歩道橋
夏のある夜、伊吹は人通りの少ない道を歩いていた。居酒屋で酒を飲んだ帰りだった。半そでシャツを羽織り、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。通りの街灯には羽虫や蛾が群がり、その下をつまらなそうな顔をして進んでいた。街のほうは明るく、彼の歩く通りは暗かった。
伊吹は歩きながら、ぼんやりと自分の人生について考えていた。伊吹には付き合っている恋人も親友もいない。孤独感が無いわけではないが、伊吹はそのことをさして気にしていなかった。今はそれよりも深刻な問題があった。
伊吹は無職だった。
つい数か月前に、伊吹は勤めていた印刷会社を解雇された。小さな会社で、社員もそう多くなかった。
会社の経営の為に誰かを切り捨てなければいけない、と部長は伊吹を呼び出して言った。私としても非常に心苦しい、これは苦渋の選択だった、とも話していた。その言葉のすべてが嘘ではないだろう。けれどそれは、切り捨てられる側の人間からしたら、どう言葉を重ねられても無意味なものだった。結婚もしておらず、まだ20代の伊吹はもっとも切りやすい人選だった、と伊吹自身も理解はしている。それでも、納得はできなかった。
それから伊吹は気持ちを切り替えて、次の職を探すことにした。無理矢理にでも前に進まなければ、腐ってしまいそうだったからだった。
しかし、物事はそう都合よく進まない。再就職しようと3ヶ月歩き回ったが、成果は出なかった。今はまだ貯金があるから生活出来るが、もしこのまま仕事が無かったらと思うと、伊吹は恐ろしくなった。
街から離れると、明かりも少なくなった。時々、暗い道路を車が通り過ぎるだけで、人通りもない。静かなものだった。未来の見通しもないまま、漫然と家路につく。帰ったところで伊吹を待っているものは何もない。
帰り道には、薄汚れた歩道橋があった。ぼんやりとした頭で伊吹はそれを眺めた。それから、歩道橋の上から飛び降りる自分の姿を妄想した。実行する気はまるでなかったが、自分の死について考えることは嫌いではなかった。それを考えている間は、穏やかな気分でいられるからだった。酒に酔っていたのも手伝って、伊吹はもう少しだけ、その妄想に浸ろうと思った。歩道橋の上から、夜の景色でも見てやろうと歩き出した。
歩道橋に近づいて行くと、道路を挟んだ向こう側で、誰かが歩いているのが見えた。背中を丸めて歩く姿からは景気が悪そうな印象を受けた。眼鏡を掛け、赤い帽子を被り、口元には白いマスクをしていた。暗さも相まって顔はよく見えない。知らない他人も不景気なのかと思うと、溜め息が出た。
伊吹は歩道橋の階段を上り始めた。階段の途中には、煙草の吸殻が落ちていた。車の通らない道路を眺めながら階段を上っていくと、夏の夜風が心地よく感じられた。
歩道橋の階段を上り切ると、伊吹は歩道橋の上に人がうずくまっているのを見つけた。青い長袖シャツを着た若い女性だった。体調が悪いのかもしれない、そう考え、伊吹は声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
伊吹の声を聞くと、女性は顔を上げた。今にも泣き出しそうな目をしていた。
「……歩道橋から降りられないんです」
女性の声は切実だった。
「どこか具合が悪いんですか」
「……助けてください」
女性は縋るように伊吹に助けを求めた。実際、女性は伊吹を逃がすまいとジーンズをがっちり掴んでいた。それは病人や怪我人とは思えない力強さだった。
「何かあったんですか?」
丁寧に対応をしながらも、面倒なことになったんじゃないか、と伊吹は思い始めていた。
「私、ストーカーに追われているんです」
女性は体を震わせ、真摯な眼差しで訴えてきた。
「ストーカー、ですか」
「私の話、聞いてくれますか?」
女性は伊吹のジーンズにしがみ付いたまま言った。
「ええと、とりあえず離してください」
「私の名前は富福幸恵と言います。富に福に幸に恵まれそうな名前なのに、良いことが全然訪れない不幸な女なんです」
富福は自虐的に自己紹介をした。伊吹はもう逃げ出せそうにないと諦めた。
「はあ」
「ストーカーに付きまとわれていると気付いたのは、最近でした。数日前からひとりの男が道のあちこちで待ち構えていて、何を言うでもなくただ私の方を見てくるんですよ。で、どこに行ってもその男はいるんです。喫茶店に入れば私の席が見えるところにいて、コンビニに入れば雑誌を顔の前に持って、やっぱり私を見てるんです!」
女性はしゃがみ込むと、腕を抱えて身震いした。思い出すだけでもおぞましいといった様子で語った。
「雑誌コーナーに背を向けて立っている男がいたら、確かに怪しいですね」
「だんだんとストーカーはエスカレートしてきて、どこで調べたのか私の携帯電話にまで、電話をかけてくるようになったんです」
伊吹はストーカーの情報網も侮れないものだと思った。
「そして、今日は会社を出るとすぐに、例のストーカーに付け回されました。どこに行ってもあの男は付いてきました」
富福は台所に現れた昆虫を睨み付けるような目つきで遠くを見た。
