いつだってボク達はこの瞬間の為だけに息をする
貯金を切り崩して買ったマンションの一室は、ほぼほぼ本で埋め尽くされた。
一部は書庫と呼べる状況で、耐震性に自信を持っているが、駄目だったら文字通り本に埋もれて死ぬことだろう。
まあ、本が好きなら喜ばしい死に方だ。
苦しくなければ、良いなぁ。
そんなことを考えながら、実家の浴槽よりも大きめの浴槽に上半身を沈めていた。
上下共に部屋着のまま、足を浴槽の縁に乗せながら、ゴポゴポと空気を吐き出し水泡に変える。
入水、よりもお粗末なものだが、手軽だ。
つまり、自殺中だ。
肺がぎゅうぅっと締め付けられるような感覚と共に、ゴポポッ、と勢い良く肺から残り僅かの空気が漏れていく。
反射的に空気を求め、口を開くと、水泡の音が更に大きくなる。
お湯を少量飲み込んだところで、浴槽に腕が突っ込まれ、その腕はボクの胸倉を掴んで引き上げた。
浴槽からお湯の逃げ出す音を遠くに聞き、噎せ返る。
喉も鼻も、ツンと痛む。
入水は何度か経験済みだが、そのツンとした痛みと、無理矢理肺に取り込む空気には、なかなか慣れない。
「ゲホッ、ゴホッ……おえっ」と最終的には嘔吐きながらも、未だ胸倉を掴んで離さない手の持ち主を見た。
青みがかった黒髪は、男にしては長めで、前髪に至っては、片目を隠すように伸ばし、流している。
露出した方の目は、髪と同じように青い光を宿した黒目で、細くすればするほどに、その光は強く鋭い。
「やあっ、ゲホッ。オミくん、こんばんは……」
ぺっぺっ、と飲み込んだお湯を、唾と一緒に吐きながら言えば、眉間に深いシワが刻まれた。
簡単に言えば、怖い顔、というやつだ。
「怖い顔」口を突いて出てしまう。
それでも、彼――オミくんは無言で、胸倉から手首へ掴む場所を変える。
そうして、やはり無言で浴室からボクを引っ張り出した。
浴室を出て直ぐに敷いてあるマットの上に立たされ、髪から服からと滴り落ちる雫を見る。
服が水気を吸って、非常に重い。
着慣れた薄手のパーカーですら、肩からずり落ちている。
そんなボクを置いて、オミくんは脱衣所にまとめて置いてあるバスタオルを手に取り、ボクの頭に被せた。
使い慣れた柔軟剤の匂いが、微かにする。
ぼんやりしている間に、身ぐるみを剥がされ、目を瞬いている間に、新しい部屋着に変わっていた。
こちらも、柔軟剤の匂いがする。
さて、オミくんと呼び、彼と言ったからには、相手の性別は理解出来るだろう。
ボクは、産まれた頃から変わらずに女の子で、オミくんとは異性に当たる。
どんな関係かと問われれば、端的に幼馴染みと答えるが。
幼少、詳しく言えば、小学校に入学してからの付き合いだ。
現在ではお互いに成人済みなので、それなりに長い付き合いであることが分かる。
付き合いの長さは、良いが、性別の違いは多分、良くないのだろう。
年頃を超えたにせよ、物心は完全に付いた年齢で、幼馴染みの異性が幼馴染みの異性を着替えさせる。
うむ、言葉にしてみると、なかなかに背徳的な不健全な色っぽさ。
一人勝手に頷いている間にも、着替えが完了し、浴槽に貯めたお湯が抜かれ、頭をガシガシと拭われ、ドライヤーでしっかりと髪を乾かされている。
こういうのは、至れり尽せり、というのだ。
すっかり身綺麗にされてしまったボクは、寝室のベッドの上に座り込み、はふ、と欠伸を漏らす。
我ながら、マイペースだとは思う。
そんなボクを尻目に、ドライヤーを片付け、ボクの首周りに引っ掛けていたタオルを抜き取り、持っていくオミくんは忙しない。
両足を意味もなく揺らし、再度寝室に戻って来たオミくんを見る。
眉間のシワは、なくなっていた。
「オミくんは、実に世話好きだねぇ」
ぱたた、と爪先で毛の長いラグを叩く。
目を細めたオミくんは、深い溜息と共に、問答無用でボクの顔を正面から鷲掴みにした。
「お、おぉ……?」顔を鷲掴みにされた状態で、勢い良く後ろに体を倒される。
何時間も掛けて選んだダブルサイズのベッドが、軋む音を響かせた。
見慣れた天井を見上げ、オミくん、と呼び掛けるが、何故か今度は腕を引かれる。
ベッドの上で、ズリズリと引きずられ、しっかりと枕に後頭部を沈めることになった。
もう少し、こう、優しくして頂きたい。
後頭部が摩擦熱で擦り切れそうだ。
「寝ろ」
「……まだ二十一時ですけど」
ベッド脇のナイトテーブルに置いてある時計を見れば、デジタルで『21:08』と表示されている。
こんな健全な時間、今時の小学生でも起きていることだろう。
しかし、オミくんはバサーッと掛け布団を広げ、ボクの上に掛ける。
置いてあった、しろくまの抱き枕も、いつの間にかボクの腕に納められていた。
