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歴めろ。 ~君のそばにいたいから~

作者: 武田 信頼



            


 10月に入ったばかりだというのに、未だ残暑を引きずる校庭から、運動部の意気盛んな掛け声が聞こえる。

 窓を全開に開け、冬服のブレザーも脱ぎ、シャツの袖を捲り、喧々囂々と議論に白熱している俺たちは、きっと外の運動部より熱気を帯びているのかもしれない。

 いや、熱気というか、殺気すらも感じる目の前の幼馴染、双月灼ふたつき あきらは「ありえないッ」を連発しながら持論を展開していた。


 対して、俺は努めて冷静に反論する。


 「信長公記しんちょうこうきにあるように設楽原したらがはらの合戦における勝敗は鉄砲だ。敵の攻勢を削ぐには有効だからな」

 それを聞いたあきらは闘気をむき出し、喧伝してきた。

 「馬の機動力は伊達じゃないわッ! 火縄銃なんかで間に合うわけないじゃんッ!!」

 正面から吹き付けられる熱風を少しでも和らげようと、俺は風通しの良い窓際に移動する。ついでに横目で、小高い丘にある校舎から見える街に視線を移した。


 ここは、千葉県立東葛山高校。

 人口約42万人の葛山市にあり、東京都学区圏外のなかでは、都内に通えない秀才……あるいは奇才が集まる有名な学校である。一時期、東京大学に現役入学する「気になる高校」ベスト10にランキングされたほどだ。

 ……まあ、秀才はともかく、奇才と凡才の集まりだってことは認めるぜ。ちなみに俺は凡才だ。

ともあれ、来月に開催される文化祭のダシモノについて、我が歴史研究部で議案を出し合っていた最中に起きた椿事ちんじである。


 「……三段撃ちとか、言われてるけど、そんな効力はない。あんただって知ってるでしょ? 実験考古の結果がどうなったかを」


 あきらの追求に、俺は流石に憮然とした面持ちを見せた。

 

 ……たしか、鉄砲も馬防柵も意味がないくらい、騎馬軍団が圧倒的な力を見せてたよな。

しかし、何処か釈然としない気持ちも確かにあった。だからあえて言う。


 「こっちだって、文献を考察したうえで言ってるんだ」

確固たる意志で俺は灼を見る。しかし、うろたえる様子もひるむ様子もなく、あっけないほどに跳ね返された。

 

 「ありえないッ!!」

 そして、少しカールの入ったツインテールを振り、強い意志がこもった大きな栗色の瞳を輝かしながら俺を睨むように正面から見据える。

 

 「あんた、一体何年、あたしと歴史見てきたの? ずぇーたい、ありえないっ!」


 何かにつけ『ありえない』を連呼する少女。

俺はこめかみの痙攣を自覚しつつ、思わず嘆息した。

 

 実際、コイツこと……双月灼ふたつきあきらとは俺、谷平良たにたいらと幼馴染であり、仲が良い……と言ってもいいだろうほどには付き合いがあった。

もともと両親共々が高校時代の同級生とかで、旧知だったせいもあるが、ことあるごとに一緒にされた。

 まあ、俺もあきらも一人っ子であるから、親たちは兄妹のように扱っていたのかも知れない。同じ絵本に感化され、同じ食べ物が好物になり、同じ時間を過ごしてきた。

 

 そして今も忘れない、あれは小学三年の時だった。


 市立博物館で催された『古代の歴史』展に、親の気まぐれから俺たち二人は連れて行かれた。

その時俺たちは、まぎれもなく過去・現在、やがて未来へと繋がっていく時代の変遷に、今まで感じたことのない興奮を肌で感じていた。その未経験な電撃が、俺たちをいつの間にか『歴史』の世界へと魅了させてしまったのだろう。

 

 ……だが、同じものを感じ、見ていたはずの俺たちに初めて断層とでもいうべき、価値観が生じた。


 つまり、だ。


 気が付けば、古文書を貪る強烈な文献学マニアの俺と。

 遺物・遺産を探求する鮮烈な考古学マニアのあきらが出来上がっていたのだった。


 結果……。


 文献学と考古学が過去の考証に対して、論争を繰り返す毎日に至ってしまったのだ。


 正直に言おう……。

 俺はもうこんな生活に辟易しているのだ。



   ◇ ◆ ◇



  「……ってゆーか、お前ら。文化祭の内容が長篠ながしのの合戦になった途端、いきなり論争始めないでくれよ」


 我が歴史研究部の部長である戸部健太郎とべけんたろうが、メガネのブリッジを押し上げ、俺たちの不毛な論争に水を差した。

 

 「迷惑千万……」


 部長の横に座っている『四字熟語』こと五十嵐菜摘いがらしなつみがいう。二人とも三年生であり、先輩だ。

 ちなみに、なぜ『四字熟語』と呼ばれているかというと、何故かいつも漢字四文字の内容で発言する。もともと言葉少なめの彼女ではあるのだが。しかし、問題はそこではなかった。


 「部長! 長篠ながしのの合戦と言わないでくれっ! あれは設楽原したらがはらだ!!」

 「部長! 長篠城攻めと設楽原したらがはらの合戦は別です!!」


 俺と灼が、ほぼ同時に指摘する。俺たちは思わず視線を合わせた。大きい栗色の瞳を半目にして、肩にかかったツインテールを大柄おおへいにふり払いながら、鼻を鳴らす。


 「ふんッ! マネしないでくれる?」

 その、上から目線の態度に、俺はいささか苛立ちを覚えつつも、的確な反論が思いつかず、


 「マネしてねぇ!!」


 と、抗議する俺。その様子を見かねた部長は腕組みをして嘆息する。


 「お前ら、文化祭の打ち合わせする気ないだろ?」

 「隠忍自重いんにんじちょう……」


 しばらく、部長と『四字熟語』をよそに論争が続いた。

やがて、全開に開いた窓から少し肌寒い風が入り込み、紅い西の空が薄暗闇始めた頃、ノートパソコンを閉じた部長が、突然おれ達の論争に割り込んできた。


 「よしッ! だったら、長篠ながしのの合戦を再現してみよう!!」


俺とあきらは、からくり人形のように、いびつな動きで首を回し、部長を凝視する。『四字熟語』は、ほんの一瞬、馴染んだ人ですら、なかなか気づかないくらいに細い眉を上げた。 


 「い、いいじゃんッ! これで、アンタと白黒付けれるってもんよ」


部長はとんでもないことを言ってくれた。しかも、火のついたあきらに油を注いで。


 「梟廬一擲きょうろいってき。ふふ、面白いことを言う」


『四字熟語』先輩?

今、笑った……!?


 「再現って……実験考古するってことか!? 無理でしょう……? だって俺ら高校生だし。場所だって……ほら、何処で?」 


俺の全面否定に、部長は不敵に笑う。


 「いいじゃないか。お前たちの歴史考証とやらで決まったことだろ? やりがいあるぜ、武田軍の双月が馬防柵を突破して大将のお前を打ち取ったら、武田の勝ち。陣中を突破できずに全滅したら織田の平良が勝ち。まあ場所はなんとかするとして……。火縄銃は水鉄砲で代用、問題は馬かぁ~? 女子モトクロス部に参加してもらおうかな」


部長の脳内に、構想が出来つつある。一体俺たちに何をさせるつもりなんだ? 翻弄する俺の横で、あきらは、やる気満々で「あたし、本物の馬に乗って流鏑馬やりたぁーいッ!」とか言っている。能天気ここに極まり、だ。


 「部長、それって全然実験考古にならないじゃんか……」

 「文化祭だぜェ~? 気軽に行こうじゃん。今年は東葛山祭の歴史に名を残す、素晴らしいイベントになりそうだな。ほかにも参加者を募るつもりさ。四字熟語もノリノリだし」


呵呵かかと笑う部長の隣に座る『四字熟語』に視線を移す。

ジィー……と、ジトォ……を足して二で割ったような、湿った視線と重なる。小揺るぎもしない白磁のような顔が気のせいか、すこし傾いだような……。

 とにかく、この鉄面皮のどこがノリノリなんだ?


