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タチアーナ・シリョーツェルの愛執(1893年)

スクリャービンの二番目の妻、タチアーナ・シリョーツェルの話です。

 わたしが彼に初めて出会ったのは、わたしがまだ十歳の頃だった。

 ヨールカ祭(クリスマス)だった。わたしはモスクワのパーヴェル伯父さまの家に来ていた。夜には伯父さまの教え子やモスクワ音楽院の知人を招いてパーティが開かれ、そこに彼も招待されていた。

 彼は他の招待客のために居間のピアノを弾いてみせた。軽やかに鍵盤を滑る指先、幻のように震え響く音色……きらきらと輝く光の中で天使が彼を祝福し、わたしはたちまち彼に魅了された。

「彼は、若手の中では最も有望な音楽家になるわ」

 イーダ叔母さまが、隣に立つパーヴェル伯父に囁いた。彼は演奏を終え、ピアノのまわりに人が集まる。パーヴェル伯父さまの教え子の、ヴェーラ・イサコヴィチが彼に駆け寄り、豊かなブルネットを揺らして、紅く染まった頬で彼に賛辞を贈った。彼も笑顔で彼女に応える。その光景はまるで一枚の絵のようで、胸が締め付けられた。

「有望か……そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 伯父さまはアルコールの匂いを撒き散らしながら、独り言のように呟き、イーダ叔母さまの不興を買った。

 彼はヴェーラに椅子を譲る。ヴェーラが弾き始めた曲は、昨年発表された彼の作品らしい。遠巻きに囁くゲストの言葉から、そのことが知れた。

「私たちの教え子が、彼と親密な関係を結ぶのは、私たちにとって、とても意味の深いことだわ」

 そうは思わなくて、とイーダ叔母さまは、返答を期待していない口調で、伯父さまに話しかける。彼女ヴェーラは、繊細な彼の作品を弾ききったし、それに彼は満足げな顔をしている。心許ない気持ちが込み上げてくる。

「ターニャ、そろそろベッドに行く時間だ」

 ボリス兄さんが呼びに来なければ、わたしは声を上げていたかもしれない。目の裏がジンと熱く、痺れる。

 わたしはそのときまだ子どもで、けれど彼に少しでも近づきたくて音楽の勉強を始めた。才能がないのは、すぐにわかった。その間に、彼はイーダ叔母さまの仲介でヴェーラと結婚した。パーヴェル伯父が亡くなるとわたしと叔母さまとの縁はどんどん遠ざかり、わたしの彼への想いは募った。彼を忘れることなんてできやしなかった。

 作曲家とピアニストの夫婦の話題は、折に触れ、耳に入った。それは、決して悲観するものではなかった。彼は演奏旅行のために彼女を残して海外へと出かけることが多かったし、彼女は家庭を大切にするために止めていたピアニスト活動を再び始めていた。

「ボーリャ兄さん。わたしはあの人がどうしても欲しいの」

 わたしは二十歳になっていた。けれどわたしには彼に近づく手立てが何もなかった。

「ターニャ、君は音楽を続けるべきだ」

「わたしにあの女のような才能がないのを知っていて、そんなことを言うの?」

 わたしが兄を睨みつけると、彼はおどけた様子で肩をすくめた。

「君にはピアニストとしての才能はない。でもターニャの作曲のセンスは僕は好きだよ。とても哲学的だ」

 ボリスは大学で哲学を学んでいた。

「哲学的な音楽なんて、わたしにはよくわからないわ。それにそれが、あの人とどう関係があると言うの?」

「だから君は作曲の才能を伸ばすべきだ。しかるべき教師を雇って」

 そこでわたしは兄の言わんとしていることに思い至った。

「けれど、あの人は引き受けてくださるかしら」

「音楽院の教授職は辞めてしまったんだろう。しかもパトロンのミトロファン・ベリャーエフは病に冒されているそうじゃないか」

「……兄さん、わたしに協力してくださる?」

「僕も彼には興味がある」

 わたしはボリスの目を見つめ、彼もわたしを見つめ返した。わたしたち兄妹は無言で密約を交わし、それは彼が死ぬまで二人だけの秘密だった。

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