ああ、これこれ、この抱き心地。
「俺は別に世話が好きな訳じゃない。面倒臭いこと、この上ない」
寝室には、デスクと回転椅子も置いてあり、オミくんはその回転椅子をベッドサイドまで引っ張りながら言う。
ガラガラ、という音が合いの手のように入り、何となく眉を下げる。
寝室にもある本棚からは、最近買ったばかりのハードカバーの小説を取り出す。
流れるような動作で回転椅子に座ったオミくんは、そのまま本を開く。
「お前は、手が掛かる」
「まあ、薔薇の手入れの方がもう少し、気を抜けそうなものだね」
ハハッ、と笑い声を漏らすが、オミくんは納得がいかないのか、眉を寄せる。
その割には、表紙を開き、目次を開き、序章のページを開いているが。
意思のある扱いにくい人間と、意思のない扱いにくい植物。
ボクならは、後者の方が良い。
断然マシだと言える。
「それで?」「うん?」と紙同士の擦れる音の間で、お互いに首を傾げた。
視線を本からボクへと移したオミくんは、長い前髪を首を傾げた方向へと流しながら「今回の自殺未遂の理由は」と問う。
いやはや、そもそも、自殺未遂になったのはオミくんが来たからだろうに。
片目を眇め、頷き、端的に答える。
「苺タルトがねぇ、売り切れていた」
はぁ、浅い溜息。
艶やかな赤色を思い出すと、口の中には唾が溜まり、胃の辺りがきゅうと音を立てる。
「――は?」
素っ頓狂な声を上げたオミくんは、ほぼ反射で本を閉じていた。
青い光が薄まり、黒目が強くなるのを見て、再度「苺タルト」と繰り返す。
好みがあるので、食べたことがあるだろう、とは言わないが、知ってはいるだろう。
寝返りを打ち、オミくんの方向へと体の向きを変えるが、本人は眉を寄せ、瞬きをしており、何だか忙しない。
何事かを言いたげに動く唇は、薄らと光っている。
苺タルト――魅惑の果実、鮮やかな真っ赤な果実をふんだんに使ったスイーツ。
サクサクとしたタルトの土台に、甘さ控えめながらに濃厚なクリームと、程良く酸味の効いた甘酸っぱい苺のコラボレーション。
苺が好きだ。
ならばショートケーキでも良いのでは、と言われるが、苺を使う量が違う。
後、個人的にスポンジと生クリームも言いけれど、タルトの方がサッパリしている。
「……どこの」苦虫を噛み潰したような、顔と声のオミくん。
別段、甘い物は嫌いではないはずだが、凡そ、たかだかタルト一つで、と思っているのだろう。
「ほら、駅を一つ行ったホテルの」抱き枕を胸の上に置き、掛け布団の端を握りながら答える。
ビッフェなんかもやっているホテルを思い出し、苺タルトへの欲求は強まった。
基本的に常日頃、食への関心は薄く――もっと正しく言えば、食事に時間を裂きたくなく――実家を出てからは一日一食でも食べれば良い方だ。
空腹は大して気にならない。
睡魔には敏感だが、空腹には鈍感に出来ているらしい。
諦め切れずに「ああ、苺タルト……」なんて溜息が出る。
当然、それに対してオミくんは、お前何言ってんだ的な顔をした。
苺タルト一つで、自殺未遂なんて格好も付かないだろう。
生憎、格好を付けたいと思ったこともなければ、格好の付くようなタイプではないことも知っているが。
今日は苺タルトの夢を見そうだ。
きっと白いテーブルの上に置かれた、鮮やかな赤が、フォークを差し込む前に霧散するような、物悲しい夢。
態とらしく鼻を啜れば、オミくんは閉じた本を開き直し「お前は、生きるのが楽しそうだな」と嫌味を言い出す。
楽しいはずがないだろうに。
苺タルト一つで一喜一憂出来ることは、非常に人生を謳歌しているように見えるが、食べられなかったら死にたくなるのだ。
これで人生楽しいなら、ホームレスになったって仕事しなくていいんだと万歳三唱だ。
「楽しく見える?事ある事に首吊り、入水、飛び降り、飛び込み、服薬、練炭と繰り返す人間が」
「理由が大したこともなくて、どれもこれも失敗に終わるなら」
静かに本のページを捲るオミくんは、それに、と溜息混じりに続けた。
「お前の死にたい、死ぬ理由なんて後付けに過ぎないだろ」
スゥと音を立てて細くなる瞳。
その瞳を縁取る睫毛は長く、その端正な顔に小さな影を落とした。
流石に、付き合いが長いだけある。
学生とは違う関係性も築ける成人後も、変わらない関係のままに、互いにダラダラとしているが、やはり、悪いことではなかった。
「そりゃあ、そうさね。生きてるから死ぬ、自然の摂理。なら、自殺だって、まあ、やり口は違えど、結果は同じさ」
これはあくまでも持論である。
所謂、死にたがりに部類される自分自身を肯定するためのものだ。