 「回心天意かいしんてんい。明日も会議を開く」


『四字熟語』は俺から視線を外し、あきらを見た。その意得たりとばかり、大きな栗色の瞳をさらに丸く輝かし、俺を指差した。


 「コイツの説得はまかせてちょーだいッ!!」

 「言っとくが、設楽原したらがはらの再現というは賛成できない。なんせ畑が違いすぎて成立しないぜ? そもそも、人員とか、工事費とか、考古検証とか、ほかにもあるだろ? 色々と無理な部分」

 「考古検証なら、あたしがするわ」


薄い胸を張り、声高々に宣言する。続いてメガネのブリッジを上げながら部長が、


 「まあ、工事関連は俺に任せろ。ツテがある」

 「高山流水こうざんりゅうすい傾蓋知己けいがいちき。人員は私に任せて」


さらに『四字熟語』までが請け負ってきた。……と、いうより俺的に、心の隅まで水墨画みたいな人格に、色様々な人間関係があることに驚いた。部長曰く、学年でも人望があり、生徒会にも所属しているとか。相変わらず、意味不明だ。

 

 「まあ、とにかく明日で最終決定する」


部長の言葉で今日のところは終わった。あきらは忘れ物があるからと教室に戻る前に、「平良ァ! ちゃぁーんと、校門で待ってなさいよォー!!」と大声で恥ずかしげもなく叫ぶ。周囲の居残り組の生徒の中にあきらを見やり、俺に視線を移して含み笑いする奴もいた。

 ……なんとなく、失礼だ。


考えていたことが顔に出ていたのだろう、部長は俺を見て、両手をひょうきんに広げて見せた。


 「双月は一年女子の中では、かなり有名人らしくてな……。学校中の運動部が欲しがるくらいの運動神経の良さ。おまけに可愛いから男子にも人気が高いッ! 成績優秀! 容姿端麗!!」

 「……天真爛漫、自己中心」


 いつの間にか、そばにいた『四字熟語』が話に加わる。


 「……容赦ないな、お前」

 「そう? 直言直行」


 部長の苦言にもひるまない『四字熟語』。


 「他はともかく、最後の自己チューは認めるぜ」

 

 俺は嘆息し、話を切り上げ、きびすを変えた。と、背後から「平良」と部長が肩を叩く。

 

 「お互い好きな事に本気で議論できる相手がいることを『仲がいい』っていうんだぜ」


 振り返り、憮然とした面持を見せた俺を、面白そうに笑いながら、校庭を指差す。あきらがカエルのように跳びはね、しきりにこちらに向かって拳を相互に突き上げている。


 「三釁三浴(さんきんさんよく。彼女が待ちわびてる」

 「わかってるよ。じゃあ、明日。あ、ちなみに俺はまだ賛成派じゃないからな?」


俺の主張に、部長は掌を追い払うように振り、『四字熟語』は微かに笑った……ように見えた。


 「万能一心ばんのういっしん。あなたの想いに期待する」


それじゃ、まるで俺があきらのために賛成するしかない、みたいな言い方じゃん。二人とも何か絶対勘違いしている。

俺は表情から悟られぬように後ろ姿を見せたまま、手を振り、その場を後にした。


   

 ◇ ◆ ◇


 好きな女子と肩を並べて下校する、という甘酸っぱい青春ドラマは俺にとって、もはや架空の世界でしかない。物心ついた時からコイツはそばにいて、小学校から登下校はいつもコイツで、まあ……俺が進学した一年目は一人だったが、なぜかコイツは同じ学校へ入学してくる。だから、再び登下校は自然とコイツが俺の隣にいる。

 しかし、俺に取って些末な日常であるにもかかわらず、部長たちが余計なことを言ったせいで、コイツのことを妙に意識してしまうんだ。


 「ところで、さっき部長たちと何を話してたの?」


 あきらは軽やかな足取りで、大きな栗色の瞳から悪戯っぽい光彩を放ちながら、俺のそばによる。まじまじ見れば、確かに可愛い部類には入るのかな?

 俺の無言の視線に不思議そうに首をかしげるあきら。慌てて気を取り直した。


 「あ、ああ……、お前のこと可愛いってさ。けっこうモテるんだってな?」


 突然、あきらは耳たぶを熱くさせて、両手を無秩序に大きく振り回す。


 「たまーに男子から手紙を貰うけど……って、全部断ってるんだからね!!」


 今度は大きく振り回していた両手を伸ばし、小さな拳で俺の背中で叩く。一瞬、戸惑いつつ、恥らって見えたが、気のせいだったのか、真剣に怒っているみたいだ。あきらは乳色の頬まで真っ赤に膨らませ、上目遣いで俺を睨んできた。

 

 「俺は何も言っとらん」


降参の意を表すように、両手を上げ、手のひらを見せた。すると、やや落ち着きを取り戻したあきらは、バツが悪そうに視線を逸らした。

 俺は言葉が見つからず、あきらは言葉を誤魔化しきれないかの様に、スカートの細いプリーツを気にしながら、お尻の上で腕を組む。

 しばらく沈黙が続いて、おずおずと口を開くあきら


 「もしも、ね?」


 俺はあきらに視線を促す。しかし、あきらは視線を逸らしたままだ。


 「もしもよ? あたしが誰かと付き合ったらどうする?」

 「まあ、お前とも腐れ縁だしな、何だか遠くへいった感じで寂しいかな?」


 何気なく言う。まあ、幼馴染としてだが。

 が、灼は満面の笑みを俺に向けた。足取りも声も急に弾む。


 「そーよねェ! アンタとは、ずぅーと一緒だったもんねェ~」


 俺の正面で、くるくる回りだし、大きな栗色の瞳を細め、今度は優しく睨む。夕日の日差しがふわりと舞うツインテールを赤銅色に輝かし、その小さな身体は白い羽を纏って飛んでいきそうに思えた。

 思わず、息を飲み、立ち止まる俺。コイツが近くに感じる時、そしてコイツがふいに遠くに感じる瞬間、そのつど確かにあった関係が揺らいで霞み、いつの間にか俺はコイツとの距離が分からなくなっていた。

 そんな、あてのない感情に翻弄され、辟易するたびに俺は、『歴史』の論争という、コイツとの軋轢あつれきをどこかで断ち切ってしまいたいと思っていた。

 

  「なあ、俺たち、歴史のことになるといつも口論してるよな? いい加減そろそろ……」

「ああッ! そういえば昨日、邪馬台国特集やってたけどた?」


 あきらが、突如俺の言葉を遮る。


 「ん? あ、ああ……」


 タイミングを失った俺は、頭を掻きながら不精に同意した。


 「で、どうだった?」


 不敵な笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込む。ツインテールが頬にかかり、甘い匂いがした。俺は意味もなく加速する鼓動に狼狽え、返す言葉のタイミングを失った。

 

