Humoreske
六月の頭から三ヶ月間出向に出ることになり、やっと一ヵ月経過した六月末。
いつもなら徒歩三十分で通っていた職場もバスで十五分、徒歩で三十分の距離となった上、日本の大多数の地域でこの時期は梅雨の真っ只中。
当然、ここも例外ではなく毎朝四苦八苦して通勤している。
朝子が毎朝乗るバスは地下街から出てすぐの場所に停留があるのだが、その地下街の出入り口は多くの人を出入りさせるために数メートルもの幅を取ってあり、少々強めの雨が降ると階段から雨水が流れて込んでくるので深い水溜りになってしまう。
レインブーツでもあれば、パンプスに水が入るのを防げるのだが生憎と朝子が履いているのはレインブーツではなく、ただのパンプス。
まぁ、レインシューズ程度ではあの水は越せないので買うとしたらレインブーツでないと意味はないのだが。
梅雨の季節も一ヵ月のことなので毎日「我慢、がまん」と言い聞かせているのだ。
そんな今日も、雨。
傘を畳んで乗り込むと、いつもと代わり映えのない風景。
バスの乗客は一ヵ月も見ると自然と覚えるものである。朝子は毎朝同じバスに乗るので、大体座る場所も決まっている。
これが電車になると多少は変わるのだろうが、バスのような小さい……しかも、朝子が乗る路線はここが始発停留所のため毎朝十人程度がせいぜいくらいの、バス会社にとっては少々採算が合わない気もする路線だ。
それが、今日はいつも朝子の定位置になっている前から二番目の一人掛けに先客がいた。
仕方がないので、大体毎朝空席になっている席へ腰掛ける。
ついでなのでその先客を少々見学させていただこうか。
背は……座ってるからはっきりとは分からない。けど、見た感じ大きそう。百七十センチくらいはあるかな。
髪は短めで、手は忙しくスマートフォンを動かしている。
スーツ着てるから、きっとサラリーマン。多分雰囲気からすると二十代後半かな?
無遠慮にじろじろ眺めていると、当の本人が何気なくこちらを見た。
おっとやばい。目が合っちゃったじゃん。
でも顔はそこそこかっこよかった。うん、目の保養になりました。
目が合ったにも関わらず観察を続けるわけにもいかないので朝子も鞄からスマートフォンを取り出しメールをチェックする。
おっと。そろそろ降りないと。
ブザーを鳴らすと件の彼も同時に立ち上がった。あら、同じ停留なのね。
彼の方が先に料金を支払い、バスの短いタラップを踏んで歩道に下りようと傘を開いたちょうどその時。
「あ」
──彼の傘は穴が開いてしまっていた。
どうやら骨が折れて引っかかって破れてしまったらしい。
うっかり笑ったのが聞こえてしまったらしく、あたしが料金を払って降りたところで彼ともう一度目が合った。
さすがにバツが悪いので、「同じ方向なら、途中まで一緒にいかがです?」と誘ってみると、「え、いいんですか?」と困ったように笑って何の抵抗もなくするりと朝子の傘に入ってきた。そしてさりげなく傘の枝は彼の手におさまった。
五分歩いても彼は別の方向に行く気配がなく、そろそろ朝子は職場に着いてしまう、と思っていたところで「ありがとうございました、ここなんです。おかげさまで濡れずにすみました」と言い出すので驚いた。
彼が目的地だと言ったその場所こそ朝子の現在の勤務先である。
「本日付でこちらに配属になりました、多田幸仁です」
と、朝礼で彼が自己紹介をしていた。なんと職場の上司である。世間って狭い。
「あ!」
お昼時に大きい声を出すので何事かと多田さんの方を見ると、悲痛な顔をしてお弁当箱を見ていた。うん?どうした。
朝から通算三度ともなるが、またも目が合ってしまった。すると世にも情けない顔をしているのでしょうがなく「どうしました?」と声をかけたらボソッと「箸、忘れました……」と返って来た。
朝といい、お前は天然か!ドジっ子か!
はい、どうぞ。と多少呆れつつ机の引き出しに数本置いてある割り箸を提供してやれやれと席に着く。
するとほにゃ、と気が抜けるような笑顔でお礼を言われた。うん、顔だけなら好みなのよね。
多田主任の歓迎会とのことで、その日は職場の皆で飲みに行くことになった。
とはいえ、あたしは外注なので遠慮しようかと思っいていたら多田さん本人から「ぜひ」と言われたので参加することになった。
すると、多田はここでも残念っぷりを発揮したのである。
「三上さーん、今日はねぇ、僕はついてるんですよぉ」
「なんですか。ていうか、多田さん。帰れます?もう呂律怪しいんですけど」
酒豪が多いこのチームは多田のようにビール二杯でつぶれてしまうタイプは大層珍しく、他のメンバーは多田の家の方向が朝子と同じと分かるとさっさと次の店に行ってしまっていた。おい、あたしはここの社員じゃないんだぞ?
明日からも顔を合わせる上司なので捨てて帰るわけにも行かず、しょうがないのでとりあえずタクシーに乗せる。
「多田さん、ここが最寄のバス停ならお住まいはお近くなんですよね?」
バス停付近まで来た時、このまま家の前で降ろしたほうが都合が良いかもと一応聞いてみる。
すると「うん、そこ左ぃ」と返答があったので、運転手さんにそう伝えてため息をつく。
やれやれ。やっぱり参加しなきゃ良かったかな。
多田が指示したマンションは、朝子のマンションの隣。
ここまで近所だと若干薄気味悪いが、まぁ偶然とは恐ろしいなということで納得する。
鍵を出すのすら怪しい多田をなんとか部屋に押し込めたら、お茶を飲んでいけとうるさいのでため息をつきながら上がらせてもらった。
一応、普通の女性らしく普段は初対面の男性の住まいになど上がりこまないのだが、まぁ相手はよっぱらいだし。隣のマンションならすぐに帰れるし、正直もう疲れたし。
茶を飲めといいながらも全然役に立ちそうにない新しい上司の代わりに勝手にお茶を入れて飲む。はぁ、うまい。
あったかいお茶を飲んでいるうちに、多田も段々酒が抜けてきたらしく「あれ?」と目を白黒させていた。
「あ、あのー……すみません。ご迷惑、でしたよね……」
あぁ迷惑だとも。でも、あなたの顔は心底好みなんです。中身は残念すぎるけど。勝手に鑑賞するから、こっちに構うな!
