地鏡
たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
白い太花緒の焼き桐下駄。
紺地に、花を束ねた花輪をモチーフにした浴衣。
浴衣の柄の薄紫や薄桃の花に合わせた、淡い桃色の半巾帯。
照れ笑いを浮かべながら、彼女は挨拶代りに軽く手をあげた。
「かえってきちゃった」
「かえって……、そうかお盆だもんな」
彼女は――クラスメイトだった桃木は、耳ぎわの髪を指でもてあそびながら「うん」とはにかんだ。
つられるようになんとなく目がいった桃木の髪。いつもはブローだけで済ませていたはずなのに、今日は耳ぎわの髪を左右一房ずつ残して、あとはざっくりと後頭部でまとめたアップスタイルになっており、鼈甲の玉簪が挿してあった。
「めずらしいな」
思ったことをそのままもらしてしまった。すると桃木は驚いたように目を丸くする。
「なんだよ」
「あ、うん。だって大和くんが気づいてくれるなんて、それこそ『めずらしい』ことだもの」
たしかに桃木のいうとおりで、いつもの大和だったら気づかないか、よしんば気づいたとしてもなにも口にしなかっただろう。
自分でも自覚があるだけに大和はばつが悪い思いで目を逸らした。
再び流れ落ちてきた汗を手の甲で拭った大和は、話題をかえようとしてぶっきらぼうに訊ねた。
「親のとこにはもういったのか?」
「うん、いったよ。両親と親戚に挨拶してからこっちにきたから遅くなっちゃった。……ごめんね」
「なにが?」
『ごめん』というのは家に訪ねてくるのが遅くなったことだけではないはず。
そしてその予想は当たっていた。
桃木は俯いて弱弱しくこたえた。
「約束……守れなくて」
大和は何度か桃木をチラ見しては視線を逸らすということを数回繰り返してから、ようよう口を開いた。
「それ……」
大和がいう『それ』がなにを指しているのか視線でわかったらしい桃木が、自身が着ている浴衣に目を落とした。
「そうだよ。これ、あの日に着ていくつもりだったの」
大和はギュッと拳を握りしめた。
深呼吸をして覚悟を決める。
ゆっくりと体ごと桃木と向き合う。
「ずっと待ってた」
「うん」
「桃木に言いたいことがあって、ずっと待ってた」
「うん。ごめん」
「おまえが悪いんじゃない!」
怯えたようにびくりと跳ねた桃木の肩を見て、大和の視線はまた右往左往した。
「あ……悪かった」
「ううん、大和くんは悪くないよ」
なんだか謝罪合戦みたいだな、と大和は手のひらで目を覆うようにかくして乾いた笑いをもらした。
「俺、桃木のことが好きだ」
ようやっと伝えることができた言葉。心。
大和はほっとして手をおろした。
凝り固まっていたなにかもがほぐれた気がして、言葉が自然に紡がれる。
「その浴衣、似合ってる。あんまりきれいになってたんでびっくりした」
素直になれば表情もそれにならうらしい。大和は言いながら微笑んでいた。
対して桃木の瞳は見る間に潤んでいった。
「私も」
はらはらとこぼれ落ちる涙が桃木の声を震わせる。
「私も大和くんのことが好き。あの日もこの浴衣を着て一緒に花火を見たかった」
「花火なら……」
桃木が言う打ち上げ花火は無理だが、家庭用の花火ならまだ残っている。
「それでもいいから見たいな」
「じゃあ取って来……」
家の中に戻って花火を持ってこようとした大和は、踵を返したところで足をとめて勢いよく振り返った。
「あ、でも、おまえ……」
「日が暮れるまでは大丈夫」
「……消えたりしないか?」
「ちゃんと待ってる」
「ほんとうか?」
「うん。私、花火が見たい」
懇願するような桃木の瞳に背中を押されるようにして、大和は大急ぎで家の中に入ると、花火とマッチを手にして戻ってきた。
息を切らす大和の前には、先ほどと変わらない位置に立っている桃木の姿があった。
安堵して大きく息を吐きだす大和を見た桃木がくすくすと笑う。
「笑い事じゃない」
「ごめん。でも大和くんらしいと思ったらなんか嬉しくなっちゃって」
そういわれるとなにも言いかえせなくなった大和はがしがしと頭をかいてから、庭に置いてあったバケツに水を汲んだ。
「桃木にはかなわないな」
決して不快な感情ではなく、どこか温かくなるような穏やかな空気が心地よい。
「ほら」
準備を整えた大和は、取りだした花火を一本桃木に差し出した。
その花火を一瞥して困ったように笑う彼女。
「あ……そうか。ごめん」
大和が謝ると、桃木は慌てて首を横に振った。
「気にしないで。私は見ているだけで十分だから」
大和は一つうなずくと、持っていた花火に火をつけた。
「きれい……」
一本目の花火を見た桃木が一言呟いただけで、あとは二人とも無言で次々に火の花を咲かせる様を眺めていた。
そうしているうちにゆっくりと空に暮れの気配が漂い始める。
最初に気づいたのは桃木だった。
「そろそろいかなきゃ」
花火を見ていた大和が、弾かれたように顔をあげる。
顔をしかめて今にも泣きだしてしまいそうな大和に対して、桃木は満足そうにすっきりとした顔をしていた。
大和が桃木の存在に気づいたときから一歩も動いていない彼女。
意を決した大和がその距離を縮める。
一歩。二歩。三歩。
そっと持ち上げた手で彼女の頬に触れようとして、けれど少し手前で留まってしまった手は、軽く握ったあとで力をなくして落ちていった。
「来年も……かえってこれるのか?」
「かえってくるよ。でも……こうやって会えるのはこれが最後」
「そっか」
寂しさや悲しみといったものはまだ心の中に残っている。それは大和だけではなく桃木も同じだろう。
それでもこうして会えたことでずいぶんと楽になった。
「サンキューな」
大和はにっこりと笑って礼を言った。
つられたように笑う彼女の笑みが眩しくて、大和は目を細めた。
ゆっくりと腰をかがめて顔を寄せる。
慎重に位置をあわせて、温もりも柔らかさも感じられない形だけの口づけを。
二人して見つめあったまま。
言葉にならない想いを、相手の瞳の中にも見つけて。
そしてまた新たな想いが同時に沸き起こる。
刹那の時を惜しむように目で語り、心を交わす。
徐々に桃木の姿が日暮れとともに霞んでいく。
いっしょに花火を見ようと待ち合わせたあの日。桃木は事故に巻き込まれて亡くなった。
初盆で迎え火に迎えられてかえってきた桃木の魂は、送り火によって送られた。
崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ大和は、両手で顔を覆う。
今だけは。
とめどなくあふれるものをすべて汗でごまかせる今だけは。
すべての想いをこめて、ただひとりのために――。