12.見えない先
馬車は田舎のなだらかな一本道を進んでいく。途中に小さな集落規模の町はあるが、あとはつまらない程の草原、畑、草原。遠くに林が見える程度だ。
馬車に揺られる4歳のアレクサンドラは正面に座る父親に話し掛けた。
「お父様、なんにもないのね」
アレクサンドラは領地で生まれ、1歳の頃は領地で過ごした。まだ幼かったので当然だが、その頃の領地に関する記憶はほとんどない。2歳の頃、初めて王都を訪れたその際に母親の妊娠がわかり、一家はしばらく王都を拠点にした。妹が1歳を迎える今日までの2年間、領地に戻ったのは父親だけだった。
王都に向かう馬車の中のアレクサンドラは大半を眠って過ごしていたが、大きくなった今年は起きていられた。窓から外を見てもしばらく変わらない景色にあくびが出そうだった。
妹が生まれてからのこの1年、両親はアレクサンドラを色々なところへ連れて行ってくれた。すっかり挨拶も出来るレディになったからだとたくさん褒めてもらった。初めて目にする賑やかな世界と優しい大人がアレクサンドラは大好きだった。
それと比べてしまうと窓の外はとてもつまらなく色褪せて見えた。
「のどかでいい領地だろう」
そう答える父親の言葉に、アレクサンドラは唇を尖らせて返事の代わりにした。
屋敷に近づくうちに、畑が増え、腰をかがめて働いている領民たちが見える。馬車に気付いた彼らは礼をする。決して目は合わないけれど、誰もが好意的な雰囲気を示していた。
領民たちも王都の街中で見る平民とは違う。同じ平民でも王都の人たちはもっと小綺麗だった。
「お父様、みんな汚くて可哀相だわ」
農作業をするために畑にいるのだから汚れていても当然だが、初めて目にするアレクサンドラには理解できなかった。
「みんなにも綺麗にしてほしいわ。少しでもおしゃれな方がいいもの」
真面目な顔で言うと母親は娘の頭を撫でた。
「サーシャは優しいね。だけど平民には平民の暮らしがある。あれはあれでいいんだよ」
父親の言葉の意味を理解できず、両親を見比べても穏やかに笑うだけだった。視察に出て間近に見る領民は化粧っけもなく簡素なワンピース。ひげもぼさぼさでズボンも靴も泥だらけ。やはりみっともなく思え、アレクサンドラは視察の度に目につくものを王都と同じように立派にしたいと語り続けた。
ブルルと震えた馬の鼻息で、現実に引き戻される。あの時と同じ退屈な景色が流れる。アレクサンドラの正面に座る男も窓の景色を見ていた。この男の実家も結構な田舎のはずだ。多少の差はあれど、何もない田舎の景色をそんなに見て飽きないのかと呆れそうになる。
結婚式からすぐに、ベルネット家は領地へ戻ることにした。領民への夫のお披露目も、夫への領地の説明もある。気乗りはしないが、1人王都に残ったところで仕方がないアレクサンドラもこれに従った。
向かう先は憂鬱な田舎だ。本当にどこにも逃げられない田舎。何もない場所。アレクサンドラは誰にも気付かれないように小さくため息をついた。
父親は留守中に代理がまとめた領内の問題ごとを書き留めた書類を手早く捌き、そのうちのいくつかをアレクサンドラに回した。どれもあまり急がない些細な案件ばかり。まずはこれからという優しさだったが、アレクサンドラは些か不満だった。
領地に着いてようやく帳簿を見せてもらえたアレクサンドラだが、細かく見る前にすぐに取り上げられた。実際の帳簿管理はその類に長けている夫が行う。自分は父が行う領内の管理を継ぐのだから、そちらに専念する必要があるのはわかるが、いきなり帳簿を任された男に比べ、自分は随分と信用されていない気がしたのだ。机の上から離れられても父から与えられている課題をこなすだけでは、見習いではなくただの手伝いではないかと内心で憤慨した。
派手な動きで余計な噂が立たないようにお披露目会の形は取らず、一家は視察を兼ねて男と共に領内を回った。商会で平民と共に働いていた男は領民たちにもどこか気安い。領地を案内する1週間程度ですっかり顔を覚えられていた。