すでに遠慮の欠片もなくじろじろ見ていると、さすがに多田も居心地が悪いらしくうつむいてしまった。
「あの……僕の顔に何か……」
「主任は口さえ開かなければかっこいいですからね」と、すでに取り繕う気もまったくないあたしはスッパリと本音をぶちまけた。明日からの仕事?知るか!どうせ再来月には引き揚げだ。
「はぁ……あの、三上さんは、僕の顔がお好みなんですか……?」
「えぇ、そうですね。顔だけなら」
と、ここでもスッパリと答える。途端にしゅん、とする推定二十八歳。
顔以外でいいとこなんか初対面で分かるわけがないでしょ。しかも、朝からどんだけ残念っぷりを発揮してると。
「はぁ、それは良かったです……」
答えて、多田は目線を下げた。まぁ、反応に困るわな。
しょうがないのでこっちから新しい話題を提供する。
「多田主任はどちらの職場からいらしたんですか?」
朝に聞いた気もするが、まぁだって他に聞きたいこともないし。
「えぇと……今までは本社にいたんです。先月辞令が出て、一昨日引っ越してきました」
あぁどうりで。
そこかしこにダンボールが積まれている。多分、引越しが間に合わなかったんだろうな。
「本社っていうと、どちらになるんでしたっけ?」
「あ、東京です。でも、地元はこっちなので良かったです」
「あぁそうなんですか?じゃあ、ご実家はお近くなんですか?」
「いえ、実家はちょっと奥になるんです。なので、こちらで一人暮らしをと」
「そうなんですか」
あぁ、話が途切れてしまった。でも特にもう話題もないしな。帰ろうかな。
「あの、」
あれ?まだ話あったの?
「はい?」
「三上さんは、おうち遠いんですか?もう遅いですし、送ります」
「いえ、近所なので大丈夫ですよ。長居してしまいましたね、すみませんでした」
「とんでもない。僕がお引止めしてしまったんですから」
あたしは送るという多田の申し出を丁重にお断りして、隣のマンションへ帰った。
「多田さん、今日のミーティングの件ですけど」
部下の報告に相槌を打ちながら、的確なアドバイスをしている多田を何気なく見る。
驚いたことに多田の残念っぷりは仕事では発揮されないらしく、案外有能だったようだ。
多田が着任してすでにそろそろ二ヶ月が経過しているが、何事もなく平穏に進捗も上がっている。
そして、今日は仕事の納期で就業後に軽く打ち上げをすることになっていた。
納期日の仕事なんてあまり大した作業は残っておらず、五時にはすっかり片付いていた。
他のメンバーも同様らしく、定時の六時には全員でお店に向かった。
案の定ビール二杯でつぶれた上司を送る役目を仰せつかり、朝子はまた多田の家へと向かった。
鍵は自力で出せたが、玄関から動けなさそうな多田を置いて勝手知ったるでとっとと家へ上がらせてもらい、またもや勝手にお茶を入れて玄関の多田に差し出す。
へろっとお礼を言いながら湯飲みを持つ多田の顔をまじまじと見る。
はー、ほんっとに宝の持ち腐れとはこのことね。
「三上さんはー、ほんとうに僕の顔がお好みなんですねぇ」
と、怪しい呂律で多田が笑う。
悪いか。いい男は見てなんぼでしょ?
「顔だけでも気に入ってるなら、おれと付き合わない?」
は?
本気?それとも、よっぱらいの戯言?それに……おれ?
とか考えてたら手首を捕まれた。んん?顔、近いよ!
と、思ったらキスされていた。お前……まだ、あたしは返事してないだろ。
「実は、今日はさほど酔ってないんだ」
とニヤリとして多田が言う。あら?なんか性格いつもと違わない?
そう告げると「人畜無害な性格は営業用でこっちが本性」としれっと答えた。
ついでに、お酒に弱いわけじゃなくて前回引越しだのなんだので疲れが溜まってたから回りが早かっただけらしい。
え、ドジっ子も演技なの?あれは作って出来るもんじゃないだろう。
とは思ったが、よく考えたらドジってたのは初日の傘と箸とお酒だけだったっけ。
イメージとは恐ろしいものだ。傘は不可抗力だし、箸は引越しのドサクサで忘れてしまっただけだろう。
うーん、そう思えば顔と性格も結構一致するな。
ばらしたということは、性格込みで付き合いを考えろってことか。
「そっちの性格なら、いいですよ」
あたしも相当腹黒いので。これならおあいこでしょ?
顔は好みなんだしね。
かくして、朝子は派遣の終了と同時に彼氏も手に入れたのだった。
「お前、よくも黙ってたな……」
今日初めて幸仁をうちに呼んだのだ。
車を出そうかと言っていたのを断って、迎えに行くからと幸仁のマンションの前で待ち合わせた。
そして現れた幸仁を連れて隣のマンションへ移動したのだ。
「だって、聞かれなかったじゃない?」
しれっと笑ってコーヒーを出す。
まだぶつぶつ言っている幸仁に軽いキスをして黙らせた。