 「ふーん、アンタ的にはあんなので良かったんだ?」


 俺の無言を黙諾と決めつけたあきらはあからさまに挑発する。俺はつい反抗してしまった。


 「色々ダメだったけど、特に金印の読み方がダメだったな」

 「かんのなのわの国王って所謂三段細切れ読法ね。伊都いと国王って読む人もいるけど……」


 俺は大きく頷く。


 「後漢書は当時の中国の読みで地名をあてたものだ。当然、当時のまま音読すべきだろ?」


 灼がこくこくと首肯する。


 「そうすると、かんのヰヌ国王となる」

 「い、いぬゥ!? 犬の国なの?」


 困惑したあきらが、予想斜め上な発言をしたもんだから、俺はジト目でたしなめる。


 「間違ってもドッグじゃないぞ? 当時は委は『ヰ』、奴は『ナ』ではなく『ヌ』と読んでた。そして現代日本にもその地名は存在する」

 「へえ、どこなの?」


 あきらは大きな瞳を更に丸くして俺の腕を取る。好奇心で満たされた瞳の光彩が、俺の『文献学』の棚を開放しようと急き立てる。少しばかり愉悦に浸りつつも、いつもと違う違和感を感じた。  

 

 「……珍しく俺の話を聴いてるよな?」


 俺の詰問に、あきらは、俺の腕に更に強く腕を絡め、わずかに頬を赤らめた。


「あ……あたしだって、知らないことには興味あるもんッ! 少なくとも昨日の特集よりは面白い……かも」

 「ちょ、ちょっと嬉しいこともあったし……」


 あきらの声が急激に小さくなる。


 「え? 何か言ったか?」

 「なんでもないよッ! それよりもさっきの続きは?」


 灼の合いの手で、違和感が消えた。結局、俺もこういった話をするのは好きなのだ。


 「俺が信奉する学者の意見だが、福岡県糸島郡にある井原遺跡周辺じゃないかと言われてる。この場合、原は地形を表す接尾語だから地名は井。つまり『ヰ』ということだな。他にも博多の東側には奴山ってのがあるし、西には伊都神社がある。ちなみに卑弥呼は『ヒミカ』と読む。つまり日甕、太陽の神ってことだ。築後風土記に出てくる甕依姫みかよりひめと同一人物ではないかと言われるが……」


 「ちょっと、待ったァ!!」

 「な、なんだよ? 急に」


 あきらの機嫌がそこはかとなく悪い。


 「今の話を聞いてると、まるで邪馬台国が伊都国周辺にあったみたいに聞こえるけど?」

 「文献学上、九州説は有力だな」


 俺は確固して言う。


 「ありえないィ!!」


 対して、灼の歴史観が、ヴェスヴィオ火山噴火直前のように、突如沸点に達した。


「お前なァ……じゃあ畿内説が……ってやめた」


 俺は感化されかけたけど、一瞬で鎮火した。

 大きく嘆息して、改めて灼を見る。


 「俺たち、いいかげんそろそろ、こういった喧嘩やめないか? 正直疲れる……」


 突然、あきらの表情が悲壮にくれた。

 思いもよらなかった俺の気持ちを受け止めかねているかのように、しきりに首を横に振る。


 「な、な、なによォ!! あんた、さっき寂しいとか言っておきながら、ホントはあたしのことウザったいって思ってたのね!!」


十数年間、今まで見たことがないほど、錯乱するあきらを見て、少なからず俺は狼狽した。

俺はただ、喧嘩の元になり、俺が辟易する根源を消したいだけなのだ。


「ウザいとか……、そんなこと思ってない。ただ、俺は歴史に関する話を……もう少し」

「平良のバカァー!!」


走り去ろうする灼に手を伸ばす俺。

それを撥ねのけて、あきらは俺の横をすり抜ける。

大きく広がった栗色の瞳から大粒の涙があふれているのを見てしまった。


ひとり残る俺。


「なんで、こうなったんだ?」


灼の涙が、俺の胸を突き刺して痛い。


途方に暮れた俺は灼を追いかけることもできず、ただ佇んでいた。  

 

 ◇ ◆ ◇


翌日。回心天意かいしんてんいを求められた文化祭会議に出席するため、部室へと足を運ぶ。昨日のあきらとの件も気になるし、やはり顔を出すべきだろう。

 渡り廊下を抜け、部室棟に入ると出会い頭にあきらと視線が合った。一瞬で逸らし無視しつつ俺の横を過ぎようとするするあきらの腕を無意識に握っていた。


 「……痛い」

「あ、ああ……。すまん」


慌てて手を放す俺。どこへ行くのか分からないが並んで歩くと、あきらは若干、歩みを速めた。


 「何の用?」


 取りつく島がない、こういう時に言うんだろうな……。

 

 ……とは言え、今日の事態は、昨日のことが原因で、それは俺の責任。

 ここは素直に謝るべきだ。


 「昨日はすまない」

 「別にいいよ……」


  即答のあきら。だが俺は、灼のセリフに反対解釈の回答しか出せず、ますます狼狽してしまう。

 「あ、あれはだな、つまり……あくまで歴史の話であって……」

 「あんた、あたしと歴史の話をしたくないんでしょ? それはあたしと話したくないってことでしょ?」


 あきらは眉を吊り上げて、俺の話を遮る。だが視線は正面を向いたまま。


 「いや、何もそこまで飛躍しなくても……」


 俺は何とか弁明を続けるが、全く相手にされない。

 あきらは足を止め、俺を見た。大きな栗色の瞳に、不退転の覚悟のような闘志が燃え上がっていた。


 「あんた、あたしと勝負しなさいッ!」

 「?」


 意味がわからない俺に、畳み掛けるあきら


 「今度の文化祭、あたしが武田で、あんたが織田。設楽原したらがはらの実験考古で、あんたが勝ったら、お望み通り、あんたには金輪際歴史の話はしないわ。でも、あたしが勝ったら……」

 「お前が、勝ったら?」


 俺の言葉に、一瞬たじろぐあきら


 「と、とにかくやるの? やらないの?」

 「……こうなったら、やるさ」


 遺憾ながら承諾するしかないと決めた俺だが、訂正しなければならない点もある。


 「だが、俺は歴史の話がしたくないわけではなくて、それによる喧嘩をだな……」

 「絶対だからねッ!!」


 俺の話も聞かず、急に走り出して去るあきら


「ちょ!? 俺の話はまだ……つか、文化祭会議はいいのかよ?」


 遠く小さくなる灼の背中には俺の声は届かなかった。


 

  部室へ行くと、部長も不在の様で、『四字熟語』がぽつんと読書をしていた。

隣のパイプ椅子に座り、ちらりと本のタイトルを見れば『知っておくと得する民法』と書かれていた。


  ……やっぱり、こいつだけはさっぱり理解できん。


 「益者三友えきしゃさんゆう……とはいかないけど、やはり貴方は双月さんの為に決めた」


 『四字熟語』がふと顔を上げ、貶したのか褒めたか理解に苦しむセリフを吐いた。まあ、前者の要素が多分に含まれているに違いない。


 「聞こえていたのか? そーだよ、結局灼あきらと勝負することになったぜ」


 俺はカバンから屏風図鑑を出し不精不精に答えた。


 「刻苦勉励こっくべんれい。その気はあったのね、感心だわ」

 「勝手に言ってろ」

 

 俺は図鑑を机に広げる。まあ、何度も見かけたこともある有名な屏風図だ。

 しかし、今回は細かく分析する。


 俺が最初に気になったのは、まず鉄砲の数だ。


 屏風図には俺が数えた限りでは、わずか33挺だ。3千挺のおよそ百分の一。

 描くにしろ、あまりに少なすぎるだろう、と思ったかもしれないが、実は信長公記では『千余丁』としか記載されていない。


 江戸時代に書かれた小瀬おぜ 甫庵ほあんの『信長記』に鉄砲三千挺とあり、さらに『一段ずつ立ち替わり立ち替わり打たすべし』という記述から三段釣瓶落とし戦法と言われるようになった。


