第三話 黄金の稲穂
エァルタ平民街にある蛍火通りは、宿屋や酒場といった逗留客が利用する店の建ち並ぶ。
その性質上、夜遅くまで街灯やランタンの明かりが灯っており、それが蛍の光のように見えることからその名前が付いた、らしい。
僕は、そんな蛍火通りの一角にある黄金の稲穂という宿で寝泊まりしていた。
「ただいまです」
「お、帰ってきたね」
軋む木戸を押し開けると、威勢のいい声が出迎えてくれる。
黄金の稲穂を一人で切り盛りする、女将さんのサラさんだ。
懐の深い、親切な人で、初めてのエァルタで途方に暮れていた僕に声を掛けてくれた。
僕と同じく異国を受け継いでいるのか、その長い髪はしっとりと艶やかな黒色だ。
「今日はどうだった?」
「えへへ、実は今日は就職先が決まったんです」
「やったじゃないの!」
僕の就職を、サラさんは我が事のように喜んでくれる。
「それじゃあ、今日はお祝いしないとね。今から夕飯作るからちょっと待っててね」
「わ、ありがとうございます」
サラさんは弾むような足取りで奥にある厨房へと入っていった。
僕も、荷物を置くため二階にある自分の部屋に向かう。
黄金の稲穂は典型的な酒場と宿屋が一体になった建物だ。
一階が酒場になっていて、二階に宿屋の小部屋がたくさん並んでいる。
お金がない上、長期滞在する僕は、一番隅っこにある小部屋を貸して貰っていた。
荷物を置いて、一階の酒場に戻る。
カウンターでは、すでに数人のおじさんがちびちびとお酒を呑んでいた。
「エル坊、やっと就職決まったのか」
声を掛けてきたのは、店の常連客のおじさんだった。
いつもお酒を呑みながらハムとチーズを食べている人だ。
出会う機会も多くていつの間にか顔見知りになっていたけど、実は名前はまだ知らない。
「はい。観光ギルドに勤めることになりました」
「……あー、観光ギルドか」
歯切れの悪いおじさんの言葉に、僕は首をかしげる。
「有名なギルドなんですか?」
「まあ、有名っちゃ有名、だな……」
ジョッキを傾け、ハムを囓ると、おじさんは視線を外した。
「も、もしかしてすごく厳しいとか……」
「いや、それはねぇよ。むしろ良すぎるというか、なんというか……」
どうやら言葉に迷っているらしい。
おじさんはお酒を呑みつつ難しい顔になった。
「まあ、なんだ。どんなところだろうと頑張ればいいんだ。あそこは仮にも王立ギルドだからな、悪いことはしてないさ」
「はあ……。まあ、明日から頑張って働きますよ!」
「ふふ、エルもようやく勤め人になったんだねぇ」
僕の目の前に、そんな言葉とともにプレートが置かれた。
そこに悠然と鎮座ましましているのは、分厚いお肉だ。
驚いて顔を向けると、白い歯を見せて笑うサラさんがいた。
「今日は特別さ。秘蔵の角牛のステーキだよ」
「うわあああ! いいんですか!?」
角牛。
リット王国の南にある小さな地方でしか育てられない、立派な一本角を持つ牛だ。
少し魔獣に近い獣で、その肉はほどよく脂の乗った濃厚な味が特徴。
そもそもの生産数が少ないこともあって、目玉が飛び出るような価格の付くまごうことなき高級肉だ。
「おうおう、エル坊だけいいもん食ってるじゃねーか」
「あんたはいっつもハムとチーズとミードしか頼まないじゃないか」
「そりゃあ、俺はこの店ではこれしか食わねえって決めてるからな」
サラさんとおじさんの応酬を横目に、僕はナイフとフォークを握って分厚いステーキを注視していた。
こんなに大きくて立派なお肉は、そうそう食べられるものじゃない。
父さんはウサギやシカみたいな獣が専門の猟師だったからね。
「いっ、いただきますっ!」
大きく切り分けて、かぶりつく。
じゅわりと濃い肉汁がカリッと焼けた肉の中からあふれ出す。
それは甘さすら感じる。
「おいしい!」
「でしょう? 丁寧に熟成させてたから、今が一番の食べ時よ」
料理上手でも有名なサラさんは、腰に手を当て自慢げに頬を緩める。
「熱っ!」
「ふふ、ゆっくり食べなよ」
付け合わせに添えられているのは、蒸かした芋とコーン。
食べると角牛の濃厚な脂と調和して、奥の深い味を創り上げる。
がっつりと殴り込む圧倒的な質感の牛肉は、いつまでも楽しめる。
共に出されるスライスした堅パンをプレートの肉汁に浸す。
ざっくりたした食感と牛の旨味が絶妙に合致していた。
「女将さん、俺らにもアレはでないのか?」
辛抱たまらなくなったのか、遠目から見ていた他のお客さんから声がかかる。
「すまないね。角牛はこれっきりだよ」
「そ、そんなぁ」
「大の男が情けない声だすもんじゃないよ、まったく」
呆れたように言いながら、サラさんは厨房に戻る。
そうして、一枚のプレートを持ってやってきた。
「角牛はないけど、両尾牛のサイコロステーキならあるよ」
「やった! さっすが女将さんだよ!」
両尾牛は、広い地域で育てられている比較的ポピュラーな牛だ。
名前の通り二本の尻尾を持っている。
引き締まった筋肉の、がっしりとした牛で、赤身がおいしいことで有名だ。
サイコロ状に切られたステーキを、その人は早速頬張る。
一気に食欲を満たされたのか、満面の笑みを浮かべていた。
「あれ?」
気がつくと、もうプレートの上は空だった。
一瞬で食べきってしまった。
「さすが、エルは若いだけあって気持ちよく食べてくれるね」
ポタージュを出しながら、サラさんが感心したように言う。
「こんなに食べたのは久しぶりですよ」
「明日からは仕事も頑張って、いっぱい稼いでいっぱい食べるんだよ」
「はい!」
黄金の稲穂の看板メニューでもあるこのポタージュは、具材をサラさん以外誰も知らない。
数え切れないほど多くの具材を熔けるまでぐつぐつと煮込んだものだ。
正式な名前もなくて、みんな好きなように呼んでいる。
単純にポタージュとか、ごった煮スープとか、ごちゃ鍋とか。
その味は複雑怪奇。無数の食材が織りなす緻密で大胆で、奥深い味を言い表すことのできた人はいない。
「しかし、観光ギルドか……」
ジョッキを傾けて、おじさんがぽつりとこぼす。
やっぱり観光ギルドってなにか曰くがあるんだろうか。
少し不安になって顔を上げると、頬杖をついたサラさんと目が合った。
「ふふっ、心配しなくていいよ」
「サラさんも観光ギルドは知ってるんですか」
「まあ、王都に住んでる人は大体知ってると思うよ。最近できたギルドなんだ」
「そうだったんですか」
その説明を聞いて、納得した。
ギルドの調度品や内装が真新しかったのは、時間も関係していたようだ。
「まあ、不安だろうがなんだろうが、明日行けば大体わかるさ」
そんな言葉を吐き出して、おじさんはジョッキを呷ると代金を置いてふらふらと店を出て行った。
「よし、僕も今日は早めに寝ますね」
「うん。そうするといいよ」
一抹の不安がよぎるが、明日は初出勤の日だ。
遅刻なんて絶対にできない。
僕はサラさんにステーキのお礼を言って、二階へと続く階段を駆け上った。