とある創造神の独白
元来、転生とは罰であった。
四苦八苦という言葉をご存じだろうか。現在では困った時苦しい時に使われている四字熟語だが、元をただせば【この世の苦しみ】を言い表していたそうだ。
むろん宗教によっては、その教義に違いがあるというのは、ご存じだろう。ここで語ろうとしているのは仏教についてだ。
転生とは罰
ならば、正しい在り方とは何かと、聴かれれば、解脱と答えるほかない。
輪廻転生の輪から外れる行為だ。
現代の日本においては、ライトノベルなる物が大流行していたと記憶している。
かつては熱狂していたのだが、もうだいぶ昔のことと成り、あやふやな記憶を何とか引っ張り出しているにすぎないので、あまり自信を持って語る事は出来ない。
ただ、流行している一つの風潮に【転生とチート】、この二つを=にて結ぶという設定が、大流行していたはずだ。
先に述べた、仏教の教義に照らし合わせれば、失笑物。何も考えずに書いたのであれば、自分自身の無教養さを世間一般に知らしめることとなるだろう。
それでも、この構成には納得できる。
広く語られているのだ。本来の趣旨から離れていたとしても、そう可笑しくはない。
方々で語られているし、今なお新たな、作品が製作されているのだ。設定だけを見て笑い出すものなどどこにいよう!
なので、今からする私の話を笑わずに聞いてくれ―――実は、私、異世界に転生したのだ。それも、神様として。
私が持つ力は、全知全能と呼ぶにふさわしく―――人や、物、果ては宇宙まで想像して見せた。しかも、片手間でだ。
ライトノベルを読み、その世界にあこがれを持つ人間なら、泣いてうらやましがることだろう。
立場を交換してくれとせがんでくるかもしれない。
だが、あえて言おう―――やめておけと。
考えてみてくれ。何の力も知識もない一般人がいきなり訳も分からない世界に転生ないし、トリップしたら、一体どうなるだろうか。
ここでは、剣と魔法の世界を基準としよう。王道的な展開は冒険者になることだったかな。
そこで、日銭を稼ぐために魔物を退治しなければならない。
ここで一つ疑問を投げかけようではないか―――君は、ゴブリンやコボルトやオークなどの魔物を殺せるのか。
もしかしたら、殺せるという答えがかえって来るのかもしれない。
では、田舎に住むおじいちゃん、おばあちゃんの家で農作業の手伝いをしなければならないとしよう。
そこでは、畑を荒らす、害獣がいて退治しなければならない。
きっと、イノシシなり、アライグマなり、イタチなどだろうが―――君は、これらを殺せるのか。
上のファンタジー的な生物なら殺せるが、害獣は無理だという答えが大きいかもしれない。
少し、踏み込んで考えてみよう―――魔物と害獣どう違う。
ここでは、空想の世界と現実の世界を比較検討しているので、実在する、しないはまず除外する。
―――どちらが、より有害であるかが語られるかもしれない。
ファンタジー世界の魔物の行動と言えば、畑を荒らしたり、人に襲い掛かったりと、まぁ、女性に乱暴を 働くというものがあるが、特殊すぎるので、置いておこう。
現実の世界でも、この程度やる生き物何て無数に存在している。
だから、冒険者と同じような機構、すなわち、害獣の駆除を生業とする人間がいるわけだ。
一概に、魔物退治と害獣駆除を同一視は出来ないだろうが、根本的な部分では大きな違いなどあるまい。
だからこそ、害獣を殺せぬ者は、異世界でも、魔物を殺すことなどできはしない。というのは言い過ぎだろうか―――そうではないと、私は思う。
そのような輩が、異世界で功績を挙げるのは笑止千万、ご都合主義としか言いようがない。
最も、猶予期間がある場合、ある程度は適応できるかもしれない。
果たして、冒険に出たいなどという奇特な人間がどこにいるのだろう。少なくとも特別な目的がない限り無理だと断言できる。
そうだな、英雄願望がある諸君が喜びそうなネタ。何らかのクエストに出たとしよう―――滞りなく、魔物の討伐を成功させ、意気揚々と凱旋する。
ここまでならば、美談と言えるだろう。だがもし、クエスト中に問題―――食料に虫がわいたり、虫に刺されたり、生水を飲んでお腹を壊したりしたらどうだろう。
輝かしい冒険が途端に泥臭く面倒な物になってしまう。だが、この程度の問題など、休日の息抜きにキャンプをしているだけでも遭遇するありふれた問題だ。
それがなぜ、秘境を旅する冒険者に起こらないと断言できる。むしろ魔物に遭遇するよりも、確率的には高いのではないだろうか。
最も、これはラノベを書いている、人物の願いを反映しているのだから、しょうがないのかもしれない―――多くの場合、こうした物語の主人公となる人物が目指すのは、ハーレムを築くこと。もしくは、無意識的に築いている事もある。