今時珍しい歳の差の婿が気に入られたのには様々な理由があった。一番の理由は相手がアレクサンドラだからである。本人は知らない事だが、領民たちはまだ幼い頃からここを良くすると繰り返していた領主の娘を好ましく思っていた。
それには母カルラの存在も大きく関わっている。カルラは嫁いできた頃からずっと、華美な服装で澄まして笑っているだけだった。領民と話すのはほんの2言3言。税金で着飾り、気取っている様子は一部の領民から嫌がられていた。当然伯爵家の誰も知りはしない。
だからこそ「もっと素敵なワンピースを着せてあげるわ」「あなたもお父様みたいな素敵な靴が履けるようにしてあげるわ」「この泥だらけの道を煉瓦で埋めるの。歩きやすくなるわ」、視察に来るたびに、そう言ってくれる領主の娘は、大層可愛らしく領地想いに思えた。それが叶えられなくても構わない。自分達を大事にしてくれる心優しい娘だと誰もが思っていた。アレクサンドラの頭の中の理由は全く別の角度だったが、娘の頭の中の理想など知りはしないからこそ、得られていた信頼だ。娘のわがままも、屋敷の中だけで領民は知らない。
そのアレクサンドラの選んだ相手だ。年上なのも理由があるはずだと気にならなかった。話してみれば平民にも親し気で落ち着いた男は好印象、皆がこの結婚を心から祝福した。
そんな事は知らないアレクサンドラは、男がすんなり受け入れられたこれが気に入らず、共に領地の視察に出る気にはなれない。結婚してまでそんなわがままは許されないが、悔しくも相手は『夫』だ。アレクサンドラは思いつく限りで『夫』をこき使う事にした。
「これ、見てきてちょうだい」
ひらりと1枚、父親から回された案件の紙を男に渡す。内容は領地の西側にある崖の工事の依頼だ。雨で崩れる恐れがあるので早めに切り崩すか補強をしたい、と綴られていた。工事には人出が必要になる上、補強には資材が、崩すには土砂を捨てる場所が必要だ。下手に崩せば崖下の農地も減ってしまう。
農地の持ち主は農地が減る事を承知しているが、領主としては取り分が減るのが痛い。とはいえ斜面が崩れてしまえば人命にも関わる。それは工事よりも大きな問題だ。
男は黙って目を通すと呆れた様子で紙を戻して寄越した。
「大事な案件だから君も行くべきだと思うが」
男に視察を言いつけるのは初めてではない。これまで適当な視察には黙って従った男の態度に苛立ちを感じる。
「そんな危ないところに私が?」
「ここ数日は晴れだ。崩れたりはしないだろう」
「嫌よ。もし崩れたらどうするの? 私が埋もれて死んだらどうするつもり?」
居丈高に告げると相手は諦めたように紙を引っ込めた。
手元の帳簿を片付け、何も言わずに部屋を出て行く。まっすぐな背中が忌々しかった。
視察から戻った男がアレクサンドラと父親を呼び出し報告を上げる。
「斜面はしっかりと土が詰まっています。木の根の入り方も心配はいらないかと。本人の希望は切り崩しですが農地が減ります。塀の設置は塀の強度が問題になります。今の段階で判断をするのは早いと思い、一先ず保留にしてもらいました。雨季までに別の対策が思いつけば……」
呑気なことを言っている間に不幸な事故があったらどうすると文句を言うと、黙っていた父親が頷く。
「分かった。調査ご苦労。土木関係者に塀の資材や土の利用方法を相談しよう。もし商会に使えそうな物があれば一覧にしてくれ」
男は小さく頭を下げ、そこを後にした。
父親はすぐに動き出す姿勢だが、その案はやはり時間を要するものだった。アレクサンドラは早急な斜面の切り崩しを提案するが父親はそれを拒否した。
「彼の言う通り、雨季にはまだ間がある。人を集めるにも時間はかかる。1週間のうちに対策を決めるつもりだ」
予算も組まねば、と父親は帳簿を持つ彼の元へ向かって行った。
それから4日程して明るい顔の男が視察から戻った。すぐに父親とアレクサンドラが呼ばれる。
例の土の使い道が見つかったというのだ。領内で雨季の様子を聞いて回ると、河川の土手に不安があるから増強工事をしたいと言われたらしい。既に男はそれに掛かる費用を試算していた。