胸に巣食った死にたいという思いは、忘れることなくふくふくと肥え、育ち、皮膚を突き破って飛び出そうとする。
好きな作家の遺書に『何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安』なんて一文があった。
正しく、それだろう。
最も正しく、そして正確に相手に伝えられる死にたい理由は、それだ。
「不毛だと思わない?」
枕が歪み、頭の位置が僅かにズレる。
不快感を覚えては、頭を動かし、掛け布団を動かす。
「ボクの自殺も、それを未遂にするオミくんも」
繰り返されるそれは、どちらかが諦めれば終わるだろう。
しかし、それがいつの話なのかは、当事者であるボクにも分からない。
現にオミくんは目の前にいて、ボクは苺タルトを諦め切れていないのだから。
「どれだけ沢山の本を集めても、読んでも、その倍以上の新書がどんどん出る。それと同じだよ」
オミくんの持っているそれも、一日過ぎれば旧書と呼ばれてしまうかもしれない。
部屋が本で埋まるのが先か、床が抜け落ちるのが先か。
物理的な考えだと、後者かな。
キィキィと小動物の鳴き声にも似た音が、沈黙を消し去ろうと響く。
回転椅子の金具だろう。
オミくんは、回転椅子を軋ませ「それでも本は、集めるだろ」言う。
「不毛だと知りながらも、本を集めて、部屋のあちこちを本で埋め、人の住む場所よりも本の住処にするだろ」
「うん。まあ、もう一部屋欲しいね」
マンションは丸っと一つの部屋を買うので、隣の部屋も買って、壁をぶち抜いて繋げてしまいたいと思うよ。
一人深く頷くボクの考えは、オミくんに正しく伝わっているのだろうか。
「なら、それと同じで俺も不毛なことを続けるだろ。お前が止めるか、俺が止めるか」
「それは、何と言うか、先の見えない長いお話だね」
ぼんやりとした不安と同じくらい、ぼんやりとした話である。
先の見えない未来と同じくらい、先の見えない話だと思う。
静かに目を細めれば、ボクの伸ばしっぱなしの前髪に、オミくんが手を伸ばす。
程良く焼けた肌は、男らしく節立っているが、爪は柔らかな曲線を描いている。
その爪をぶつけないように、丁寧に、前髪を掻き上げた。
遮るものがなくなった視界で、オミくんが薄く笑んでいる。
乾燥を防ぐために塗っていると思われる薬用リップで、唇が艷めき、緩やかな曲線を描いていた。
それが、女としては悔しがるべきだと思う程に、綺麗だ。
「人生なんて、先の見えないものだろ」
「まぁ、ねぇ。超能力も異能力も持ち合わせていないからね」
まこと、残念なことに。
「ただ、お前の明日は予知出来るな」
ふぅ、と態とらしく吐こうとした息を呑む。
オミくんは相変わらず、その顔に笑を貼り付けており、瞳の青い光を強くした。
目球を抉れば、宝石になりそうなくらい、光っている。
それを真正面から、しかしだらしなくも布団に潜り込みながら、見つめるボク。
乾いた笑い声を、やはり態とらしく漏らして、その言葉の続きを、そして答えを促す。
「それは――ハハッ、少し聞きたいかも」
「お前は昼頃に起き出して、ご所望の苺タルトを満足いくまで平らげる」
長い睫毛を揺らしながら、時間を掛けて瞬きをするオミくん。
「そしたら、一日満足して、次の日までは生きたくなる」
ハラハラと掻き上げたはずの前髪が落ちてきて、オミくんの指先が離れていく。
忙しなく目を瞬かせるボクは、まるで鳩が豆鉄砲を喰らったような顔だろう。
それは、それは。
これは、これは。
胸の中がワクワクした。
クリスマスや誕生日の子供のような心持ちは、とても、酷く、懐かしい。
遠い記憶を漁っても、五年以上は遡る必要があった。
「それは、悪くないかも知れないね」
離れていくオミくんの手首を掴む。
ボクの手首を掴んだオミくんの手は、ぐるりと手首を一周して指先同士を触れ合わせていたが、残念、ボクには出来なかった。
それでも、どこにそんな力があった、と問われる勢いで、その手を引く。
ガタン、と回転椅子が音を立てた。
オミくんが片手で開いていた本は、宙を舞い、ベッドの隅へと落ちていく。
悪くない、実に悪くない。
寧ろ、とても良い。
「『まことに人生はままならないもので、生きている人間は多かれ少なかれ喜劇的である』なんて、実に良く言ったものだねぇ」
「人生なんてままならないものだろ」
「ハハッ。本当、そう思うね」
ベッドに倒れ込んだオミくんが鼻で笑い、ボクはきゃらきゃらと笑ってみせた。
ボクの人生をままならない状態にしている癖に、良く言ったものだ。
それこそ、良く言ったものだろう。
健全な時間に、ベッドの上で笑い合うボク達幼馴染みを、ページの端が折れた本が、恨めしそうに見つめていた。