女である、私から言わせると、お前女舐めてんだろと、股間あたりに一発けりを放ちたくなるが、あくまでフィクションだ。軽く流そうではないか。
加えて、特別な力や才能を保有している―――そう、特別でありたい、誰かから認められたいという願望の結晶が、ラノベを作り出しているのだ。
一人の人間として、自分自身にだけ都合がいい世界なんて想像しないのは、分かっている。それでも、フィクションの中くらいではそうした物を追い求めてしまうのだろう。
伝説の中に出てくる勇者のような力を持っていたら、それはもう楽しいだろう。
ただ一人で千の魔物と向かい合い駆逐する、その英知賢者よりも深く新たなる理を世界にもたらす、ハーレムを築き上げ最後にはどこぞのお姫様と結ばれる。
誰もが、夢物語の中でしか体感できなかったものを現実のものとできる。
それこれ、地位、名誉、才能の発揮といった人間の欲求全てを満たすことができる。だが、そうして得られた幸福は、教室で友達とワイワイ楽しく過ごした場合の幸福、一体どちらが優れているのか―――断言してもいい、大した変化等ありはしないと。
多くの人が平凡を嫌う、特別でありたいと願う―――ならば、平凡は悪だと聞かれたら、首を振るうだろう。
楽しく過ごしていても、友達と喧嘩することもあるだろう、時には理不尽な間に合うのかもしれない。それでも、同じ教室に住まう仲間たちは、あなたのことを認めてくれているはずだ。お互いの価値観を尊重しあえているはずだ。
英雄と成り、世界を救ったとする。ここで、得られる幸福というのは、教室の中で得られる幸福と、規模が大きく離れているだけではないだろうか。確かに、多くの人に認められるだろうし、多くの人が理解者として賛同してくれるはずだ。
お姫様と、恋愛するのはさすがに無理かもしれないが、クラスメートとなら告白も恋愛もできる。
確かに、規模にこそ違いが存在するが、それだけの話なのだ。
どうして、異世界なら幸福を探求できるのに、現実世界では幸福を見つけられないのか。
最も、個人の為に調整された世界なのでしょうがないのだが。
そう言った意味では、天国と同じような発想なのかもしれない。最も、仏教においては、この天国すら、外れくじ扱いなのだが、それは置いといて。
死後の世界、この世で善行を積み重ねた人間は苦痛が存在しない、素晴らしい世界に行けるという考えは、広く存在している。
そう考えるのであれば、異世界転生というのは神様があっせんする、新たな天国の形と言えなくもない。
文明が進み、飢えや乾きに苦しむ必要のない現代社会において、生きることの苦しみという考えは薄れているのだろう。
生きるということが、苦しみより楽しいことの方が多いのだから、当然なのかもしれない。
だからこそ転生というものがもてはやされている。
そう考えるのであれば、自分にとって都合のいい現実を追い求めるのは、古代より続く人の業であるのかもしれない。
自分にとって都合の悪いことにふたをして、前だけ見て進む。こうあってくれ、こうあってほしいという願いを前面に持って来て、それがすべてかなえられる。
―――その光景のなんと美しいことだろう、何と素晴らしいことだろう―――そして、なんと幼稚な事だろうか。
どうして彼らは、前だけ見て進むことができる。成功する人物よりも、失敗する人物の方がはるかに多いというのに、高々転生した程度で、迷いもせずに、前へと進めるのだ。
全知全能の力を持つ私ですら、挫折し、前へと進めなくなったというのに。
冒険にしろ、元をただせば何日にも渡る長期の狩り、不衛生極まりない。
姫と結婚、知っているのか王様というのは重労働だと。
ハーレムなんて混沌した人間関係と表裏一体。
そもそもだ、強大な力を持った勇者を王宮の人々や民はどう捉えるだろうか。国がひどく困窮している状態ならば一時的にとは言え英雄とみなすかも知れないだがそれも一時的のものだろう。
何故か、異端とは排斥されるものなのだからだ。
たった一人で軍隊を相手どれるような化物を心の底から信じられえる人間なぞいるのだろうか。
仮にいたとしても、それは人としてではなく、人を超えた神としてだ。
積極的に友好を求めたりしても根底にある恐怖をぬぐい去ることはできないだろうと、私は考えている。
だからこそ、私は転生者を生み出した。
転生者にこそ私の後継がふさわしいとそう思った。
これは醜い嫉妬だとその自覚は存在している、でも、止めることができなかった。
ああ、これは私の我儘だ。
転生というのが真に楽園への道となるのなら、私に見せて見ろ。
真の幸福である、解脱なんぞよりも、素晴らしい光景を私に見せろ!
四苦八苦が存在するこの世界で―――
願わくば我が後継達転生者に幸多からん事を




