雨音はささやくように
鈍色の空から銀の糸のような雨が降る。
窓を叩く密やかな音はささやきに似て、記憶を呼び寄せる。
五感を伴って蘇る記憶は、大抵涙の気配を含んでいる。
だから私は雨が嫌いだ。
思い出したくない、封じた痛みや苦しみを連れて来るから、取り分けささやくような静かな雨の日が嫌いだ。
押し寄せて来る記憶と感情に、私は無力に立ち竦むしかない。
誰にも見えず、触れられもしないこれが、私はたまらなく憂鬱で嫌いだ。
絡みつく水の中に落とされたように、指先から冷え切っていく。
体が強張って動けなくなる。
その幻は、私を息が出来ないほど真っ暗な闇に捕らえる冷ややかな鎖だ。
「どうした」
柔らかな声が頭上から降って来る。
それは私の呪縛を解く確かな手触りと熱量を伴って存在するから、私はその存在に涙する。
何もかも、いつか失う日が来るとしても今のこの時だけはこの感情に溺れても良いだろうか。
時が来れば全てを過去にして、与えられた義務の為に私の全てを捧げるから。
例えそれが幸福も命も、未来も心も、何ひとつこの掌に残らない選択だとしても、その道を行かなければならないなら私はせめてその道を踏み外さずに歩ききってみせる。
「……エイモス様」
いつかその時が来たら、私は。
私はきっと、あなたと私の心と幸福と未来と、全てを切り裂いて偽りのヴェールを纏い、契約の花嫁になる。
私は、その為に生まれ落ち、生かされ、育てられたのだから。
あなたも私も、この義務から逃れることなど出来ない。
王侯貴族とは、それこそが正しい姿。
贄となる為に民に生かされた存在なのだから。
だからそれまでは、夢を見ても良いですか。
私はいずれ、唯ひとつ守り続けることを許された誇りを胸に死ぬのだから。
「お前の悲しみを、全て拭えたら良いのに」
「そのお言葉だけで十分ですわ」
私は定められた運命の残り時間を思いながら、目を閉じる。
初めて未来を垣間見た時は、その力に胸を躍らせた。
でも今は、願わくば誰もこの力を継ぐ者がいないようにと願う。
避けられない災いなど、知らぬ方が幸せなのだ。
終わりを指折り数えなくて済むことが、私はとても羨ましい。
頰を辿る手の感触に、更に溢れて零れる涙を拭い取っていく指先に意識を凝らす。
もう2度と来ない時間が、この手から零れ落ちていく。
その感触に、震えそうになる。
時間を止められるなら、何をしても止めたいと叫ぶ自分を心の奥底に閉じ込めて、私は微笑んだ。
だから私は、雨が嫌い。
そして。
「わたくしは貴方様を、お慕い申し上げております」
例え運命に全てを切り裂かれるとしても、2度と口にすることのない想いだとしても。
いずれこの言葉が、互いの心に消えない爪痕を刻むとしても。
今だけは、この我儘を許して。
全てを知りながら隠す私を、どうか許して。
「お前は私の前では、本当に泣き虫だな」
言葉とは裏腹に嬉しそうに微笑むあなたの存在が、私の心を抉る。
私はきっと、この痛みを忘れない。
「だって、幸せなんですもの」
狡い私は、そうしてあなたと過ごす最後の時間に、何も知らないあなたに甘やかされながらそっと涙した。