せる信頼は、アレクサンドラが知らないほどの熱を帯びていた。この男には揺るがない居場所があったのだ。


 自分との差に胸が詰まるが、それよりも疑問が浮かんできた。手元には男に戻ってきてほしそうな人たちの手紙と、領地への案が並んでいる。

――何故、この男はここまでする?

 男は自分を必要とする居場所を離れてまで、この家に婿入りした。


 あの時のアレクサンドラはそう思えなかったが、この結婚は男にとっていい事ばかりではない。婚姻歴は確かに他の何かで換えられないが、この男にとっては今更だったはずだ。若い娘との婚姻に浮かれた様子もない。帳簿を見て財産の少なさにも気が付いたはずだ。だから切り詰めて貯蓄をしているのだから。加えて白い結婚。力ずくにすれば果たせる事もそのままにしている。何も得ていない。

 そもそも男はあと十数年の人生を1人で生きられるほどの貯蓄はあると言っていた。それならこの財産分けだって然程問題ではないだろう。もらえる財産を育てるのも計画の1つだとしても、1年で貯蓄出来る金額は数年前の帳簿から割り出せている。微々たる額を手に入れるための努力にしてはあまりにも見合っていない。こんなに真剣に領地の事を考える必要だってない。適当に持ち込まれる案件だけを処理したって十分なはずなのに。


 アレクサンドラには男の真意が理解できなかった。

 理解できないからと相手に理由を訊ねるのも癪だ。事あるごとに容赦なく浴びせられる小言に腸は煮えくり返るが、枕に当たり散らす程度にした。

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