11.長い冬
顔合わせの日、私は多くの男性に美しいと褒められた笑顔で相手を拒否した。
「そのお歳までお1人でしたなら、私でなくてもいいのではなくて?」
父の選んだ男は想像よりももっとひどかった。見た目が悪いわけではないが、とにかく歳だ。友人達のようなはつらつとした若さの輝きはなく、くすんでいる。おまけに、夜会やお茶会で見る凛々しく華やかな年配の貴族たちと違い、正装しても冴えない。平民に混ざって働いているだけある人物だった。
平民の間では優秀と評判かも知れないが、貴族としては全くもって不合格。とにかく気に入らない。
おまけに父とこんな男の決めた条件は、私を蔑ろにしているものだった。
相手はこちらの事情を全て知っていた。デビュタント以来、あの火事の噂は街にも正しい形で広がっていたらしい。使用人たちは私が聞かないので、余計なことを言って機嫌を損ねないためにと誰も口にしなかっただけ。そして追い詰められた私の足元を見たように、ふざけた条件を突き付けてきた。
名前を聞いたが呼ぶ気にもならない。年齢も容姿も仕事もだが何よりもその条件が気に入らない。
仕事の都合上、結婚は1年後。正式に婚約を結んだ日からベルネットの家は男の勤め先の商会を通して買い物をする事。加えて許し難いのは、離縁時には功績次第で財産を寄越せというそれだった。
伯爵家の三男だが領地も財産もない。仕事で小金持ちになった程度のつまらない男。実家の伯爵家から取れなかったものを余所から分捕ろうとは図々しいにもほどがある。
父に怒りが、目の前の男には別の気持ちが湧き起こる。何故こんな男を相手にしなければならないのか。苛立ちを隠す気にもなれなかった。
場が凍り付く言葉にも男は動じない。
「私が申し込んだ縁談でもない。そうなさりたいなら構いませんよ」
男の冷静な声に父が慌てる。
「アレクサンドラ、お前の意思に関係なく、この婚約は決まりだ!」
「嫌です!」
ぐさりと刺してやろうと食い気味に声を上げると、男は気取った様子で口を開く。
「私はどちらでも構いませんよ。あなたには譲れない要望がおありなようですが、その9割はこの家で叶えられる。私も反対はしません。私自身が不満なようなら、私は大人しく下がりましょう。あなたはそれを叶えられる人を自力で探し出すか、叶えられる家に嫁げば宜しい。しかし、できないところで文句ばかり言ってどうなるのです?」
刺したはずのそれで傷を抉られた。
いつぞやの侯爵家の嫡男の言葉が苦々しさと共に蘇るが、それよりも目の前の男だ。言い返してやりたいが怒りで言葉が紡げない。
「ただ、これから何年間であなたに求婚する、あなたの条件を満たせる男性がいるとは思えません」
あまりの失礼な物言いに顔が歪むが、言い返せず、そして両親も俯いて黙ったまま。
「この縁談で私が得られるメリットは大きい。応えるために出来る限りの事をすると約束しましょう。だが年齢も見た目も家柄も、無理なものは無理だ。気に入らないのならばこれで話は終わりです」
望むところだと言い返すより前に父が慌ててこの場をまとめに掛かる。
嫌だ、と繰り返すも父は聞いていないふりをする。男に詫びながらどんどん話を進めてしまう。
母が私の手を取ってかぶりを振る。ああ、本当に私は売られてしまったのだ。こんな冴えない男に。この家と共に。それならば出来る限り早く離婚するしかない。白い結婚が続けば、離縁の理由には十分なはずだ。もしくは早々に恋人を作りそちらの子を身ごもり、離婚するか。なんにせよ、相手がこれだけ年上であれば理由は容易いはずだ。功績次第の財産分与だって、ほぼなしにできる。悔しい気持ちを押さえる歯ぎしりの音がぎりりと耳に響く。
「離婚は家の醜聞の元。これ以上の醜聞は避けたい我が家でして……離縁は婚姻の保証者である私の許可を必要としますが、構いませんね」