 改めて屏風図を見る。


 ……うーむ。三段はおろか、馬防柵に一列で左翼・右翼・中央と三隊に分かれているのみだ。


 布陣も気になる。


 武田勢は小高い丘から駆け下りて全面攻勢に出ている形で描かれているが、騎馬隊の圧倒的破壊力が大いに感じられる。

 対して織田軍の中央……武田を正面からガチンコで食い止めているのは徳川勢だ。石川・本多・大久保含め、有名な金扇馬印もある。そしてこの部隊だけ、何故か馬防柵の前に出て敵を迎え撃っている。


 実験考古で検証した鉄砲は馬防柵の中から、迫り来る騎馬軍団を水際で駆逐できるか、ということだった。

 が、それは圧倒的な機動力によって難しかったのではという結論になった。


 まあ、灼が主張する基本内容なのだが。


 でも、史実では武田勢は、結果多くの有能な武将を失い敗走している。


 映画とか、ドラマで見るように、一瞬で勝敗が決まったわけではなく、『信長公記』によると数時間に及ぶ大乱戦であったらしい。


 そこに勝頼の意地も見えるのだが、それだけに単純に鉄砲の威力は最強騎馬軍団に対し、世間でいうほど大した効力はなかったのかもしれない。


 俺は少し背を伸ばし、窓を見る。

 鮮やかな紅葉が、はらりはらりと舞い落ちていくのが見えた。


 ……では、なぜ織田勢は優勢で勝ち得たのか?


 俺が灼に勝つ秘策もそこにあるような気がした。 


 ◇ ◆ ◇

 

 翌々日も俺は部室で静寂な空間で図鑑を眺めていた。『四字熟語』はもはや空気だ。

しかし、その静寂も突如終わった。


 「あたしに今から付き合って頂戴」

 「お、おいィ!!」


 有無を言わせぬまま、俺の腕を取り、部室を後にした。


 運動部のグランド整地を灼は俺の手を引きながら足早に進む。

 やがて、校舎裏の丘陵地が見えると、さすがに俺も問いたださずにはいられなかった。


 「一体、どこまで連れて行く気だ!?」


 俺の詰問をけたたましいエンジン音が遮る。

 颯爽と丘を下りてきたモトクロスバイクが俺と灼の間に割って入った。


 「アッキー、早くしないと練習始まっちゃうスよ?」


 言ってヘルメット越しに、俺を一瞥する。

 相手の眼は見えないが、何となく「ふぅ~ん……」と品定めをしている雰囲気を放っていた。


 「あたしは女子モトクロス部の尾崎。あんたがアッキーの敵である谷平良スね」


 不敵な視線に動じず、俺は言う。


 「言ってる意味がわかんないね」


 俺の言葉に、尾崎は豪快に笑い出した。


 「とにかく、愉しみにしてるよ。じゃあ!!」


 スロットルを開き、俺の前でバイクを回転させ、あっという間に丘を登ると見えなくなった。


 俺の驚愕に、灼は少しバツが悪そうに、

 「あたし、今、女子モトクロス部の臨時部員なんだ」

 「い、いや、だって。お前、免許は!?」


 驚きはそこではないはずなのに、思わず言葉が口に出る。


 「公道に出ない限り、大丈夫なんだって。それよりも」


 再び、俺の手を引き丘を登る。

 その光景を見て、驚愕……いや、驚嘆に尽くせない衝動が走った。


 「部長が地元の土建会社に掛け合って、天正年間(約西暦1500年間)当時の設楽原を再現したのよ。ちなみに考古的な監修はあたしね」


 たかだか、高校生の文化祭程度でここまでやるのか?


 「どう?」と自慢げな灼をよそに、俺にはもはや、言葉はなかった。


 さらに、灼は奥の丘陵地を指差し、言う。


 「ちなみに、あれがあんたの織田陣営よ。正確に考古に沿って、陣地を構築してるからね」


 俺は言われるままに、馬防柵の立つ陣地を観察する。

 が、すぐに違和感が生まれた。


 「連吾川れんごがわに沿って、丘陵麓に布陣してたんじゃないんだ!?」


 しかも、丘陵地には無数に入り組んだ空堀もあり、馬防柵は一列に壁のように並んでいなかった。

 一部、土塁を築き、馬防柵が三段構えもある。


 「おい、灼」

 「なによ?」


 驚きを隠しきれない俺を見て、余裕釈然の灼が促す。


 「……ホントにこれが設楽原なのか?」

 「そうよ。こうしてみると、やっぱり鉄砲を備えて、迎え撃つことで、騎馬の戦力を削ぐのは難しいわよねェ」


 丘の上から鉄砲並べて迎え撃つという戦法ならば、まず不可能だ。だから丘陵地の麓に鉄砲を配置し、一列に配した馬防柵を突破した騎馬隊が丘に差し掛かって勢いが死んだところで、鉄砲を撃っていたと考察していたのだが。