「例の崖から切り崩した土をこちらに充てるのです。やや粘土の様な土ですので固めれば上手くいくかと思います。不安ならば雨季までの間に他の土を混ぜるテストも可能です」
これなら2つの問題が解決し、費用も少なくて済む。父親の顔は明るかった。
早速領民に話を通すと、今の時期に作物を育てていない家が協力してくれるという。他の工夫も男の紹介ですぐにきてくれる事になった。勿論、不足する道具はあの商会から融通される。
目に見えて父親は男を頼りにしていたが、これをきっかけに益々それがわかりやすくなった。案件を回すとき、必ずアレクサンドラと男を揃って呼び出すようになったのだ。表面上はアレクサンドラにも男にも平等に意見を求めるが、結果的にアレクサンドラより男の知識が採用される事が多く、妙に蔑ろにされている気がした。
今日は父親と男が揃って工事現場の視察に出ている。あの崖はもうすっかりなだらかな丘になり、土を移動した土手は完成間近だ。アレクサンドラは母親と共に居間でお茶をしながら、愚痴をこぼしていた。
「最近お父様が冷たいわ。この領地の事だというのに、あの男の意見ばかり聞くのよ。あの工事の件だって、私の意見も人の命を尊重したもので正しかったはずなのに」
「そうなのね。サーシャはいつもすぐに判断が出来て偉いわね」
「私が当主になるのだから、もう少し私を大事にしてくれないと困るわ」
実際アレクサンドラの意見も採用されており、彼女の意見はそれとして大事にされていた。ただ少しわかりづらい。アレクサンドラは自分が一番に感じられず、自分より世間に詳しい男の意見だけが優先される気がして悔しいのだ。
父親が彼の知識に感動し、それを仰ぎたい気持ちなのもわかった。だからこそ、自分の意見をもっと目に見える形で大事にしてほしい。任せてほしい。これではあの男が当主の様ではないかと不満が募る。
縁談からずっと父親は冷たい。今日の視察に行こうと声を掛けてくれたのも男だ。父親からは何も言われなかった。
結果が出ているそれを見る必要などなく、あの男の隣に並ぶのも嫌だったので断った。しかし領民に囲まれて感謝の言葉を述べられている男を想像するうち、段々と情けない気持ちがせり上がってくる。やはり行くべきだっただろうか。
気に入らないことに、男は領民からも評判がいい。屋敷にも男を褒める噂は届くが、先日侍女を伴って散歩に出歩いた際、領民から朗らかに告げられたのだ。
「お嬢様の旦那様は素敵な方で、私どもも嬉しく思っております」
「私たちの大事なお嬢様ですからね、意地悪な方だったらどうしようって皆で話しておりましたが、お嬢様がお選びになる方ですもの。素敵で当然ですね」
男を褒めちぎる領民もいた。取り繕って笑顔で礼を述べたが、自分に容易く追いついたような男が面白くなかった。
それを話しながらいつの間にか本格的に泣いていたアレクサンドラの前に、新しいお茶が用意された。泣きじゃくりながらも勧められたそれを口にする。
隣の母親は優しく髪を撫でてくれた。領地に下がってすぐ、帳簿は母親の手を離れてしまった。事実上、母親は引退しているも同然だ。きっと気持ちをわかってくれると思っていたアレクサンドラにかける言葉はただ優しいだけ。決して自分を否定しないそれがありがたい。
「……大丈夫よ、サーシャ。お父様もお前を愛しているわ。辛い時もお母様はお前の味方だから安心して」
薄緑色のそれは爽やかな香りで、次第に気持ちが穏やかになっていく。
「良い香り……」
「新しいハーブティーですって。ちょっと、あなた、瓶を」
男と父親に対する嫌な気持ちは晴れないものの、塞いだ気持ちはいくらかいい。
母親が使用人に言いつけてハーブティーの瓶を持ってこさせる。おしゃれな瓶にはハーブの種類と産地が示されていた。細かな字の中、生産地の欄に『ドレッセル』の文字を見つけて、体中の毛が逆立つ様な衝撃を受ける。奥歯がギリギリと音を上げ喉が塞がる。胸に迫るこの気持ちがなんという感情かわからない。
どうしていいかわからずに瓶を放り投げ泣き喚いた。