頼りない父の声にばっと顔を向けると、相手は涼しい顔で頷いていた。父は勝手に私の代わりにベルネット家の意志として話を進めている。もう我慢の限界だった。
「絶対に嫌よ!」
男は大声で父と自分を詰りながら金切声を上げる私を、ただ冷たい目で見ていた。
それでも私と男の婚約は決まった。
それからは本当に忌々しい事尽くしだった。
悔しい。悔しい。悔しい。
奥歯が割れそうなほど歯ぎしりしても『私の日常』は帰ってこなかった。
こんな事になったのは全部妹のせいだ。父のせいだ。侯爵家のせいだ。母のせいだ。
私を大事にしてくれない奴らなんか大嫌いだ。
自慢する相手がいなくて自尊心が満たされない。比べる相手がいなくて肯定感が満たされない。つまらない。甘やかしてくれる人がいなくて喜べない。私が幸せではない結婚など嬉しくない。
どんなに泣いても叫んでも1年後が近付いてきてしまう。拒否するために嘘でもいいから恋人を仕立てようにも私の社交は絶望的。
私の婚約を報告する手紙を両親が出した。付き合いのある貴族にも、付き合いのあった貴族にも、私の友人にも。送られてくる祝福の返事には男を褒める言葉と精一杯の私への賛辞が並んでいた。連なる名に癇癪を起こし、次々に破り捨てる私を見かねた両親に連れられ、社交シーズンの終わりと同時に田舎へ戻ることになった。
この時代、領地の管理はその領主により大きな差があった。領主は領地に住む民から税を取り、そのうちのいくばくか定められた額を国に納める。その残りで領地管理と自分の生活を賄う。民の困窮を避けるために税率は範囲が定められているが、貴族によっては他に特別税や寄付という名目で金品や物資の取り立てを行っているところもある。特に領主の結婚式などの祝い事の時にはそれが多い。逆に祝い事により民に労いを施す主もいる。
ベルネット領は主も税も、特に可もなく不可もなく、普通の管理だ。これといった特産があるわけでもなく、至って平凡な領地には多くを望めない。領主と領民の関係も決して悪いものではない。どちらかといえばと良い方だ。
穏やかに治められている領地は平和そのもの。王都の噂もここには届いていなかった。安心して胸を撫で下ろしたのも束の間、領民たちから婚約の祝いが届けられる。
私と領民たちの関係は良好だった。幼い頃、両親と視察に回った時、誰もが母に似た美人な娘だと褒めてくれた。大きくなってから視察の回数は減ったものの馬車が通れば作業の手を止めて必ず礼をしてくれる。帰ると知れば、馬車が穏やかに走れるように田舎のあぜ道に転がる石をどけてくれたりする。取り柄のない領地の、地味な領民たちだけれど、優しい人たちなのだ。
両親の言葉の通り、ここに居る限り私は平穏でいられるだろう。あんな祝いの手紙に苛々する日々もなく。
そう思ったのに今度は領民たちから祝いが贈られてくる。忌々しい婚約の祝いの品など、見たくもない。
それでもこの祝いを断り、癇癪を爆発させるわけにはいかない。貴族たちと違いこの人たちは本当に祝いの気持ちで贈ってくれているのだから。少ないお金を贈る家、畑で採れたものを贈る家。祝い税など取ってもいないのに贈ってくれるそれを蔑ろには出来ない。
使用人に言いつけ、それを私の目に触れさせないようにした。面と向かって祝いの言葉を言われたら我慢できないと思った私は家にこもった。馬車で外を走るのも嫌だった。
当主教育という言い訳は便利で、とにかく平和に1年は過ぎていった。人生で一番虚しかった1年だった。
この年の社交シーズンには噂は収まっていたが、誘いはまだ少なかった。虚しい秋が過ぎ、結婚式は私の希望通り、王都で行われた。社交シーズンの終わりのため多くの友人が出席してくれた。夫側の実家からは誰も来ず、商会の人間もほとんどが平民のために、祝いの品と言葉が届けられただけだ。