 馬防柵は隙間があり、まとまった兵を配置しようにも丘によって分断されてしまう。


 つまり、信長の戦術は俺が予想できなかった方法で勝ったという事なのだ。

 逆に言えば、それを立証できないかぎり、灼の騎馬隊に各個撃破されて瞬く間に全滅だ。



 ……こいつは難題だ。


 「……言っとくけど、ズルしてないわよ」


 灼の言葉に俺は確信もって言う。


 「わかってるさ。お前はこういうことに関しては、絶対ありえないからな」



 『ありえない』……。

 腐れ縁して、考古学マニアの幼馴染。

 改めてコイツの口癖を噛みしめた。



 ◇ ◆ ◇


 雲一つない秋空はどこまでも天高く、まだ夏の日差しの名残を見せる放課後。


 とはいえ、水遊びに興じるほどには時期外れなはずなのに、校舎裏で複数人の生徒がハイテンションではしゃぎまくっていた。


 「おい、平良」


 ずぶ濡れの男子生徒、クラスメートの富樫が不満顔を見せる。


 「この水鉄砲、連射機能はないのかよ? 一回打つたびに水の補充とか、すげェー面倒なんだけど」


 「あのな、何度も説明するけど種子島に連射機能はないッ!」


 俺はこめかみの筋が震えるのを実感しながらも、実際ここまで人数だけはよくも集めたもんだと感心していた。





 時系列はおよそ昼休み時間まで遡及する。


 「谷、上級生が呼んでるぜ?」


 学校生活における愉しい一時、弁当をカバンから取り出している最中の俺に声がかかる。


 珍客だった。


 「部長が俺の教室まで来るって、珍しいよな」


 「ん? そうかァ? ……それはそれとして」


 部長は俺の弁当をチラリと見やり、半ば強引に誘う。


 「たまには、俺に付き合わんか? 食堂へ行こう」


 俺の返事も聞かずに、先へ進む、部長。俺は一瞬、弁当を取りに戻ろうか悩んだが、すぐに部長の後を追った。


 「……愛妻弁当はいいのか?」


 隣に並んだ俺を一瞥し、にやりと笑う。


 「愛妻じゃネェ!! 最近、灼は作ってくんねェし……」


 「ほう……?」


 部長のメガネの奥が光る。が、悟らせないように大きく笑い、俺の背中を叩いた。


 「それじゃあ、今日は俺がお前にランチを奢ってやるよ。頼みたいこともあるし、な」


 俺と部長は食堂へ入った。





「おい……、あの定食頼んだ奴、初めて見たよ」

「す、すげェ。ホントに噂通りの厚さだぜ」


 周囲のどよめきと視線が痛い。


 「ん? どうした、平良。熱いうちに食べたほうが美味いぞ?」


 部長は周囲の観衆なんぞ、気にもせずに800グラムもあろうかというサーロインステーキを上手く切り分け頬張る。


 目の前の鉄板皿には、アツアツの肉汁と油が音を立て弾け、スパイシーな香りが鼻孔をくすぐる。


 両手に持つナイフとフォークを震わせながら、外はこんがりと、中は桃色の肉をゆっくりと口に入れた。


 「!!」


 言葉にならない俺の様子に、部長が笑みを浮かべた。


 「食堂の調理師である中西さんは、駅前のステーキ屋の二代目でな、学校で美食にありつけるのは幸せだよな」


 俺はもう一切れ口に放り込み、壁に貼ってあるお品書きを眺める。


 きつねうどん250円。

 肉うどん300円。

 ラーメン320円……。


 学校の食堂にふさわしく安価だ。


 トンカツ定食560円。

 からあげ定食450円。

 かつ丼500円。


 と、まあ、だいたい高校生の財布事情からワンコインから1000円以内が相場だろう。


 ……しかし。

 一番端に少し離れて貼ってあるお品書き『サーロインステーキ定食5600円』って何だ!?


 俺はてっきり店主の悪戯だと勝手に思い込んでいたが……。


 目の前にそれを注文する奴がいたなんて。


 「ん? ああ、値段は気にするな。俺の奢りだと言ったろ?」


 部長はコメの上に最後の一切れを置き、一緒にかきこむと、暖かい緑茶を啜る。


 「この間、株で儲かったからな」


 もう一啜りしてから、


 「まあ、大半は設楽原工事に投資したから、さほど残っちゃあいないがな」


 あはは、と笑う部長。


 一体いくら儲かったんですか? と、恐ろしくて聞けない俺は、目の前の、多分一生のうち、そう何度もお目にかかれないランチを無心で平らげた。


 「さて、平良。お前にはやってもらいたいことがある」


 腹が落ち着いたところで、部長は本題に入った。


 「灼に聞いてるだろ? 遺憾ながら織田軍として歴史実験に参加するってこと」


 あえて確認することではないはずだ。しかも俺は図書館で戦法を検証している最中なのだ。


 今更、やめるだなんて言わないぜ? ……肉も喰ったし。


 「まあな。双月には女子モトクロス部と交渉して臨時部員になってもらった。武田の騎馬隊を構成するために」


 「灼に昨日会ったよ。そうらしいな。って、ということは俺にも?」


 まさか、どこかの部活に入れってことか? 飛び道具を扱うところっていえば弓道部くらい?


 俺は急に身構える。


 「織田はよく銭で兵を集めていたらしい」


 部長の言葉に俺も賛同する。


 「ああ、離村した地下人を城下に囲って傭兵集団を大規模に形成してたという説もあるが……まさか!?」


 俺の驚きに、部長は苦笑して手を顔の前で、ひらひら振る。


 「さすがに兵を探してこいって、無謀なことは言わんさ」


 俺は安堵の息をつく。


 「この場所に、部活不参加組15名を集めた。これを期限までに使えるようにするのが、信長役であるお前の仕事だ。よろしくな」


 部長は立ち上がり、俺に小さな紙片を渡す。


 俺は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。俺には選択権はないのだから。


 「現場にはサポート役として四字熟語もいる。色々と頼りにしていいぞ」


 部長は、出来るサラリーマンのように、「じゃあ」と片手を上げて去って行った。


 ◇ ◆ ◇


 けたたましいエンジン音が幾重にも重なる。


 ここは丘陵地を利用した仮設サーキット『設楽原』。


 一連に連なるモトクロスバイクがジャンプやフープスといった難セクションをこなしながらコースを巡っている。


 「33番! ニーグリップが甘いッ!! バイクをもっと垂直に立てろ」

 「14番! シフトチェンジが遅い! もっとフロントブレーキを意識しろ!!」


女子モトクロス部の部長である三郷美佐の声が響き渡る。


 「48番!!」


 たしか、あれは灼だったはず。


 へー……。なんか様になっているじゃん。


 「48番! コーナリングは鋭く攻めろ! スロットルを開くのが早い!!」


 轟音を鳴り響かせながら、寝かし込んだバイクを素早く立ち上がらせ、加速させていく。


 アイツ、普通に部活動してないか?


 俺は連吾川れんごがわを挟んだ対岸の敵軍の訓練に感心しつつ、我が陣地に視線を移す。


 馬防柵中央に15名が一列になって『家康ちゃん』こと四字熟語の合図で水鉄砲の射撃訓練真っ最中だった。


 まあ、我が軍のことだけど……、さっぱり様になっていない。見ているだけで、もう勝てる気がしないのだ。


 「積水成淵せきすいせいえん 射撃間隔をもう十秒縮める」


 15名が一斉に水泡を打ち出す。川岸に立てられた赤い看板、つまり標的を越えて、反対側の川岸に着弾した。


 おまけに命中精度も悪いと来たもんだ。


 ちなみに今回、部長が用意した種子島は、外観は火縄銃そのものだ。


 しかし、様式が異なっていた。何でも消防団が使用する最新式の装備で、圧搾空気で水の塊を打ち出すというものらしい。それを改良したものだ。


 玩具にしては、立派すぎる。部長も凝り性というものだ。


 ただ、この玩具、取り扱いが非常に難しかった。水弾を発射するとその反動リコイルが激しい。


 銃口マズルがぶれまくって、とにかく的に当たらないのだ。


 が、それをすぐに習得してみせたのが、なんと四字熟語だった。


 「緊褌一番きんこんいちばん。気合入れてやる。もう一度」


 あくまで涼やかな態度で、過酷な試練を課す、四字熟語。


 最初に根を上げたのは、我がクラスメートの暇人、富樫だった。


 「師匠ォー、もうこの辺でよくねェ? 疲れたよォ」


 へたれこむ富樫に四字熟語は容赦ない。


 「富樫。あの的に当たるまでやめない。続ける」


 さらに富樫は俺に情けない顔を向け、


 「平良、お前もそう思うだろ? いきなり頑張りすぎても無理だってェ」


 俺はほかの奴らも見る。異口同音に唱え始めた。


 俺が何か言おうとしたとき、爆音とともに灼がやってきた。


 「なになに? 合戦する前から降参?」


 ヘルメットを取り、さわやかな汗を払いながら満面の灼の顔が現れた。


 「……そんなことするかよ」


 憮然と言う俺。


 「やっぱり、文献や絵図をみると、鉄砲ってこういう運用になるわよね」


 四字熟語とその不肖な弟子たちの訓練風景を眺めつつ、言う。丁度、四字熟語の号令によって15名が一斉射撃をするところだった。


 「……何だよ。文句言いにきたのか?」


 つっかかる俺に、あっけらかんと笑う灼。


 「そうじゃあ、ないって。当たり前だけど鉄砲って敵に向かって撃つもんなのよねって思っただけ」


 「どういう意味だよ?」


 ちょっと、不貞腐ふてくされてみせる俺。


 「考古では『設楽原の鉄砲玉』はちょっとした謎なの」


 エンジンを切り、バイクを倒して、俺の横に座る。


 いつも見慣れてるはずの横顔なのに、鼓動が高鳴った。


 多分、ツインテールでなくてポニーテールのせいで、夕日の赤が眩しくて、最近会ってないのに近すぎて……。


 俺は灼の横顔に見とれていた。


 「なによ? あたしの顔、変?」


 訝しがる灼に、我に返る俺。


 「い、いや。急におまえが理解できんことを言うから。って何だよ? 『設楽原の鉄砲玉』の謎って」


 「うん、さっきも言ったけど、一定方向に大量に射撃したとして、本来まとまった場所、つまり着弾点に大量の鉛玉が出土しなきゃおかしいのよ」


 「まあ、そうだろうな。常識的に考えて」


 頷く俺。


 「でもね、出てこないの。出土されてもわずか十数発。しかも出土場所がバラバラ。まあ、当時鉛は貴重だから合戦後に回収して回ったのではという人もいるけど、それでもありえないわ」


 「へえ、なるほど」


 俺は素直に関心する。そんな話もあるのか……。


 「じゃあ、灼の考えは一斉射撃はなかったと。鉄砲は違った運用だったと。じゃあ、聞くが合戦屏風図はどう説明する? あれは全くのフィクションか?」


 「屏風図は動画と違って動かないわ。確かにあの陣容で相対する瞬間はあったと思う。でも、終始そうじゃなかったと思う」


 細くながい人差し指を朱唇にあてて言う灼。コイツが思考しながら話すときの癖だ。


 「あとね、今回、この設楽原を建設するとき思ったの。この縦横無尽な空堀。しかも丘陵に沿って作られた空堀は丘の上にもあり、しかも信長の陣地だった場所の近くまである。馬防柵を立てておきながら、陣中深くまで武田勢が切り込んでくることを想定してるみたいだわ」


 それは、俺も思った。随分堅固に構築された陣地だったんだろうなって。


 急に笑い出す灼。俺は少なからず驚いた。


 「まるで、塹壕ね。一番ありえないけれど、ね。それはそうと、なんであんたとこんな話をしてるんだかッ!!」


 「ちょっと、待ったァ!」


 急に立ち上がる灼。バイクを起こし、去ろうとする灼を思わず呼び止める。


 「なによ?」


 「……今、何て言った?」


 真剣な顔の俺に、白い頬を膨らませる灼。


 「何よ、そんなに怒らなくていいじゃん。はい、はいッ!! あんたはあたしと歴史の話をしたくなかったんだったよねェ」


 ベェーだ、舌を出す灼。が、俺の反応に違和感を感じた灼は不思議そうな顔を見せる。


 「さっき、まるで何と言った?」


 俺の詰問に、怪訝がるように言う灼。


 「……まるで塹壕ねって。根拠もなにもないので一番ありえないけど」


 「それだァァァ!!」


 俺の雄叫びに灼はますます訝しがる。ついでに四字熟語も鉄砲隊15名も俺を見た。


 「灼!!」


 思わず、俺は灼の手を両手で握る。たじろぐ灼を引き寄せた。


 「ありがとう!! やっぱりお前は最高の幼馴染だぜッ!」


 灼の手を握りしめたまま、小躍りする俺を、灼は朱くなった頬を隠すように俯き、上目で優しく睨む。


 「……平良のバカ。こんなのありえない……」


 消え入る、その声は俺の耳には届かなかった。


 ◇ ◆ ◇


  やや冷たい土の感触を寝袋越しに感じた俺は半身を起こした。


  文化祭当日。


  快晴。朝日の光が眩しい。まさに決戦日和である。


  「お? 朝か?」


  ともに空堀、いや塹壕に寝ていた富樫も起きる。その他十余名も起き始めた。


  当日ギリギリまで塹壕戦を訓練していた我々の士気は高い。仕上がりも上々だ。


  「乾坤一擲けんこんいってき。今日で全てが決まる」


  四字熟語が俺にアルミコップを手渡した。中身はミルクティーだ。


  さすが、よくわかっているじゃん。俺は一口すすり、身体の中からほっこりと暖かさを感じた。


  「刀光剣影とうこうけんえい。皆よく頑張った。今日の決戦は必ず勝つ」


  四字熟語は織田傭兵団全員にコップを渡し、キャンプ用の簡易コンロで沸かしたミルクティーを注いで回った。


  なんだか、俺よりも指揮官っぽい? 今では傭兵団十五名も完全に四字熟語を心酔している。


  ……厳しい訓練、色々あったからなァ。


  俺は寝袋を脱ぎ、高らかにコップを突き上げる。


 「みんなァ!! 今日は絶対勝とうぜッ!!」


 「おうッ!!」


  四字熟語は小さく、傭兵団全員は大きくコップを突き上げた。






  俺は一旦、教室へ戻り、制服に着替えて開会式が行われる講堂へと向かう。


  途中の渡り廊下で見慣れたツインテールの後ろ姿を見た。


  「よう、おはよ」


  「……ちょ、あんた今日家にいなかったけど?」


  「ん? ああ、昨日から夜通し、今日の訓練してた」


  「バカじゃんッ!」


  頬を餅のように膨らませ、小さな手で、俺の背中をポカポカと叩く。


  ……なんか腰がほぐれて気持ちいい。


  「そういえば、今お前、俺んち来たって言ってたけど?」


 小さな手が急に止まる。白い頬がたちまち赤くなった。


  「こ、ここ……、んとこ、あんたのお母さんに会ってなかったしィ……、心配かけたら悪いなァと思って……。って、あんたの部屋には入ってないわよ!! あんたのお母さんに聞いたんだからねッ」


  「へいへい……」


  なんだ。俺を心配していたわけではないのか。


  「あ……ああ、たし、もう行くからねェ!!」


  走り出す灼は、ポケットから小さな包みを取り出し、俺に投げる。


  「?」


  「腹が減っては戦も出来ぬでしょ? ちゃんと朝ご飯食べなさいよ」


   優しく睨み去っていく灼を見送り、包みを開けると、小さなおにぎりがふたつ入っていた。


  ひとつを頬張る。中身は焼きサバを梅肉で絡めたものだ。相変わらず灼の手作りは独創的で凝っている。


  「美味い……」


 灼の思いを噛みしめた。




 ついに来た。


 設楽原に両軍が陣を張る。


 『大』の文字が見える大きな旗はきっと灼だろう。やっぱり凝り性だ。


 轟音を無秩序に響かせながら鉄騎馬が丘の上に居並ぶ。



 その威圧感は凄まじく、思わず俺は生唾を呑む。


 『えー…と、これから歴史研究会による長篠の戦いの再現を行います。協力して頂けるのは女子モトクロス部、ならびに地元の土建会社様です。ほんとに有難うございました』


 部長のアナウンスが戦場に響く。


 『ルールをご説明します。武田の騎馬隊である女子モトクロス部が織田陣営の本陣にあるフラッグを取れば武田の勝ち。逆にそれを阻止し武田を戦闘不能にすれば織田の勝ち。歴史は繰り返されるのではありません。人間が歴史を繰り返すのです。その実験にどうぞお付き合いください』