久々の友人たちの目に浮かぶ光はそれぞれだった。心から祝ってくれる者、心配してくれる者、愉快そうに惨めな私を笑いに来た者。そんな人たちに私が語った理想とかけ離れた夫を見せるのが癪で仕方なかったので、夫となった男には早々に引っ込んでもらった。幸い相手も目立つのが好きではない性質だ。大人しく従ってくれた。
式自体は傍目にはとても豪勢だった。それでも私は惨めだった。結婚生活の幸せを祈るその笑顔の仮面の奥に誰もがあの噂をちらつかせていた。豪華なドレスも、美味しい料理も、褒めてくれる言葉も何もかもが虚しくて仕方がない。
侍女に言いつけ、結婚初夜だというのにいつも通りの寝間着を着せてもらう。あんな男のために美しく着飾るのはプライドが許さなかった。夫婦の寝室で歯ぎしりをしながら待っていると、男は部屋の入り口で中に入りもせず小さく息を吐いた。
どういうつもりかと眉を顰めると、相手は澄ました顔で告げる。
「責務を果たせと言うなら話は別だが、あなたが私を望まないように、私はあなたを望まない。私はこの家の跡継ぎが養子でも構わないからだ」
堂々と白い結婚を宣言する男に、怒りが沸き起こるが、自分の姿が相手の言葉を証明しているのも事実。咄嗟には何も言い返せずに唇を噛む。男の思い通りになるのは嫌だったが、こうして自分が拒否されるのはプライドが許さなかった。
「私だって……! あなたなんか望まないわ! 若くて美しい妻と財産を手に入れたつもりかもしれないけれど、あなたのような貴族らしくない、みすぼらしい中年に触られる程、落ちぶれていないわ!」
思い付く限りで貴族崩れだ平民もどきだと男を詰るも、相手は冷ややかな視線で私をみているだけだった。私の言葉の切れ目で挟まれた声もやはり冷静。
「1年、あなたのために時間を設けたつもりだが、あなたは1年経っても何も変わらない。夜会に出る時の外面に何か期待した訳ではないが、伯爵家の当主になるならもう少し大人になるべきだ」
怒りに任せて手元の枕を投げた。今まで誰にも、自分の貴族としての在り方を責められたことなどない。それがどうしてこんな他人に、それも当主教育も受けてこなかった貧乏人に、そんな事を言われる筋合いはない。1年というのは自分の仕事の都合だと言っただろうに。
投げた枕は届かず、ドアは人影を残さずに静かに閉められた。手元に残った枕を力の限り引っ張り、ベッドの枠に何度も叩きつけた。甲高い音と同時に中身の羽毛が飛び散っても、腹の虫は収まらなかった。
人生でたった1日の最高の日になるはずだった今日はどこまでも最低だった。
翌朝、目を覚ますと手が痛かった。力の限り枕を握りしめたからか、赤く跡が残っている。冷やすものをもらおうと起き上がるとベッドの脇に男が腰かけていた。
妙に情けなくなった。あんな夜もこんな朝も許せない。
「どうしてうまくいかないの? 私はただ幸せになりたかっただけなのに」
唇から洩れた言葉と同時に涙が流れる。私の望みはそんなに贅沢ではなかったはずだ。ただ、普通に結婚して普通に幸せになりたかっただけで、本物の王子様を望んだわけでもない。一体どうしてこんな事になってしまったのか、夢なら冷めてほしい。
男は黙ってベッドの上にハンカチを1枚置いた。
「あなたの幸せがそこにしかないと言うなら、それを逃したのが他ならない自分である事をいい加減反省するべきだ」
慰めの一言もない男に残っていた枕を投げつける。今回はさすがに命中したが、手の痛みで然程の勢いはなかったのか、男はそれを受け止めると黙ってベッドに戻した。
どんなに泣いても、輝かしい伯爵令嬢だった自分には戻れないのだと、手の痛みが告げていた。