 部長の演説が終わると、ホラ貝がなる。


 うーん、演出だな。


 しかし、そんな感慨に浸ってはいられない。


 灼が率いる鉄騎馬が轟音を鳴り響かせて丘を降りてきたのだ。


 その重厚な布陣に俺は慄いた。



 ◇ ◆ ◇


 色とりどりの幟を背負ったモトクロスバイクがデコボコの地面で弾みながら迫ってくる。


 「……すげェ。まるで暴走族だ」


 今、俺たちは正面馬防柵前の塹壕内にいる。首だけをひょいっと覗かせた富樫が唸った。


 「俺たちも負けてない格好だぜ?」


 学校指定のジャージに剣道部から借りた防具。背中には給水用タンクと白地に黒の織田木瓜。統一された十五本の幟が一列に陣を構えている。こちらも圧巻だ。


 「剣抜弩張けんばつどちょう。来る。構えて」


 四字熟語の言葉で織田軍全員が正面に意識した。


 鉄騎馬隊の先鋒が連吾川に差向かったとき。耐え抜いた気迫が大きく膨らんで爆発した。


 「放て」


 四字熟語の声は小さい。しかしバイクの轟音よりもはっきりと皆の耳に届いた。


 瞬間、圧搾空気が弾ける破裂音が戦場に響いた。会場の観覧者は、驚きと刺激の強さで、誰もが耳をふさぐ。近くの山々に木霊して余韻の音が細くたなびいた。


 銃口マズルから漏れる微細な水滴が、一斉射撃によって一瞬にして濃霧になり、目の前が見えなくなる。


 「迅雷烈風じんらいれっぷう。次の指定位置まで後退」


四字熟語は戦果を確かめることなく、新たなる指示を下した。


 十五名が三隊に分かれ、迅速に行動する。


 濃霧が晴れた頃には、正面の織田軍はすでにいなかった。






 灼は勝利の確信を疑っていなかった。


 なにせ、こっちには機動力がある。塹壕陣地はモトクロス部員にとってフープスを越えるほどでもないくらい、難なく突破していくだろう。


 だが、ワンサイドゲームとまではいかないことも灼は熟知していた。


 確かに鉄砲の一斉射撃は脅威だ。射線域に誘い込まれたら、こちらが不利だ。


 「みんな、いい? 最初は必ず一斉射撃が待ってる。五名三隊の縦深陣で敵正面を目指し、射程ギリギリの連吾川手前で一斉に敵前反転。その後、密集陣形で敵陣を素早く突破してフラッグを取るわよ!!」


 「おー!!」


 気合を入れる。


 「御旗楯無、ご照覧あれ!!」


 モトクロス部員の尾崎が言った。……いや、それいいのかな? 叫んでも。


 「御旗楯無、ご照覧あれ!!」


 他の部員も面白がって叫びだす。尾崎は灼にこっそり舌を出し、ささやいた。


 「武田なんとかってドラマ見たとき言ってたけど、どういう意味?」


 灼は天を仰いだ。


 「と、とにかく気合い入れて行くよ!!」


 全員バイクに跨り、スロットルを手袋越しに確認する。


 「突撃ィー!!」


 瞬間、鉄騎馬ならぬマシンのエンジンが雄叫びを上げた。



 ◇ ◆ ◇


 灼の『大』の旗が風になびく。


 予想通り、中央馬防柵の前に指物が一列に陣立っている。


 一斉射撃で迎え撃とうと画策しているのは、もはや疑いない。


 後は反転のタイミングだ。


 一斉射撃より早いと側面を晒し、的にされる。


 逆に遅いと射撃によって陣形が混乱し、やはり的にされる。


 灼は鉄の馬と一体になりながら、敵の動向を伺った。




 先鋒が連吾川に差し掛かった時。


 ふいに緊張の糸が弾いたような、理屈ではなく、直接肌に気迫が突き刺さる衝撃を感じた。


 反射的に、灼は腰に差した軍配を右に大きく振る。


 縦深陣で攻め込んだ武田勢は一斉に右回頭し、陣形が大きく三つのU字を描く。


 しかし、その前に織田の鉄砲が一斉に火をふいた。


 瞬間、水の微粒子が飽和状態になり、周囲に濃霧を作り出す。


 灼は絶妙なタイミングを確信した。この前方不可視状態を利用して陣形を再構成して再突撃する。


 この時、灼にわずかな誤算が生まれた。


 陣形再編に当たり、騎馬3騎が討ち取られていたことが判明したのだ。


 ……意外と射程距離が長い?


 灼は無念な思いをひた隠しつつ、赤橙色の水を全身に被り、意気消沈している部員を後方へ退がらせた。



 しかし。


 それでも再突入の再編成まで、さほど時間は要しなかったはずだった。



 濃霧が晴れた時。


 眼前の敵陣に、織田兵の姿はなかった。






 俺は今、泥ネズミのように塹壕の底を這いずっている。


 指物が見えないように、かつ素早く、近代戦法における突破機動の防御に走る。


 中世の遺物である旗は兵数を見極める重要なアイテムではあるが、野戦には適さない。


 これが革新ってやつですか?


 「伝令! 壱の陣、配置完了」


 伝令兵が左の塹壕から無駄な動きなく報告し、素早く元来た道を戻る。


 「伝令! 弐の陣、配置完了」


 同じく右から。即座に帰っていった。


 「協心戮力きょうしんりくりょく。後は待つだけ」


 四字熟語の言葉に俺は頷く。



 ここまでやったんだ。


 後は灼にどこまで対抗できるか、だな。





 再編成を終えた灼は密集陣形で再突入を下命する。


 鉄騎馬隊は、咆哮を上げ、大きな意志の塊となって突進していく。


 最前線の馬防柵と塹壕は難なく突破を果たした。


 「全然、余裕じゃん。やっぱり平良の言ってた鉄砲の威力って、所詮こんなもの」


 灼は誰に聞かせるわけでもなく、自賛の言葉を吐いた。


 鉄騎馬隊が弐の陣に差向かったとき、正面に突然、織田の指物が顔を出した。


 「待ち伏せ? 伏兵!?」


 このまま密集したままだと、鉄砲の的だ。


 「左右に散開!!」


 灼が下知を下す。しかし、眼前の馬防柵に阻まれて、陣形が崩れバラバラに四散していく。


 その瞬間、弐の陣から一番少数単位になってしまった集団に向かって発砲された。


 全員が討死した。


 濃霧が発生する直前、織田勢が再び塹壕に身を隠し、移動していくのが見えた。


 「まさか? 塹壕野戦での各個撃破?」


 別の場所で鉄砲の斉射音が聞こえた。


 灼の目の前を織田勢の少数部隊が横切る。


 今度は灼自身が標的にされていることを自覚した。


 「今は前に進むだけだわ!!」


 灼はスロットルを捻り、土塁を跨ぎ、ジャンプして柵を越えていく。


 「アッキーに続くよ!」


 尾崎以下数名も同じように柵を越えた。


 撃ち損ねた鉄砲隊は、再び身を隠し、複雑な塹壕を移動する。


 「アッキー、これからどうする?」


 尾崎の質問に即答する灼。


 「土塁を越え、最短ルートでフラッグを奪う。こっちは一騎になってもフラッグさえ取れれば勝ちよ」


 灼は再度土塁を越えようとすると、眼前に鉄砲隊が顔を覗かした。


 灼はフロントブレーキをいっぱいに絞り、バイクを寝かせ、反転した後、素速く起こし、降ってきた土塁を再び登る。


 立ち遅れたモトクロス部員数名が赤橙色の水を被っていた。


 灼は土塁に沿って迂回しながら織田本陣手前の最終馬防柵の位置を確認する。


 自分自身が考古的検証し、構築した織田陣地だが、こんな使い方してくるだなんて……。


 土塁を降り、馬防柵の前に立つ。


 「灼ァ!!」


 正面の塹壕から、聞きなれた声が響き、「よいしょっと」とつぶやきながら、一人這い出てきた。


 その姿を見て、思わず灼は笑みをこぼした。





 俺に根拠はなかったが、必ずここに灼が来ると確信していた。


 そして今。


 眼前に灼がいる。


 灼はヘルメットを取り、俺を見た。


 さっぱりした笑顔で言う。


 「馬防柵を文字通り馬を防ぐための柵ではなく、分断するための障害に使うだなんて、ね。呆れたわ」


 「信長公記に『人数を備え候。身がくしとして、鉄砲にて待ち請け、うたせられ候へば、過半数打倒され』とある。織田軍の勝因は、この野戦陣地と鉄砲のコラボレーションにあったわけだ」


 「まだ負けたわけじゃないもんッ」


 灼はヘルメットをかぶり、エンジン音を高ぶらせる。


 「きっと、勝頼も今のお前と同じ気分だったろうな」


 俺が片手を挙げると、鉄砲隊が射撃体勢に入る。


 「行くよォ!!」


 灼は叫ぶ。


 「来いッ!!」


 俺は灼の気迫を全身で受け止めた。


 ◇ ◆ ◇



 「放てェ!!」


 本陣手前の二重塹壕から、一斉射撃、いやピンポイント斉射によって全ての水弾が灼を襲う。


 が、バイクの後輪を弾ませ、威力を殺し、水泡の射程距離ギリギリで跳躍した。


 「いやーァ、アッキー、さすがだねェー」


 赤橙色まみれのスーツをまとったショートカットの女の子がいつの間にか、塹壕の中でくつろいでいた。


 「誰?」


 俺は思わず指差す。


 その仕草に、少し苛立ちを見せながら、よく動く大きな瞳と、愛嬌ある口元が、これ見よがしに喧伝する。


 「お、ざ、きィ。って、この間名乗ったよね、平良君」


 ちょ、ま……、あの時はバイクで、ヘルメット被ってて。


 俺が混乱し始めると、尾崎は不敵に顔を近づける。


 「尾崎だよ。ヨロシク」 


 「……お、おう」


 「それよりアッキー、再突入してくるよ」


 尾崎が促した。


 丁度、灼が前部車輪で体勢を整え、塹壕を飛び越えるために、エンジンを吹かしていた。


 「金城鉄壁きんじょうてっぺき。第二隊、射撃用意」


 四字熟語の命令が下る。


 これは灼も予想はしていなかったようだ。が、選択肢はない。


 灼は突貫を決意した。


 スロットルを思いっきり開き、弾丸のように押し出された灼は土塁の壁を真横になって突き抜け、馬防柵に迫ってくる。


 「……あいつ、上海雑技団にでも入るつもりか?」


 俺は我が目を疑った。


 土塁を壁ごしに走り抜け、且つ鉄砲の射程外をかすめつつ、柵を越えようというのだ。


 本気の灼に俺は慄いた。


 しかし、四字熟語の射撃はどこまでも冷静だった。


 「放て」


 バイクの進行方向に沿って、斉射された。灼も対応すべく、ジャンプを試みる。


 灼はスロットルを絞ると同時に、膝でバイクを安定させようとした時。


 一発の水泡が後輪を直撃した。


 バランスを崩し、灼はすでに跳んだバイクの安定に執心する。が、飛距離を稼ぎきれなかったのか、前輪が馬防柵にあたり、そのまま灼を放り出してしまった。


 「ダメェ!!」


 固く目をつぶる灼。ここで力尽きようとする自分に無念の衝動が沸き起こる。


 でも……。


 やっぱり、ここまでだったのかもしれない。


 「あたしは……。やっぱり平良とは一緒には……。でもでも、そんなのは嫌だ」


 落ちていく灼は消えて行く自分の意志に恐怖した。





 俺はその瞬間、どれだけの時間が経過したのか、全く自覚がない。


 宙に放り出された灼を追いかけるのに夢中だった。


 馬防柵に弾かれそうな灼を寸前で捕まえることが出来たが、肝心の俺は土塁に打ちつけられ、塹壕へ転がり落ちた。


 遠のきそうになる意識を奮い起こし、叫ぶ。


 「灼! 灼!!」


 やがて、ゆっくりと目を開ける灼。


 「大丈夫か? 全く無茶しやがって」


 俺は安堵と野次を含めて、灼の頭をなでる。


 灼も堰切れたかのように、大きな栗色の瞳に大粒の涙を浮かべた。


 「こ、怖かったよう……」


 俺は軽く灼をこづく。


 「っ痛?」


 「心配掛けやがって。そもそもお前がバイクに乗るってだけで、俺はどんだけ……」


 言葉が詰まって出てこない。ただ目の前の幼馴染が無事なだけが。


 それだけで俺は満足だった。


 「……ごめん。でも、平良が悪いんだよ?」


 「俺?」


 灼は涙をふり払い、自明の理と言わんばかりに言う。


 「だって、あたしと話してて疲れるとか……」


 俺は改めて言う。


 「いや……だから。あれは歴史の話をしてると、いつも喧嘩になるからであって」


 必死に弁明する俺の胸に顔を埋める灼。


 「……好きなの」


 くぐもって聞こえないかのような声で囁く灼。


 しかし、意を決したのか、顔を上げ、まっすぐ俺を見て言う。


 「あたし、好きなのッ」


 確かに届いた灼の気持ちにうろたえる俺。


 「あたし、あんたと歴史の話をするのも、喧嘩するのも、ぜんぶ……、ぜぇーぶ好きなのよッ!!」


 つらそうに瞳を逸らす灼。


 「だから……だから。勝手にあたしから離れないでよォ!!」


 最後に俺の胸で大泣きをする灼。思わず灼の頭を優しく撫でた。



 俺は灼に何を求めていたのだろう?


 灼は俺に?


 二人で愉しく歴史の話をしていた小学校の頃を思い出す。


 「すまん。俺が悪かった」


 俺は灼を抱きしめる。



 「ぐぉ、っほん!!」


 突如、部長の慇懃な咳で俺たちは現実に戻された。


 「いや、このまま見ていても愉しいのだけど、そろそろ勝敗を決めてもいいかね?」


 部長がわざとらしく遠慮気に言う。


 灼が顔を真っ赤にして俺を蹴り、離れた。


 対応の豹変ぶりに不平を感じた俺をよそに、ジャッジが下った。


 「勝者は歴史通り……、織田信長でぇーす!!」


 部長の宣言に織田の兵士は雄叫びを上げる。観覧席からも歓声が上がった。


 蹴られた俺は、のろのろと起き上ったところで、灼が手を差し伸べる。


 「負けたわ。あんたの文献学認めてあげる」


 灼の言葉に俺は後ろ頭を掻く。


 「いや、俺こそ騎馬隊の存在を疑ってた。逆説的に信長がここまでしなきゃ勝てない存在だったわけだ。今回はお前が正しいよ」


 はにかみ頬をふくらます灼。


 「いいわよ、そういうふうに言わなくても」


 「そんなことはないぞ。信長だってチェリニョーラの戦いを知らなければ、三方が原の二の舞だったかもな」


 したり顔で言う俺に、たちまち灼の表情が豹変する。


 「ちょっと待って。チェリニョーラの戦いって1501年にスペイン軍司令官ゴンザロ将軍が鉄砲で、当時欧州最強だったフランス軍重装騎兵に圧勝したってやつよね? あんたまさか……ルイスフロイスがそれを信長に教えたって思ってないよね?」


 「……悪いかよ?」


 俺の返答に対し、いつもの口癖を連呼する。


 「ありえないッ! ありえないッ!」





 ……こうして。



 俺たちは論争を繰り返す日々に逆戻りするのだった。



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