「交差点で信号待ちをしている時、ストーカーの男が近づいてきてこう言ったんです。『富にも福にも幸にも恵まれない富福幸恵さんを幸せにできるのは俺だけだ!俺と一緒になってくれ!』余計なお世話だ、と叫びたかったのですが、それよりも恐怖心が勝っていたので、私は逃げ出しました」
怪しい上に変わった男だ、と伊吹は思った。それから、伊吹は気になったことを訊いた。
「あなたを追っているストーカーは今どこに?」
こんなにも熱心なストーカーなら、今も近くにいるはずだと思った。
「歩道橋の下に、赤い帽子を被った男がいるでしょう?」
女性は苦々しい表情で言った。伊吹は歩道橋から身を乗り出し、ぐるりと見渡した。
「ああ、分かりました。あれですね」
それは歩道橋に上る前に見かけた、不景気な雰囲気をした男性だった。歩道橋の周りをうろつくストーカーを見て、伊吹は不思議に思った。
「あの、ふと疑問に思ったのですが」
「何でしょう?」
「あのストーカーは何故近づいて来ないんでしょうか?」
歩道橋の下にいる男は、階段の手前辺りを行ったり来たりしていた。
「……私がこの歩道橋に上ったのは、偶然だったんです。逃げるのに疲れて、歩道橋の上で座り込んでしまって、もう駄目だと震えていたんです。けど、不思議といくら時間が過ぎてもストーカーは上ってこないんですよ。でも、諦めたわけじゃないみたいなんです。ストーカーはずっと、歩道橋の下で待ってるんです」
伊吹は不思議そうに首をひねった。
「何時間もここにいて、ようやく気付いたんです。あのストーカーは高所恐怖症なんだって……」
伊吹は呆れた表情で、階段下のストーカーを眺めた。よくも諦めずに待ち続けられるものだと、感心した。
「なんていうか、気持ち悪いですね」
「私、どうしていいか分からなくて」
「警察には連絡したんですか?」
「……ストーカーに番号を知られてからは、持携帯電話を持ち歩かなくなってたんです」
富福は今にも泣きだしそうだった。
「自分が掛けましょうか?」
「お、お願いします!」
女性の顔に安堵の色が広がった。伊吹はポケットから携帯電話を取り出した。警察に電話をしようと開くと、画面が暗かった。ボタンを適当に押してみるが、反応はない。何度繰り返しても、変わらなかった。富福の表情が期待から一転して、伊吹に訝しむような視線を投げかけた。伊吹は苦笑いを浮かべた。
「電池切れみたいですね。はは……」
「そんな……」
伊吹はここ最近、ほとんど誰とも連絡を取っていなかった。職探しに疲れ、貯金を食いつぶして酒を飲んでいた。社会との関わりが薄れ、人と話す必要もなかったせいか、携帯電話の充電を忘れていたらしい。
「いやー、役に立てなくてすいません」
「……いえ、いいんです。ここに人が通りかかっただけでもラッキーですから」
そう言う富福は少し落ち込んでいるように見えた。
伊吹は歩道橋の手すりにもたれ掛るようにして、夜の街を眺めた。この景色を見るために歩道橋に上ったのだった、と思い出した。
「……あの、もう私のことなんて放っておいていいですよ。あなたは偶然通りかかっただけなんですから」
俯き話す富福の言葉にはどこか諦めが混じっていた。
「伊吹です。貝塚伊吹」
「え」
「僕の名前です。声を掛けたのは自分ですし、今更無関係というのも薄情だな、と思いまして」
和ませようと、伊吹は笑いかけた。
「あの、でも、申し訳ないです……」
「夜に車の通りが少ないこの道で、わざわざこの歩道橋を使う人は多くありません」
夜空を見上げながら、伊吹は言った。
「?」
「僕は今日、ちょっとだけ自殺することを想像しながら、ここを通りました」
「そんなことを」
「ひどくつまらない理由なんですがね。少し前に失業したんです。そして、未だに無職です」
社会に必要とされていないんじゃないか、と落ち込むこともあった。けれど、誰かに執拗に思われるのも問題らしい。
「今は仕事を探すのも大変じゃないですか」
富福は同情するように言った。
「ストーカーに悩まされる方が、大変でしょう」
伊吹は軽く笑った。今度は自然に笑顔をつくることができた。
歩道橋の下にいるストーカーは退く気配がない。伊吹はあまり成功しなさそうな考えをひとつ思いついた。たとえうまくいかないにしても、何もしないよりはましだと思えた。
「富福さん。僕がストーカーと交渉してきます」
「そんなことできるんですか?」
「……ストーカーの根気強さから考えて、望み薄な気はしますが、もしかしたら何か変わるかもしれません」
「あの、気を付けてください」
伊吹は階段を下りて行った。高所恐怖症のストーカーが伊吹の動きに気付き、警戒していた。階段を下り切らないところで伊吹は一度深呼吸をすると、ぎらつく目をした男に声をかけた。
「こんばんは」
「……あんた、彼女と話してたな。知り合いか?」
マスクをしているせいなのか、それとも単に滑舌が悪いせいなのか、男の声は聞き取りづらかった。
「いえ、通りすがっただけです」
「……何の用だ?」
「上にいる富福さんがあなたのことで困っていると言っていて、出来ればあまり迷惑をかけてほしくないんですが」
「あんたには関係ない」
男の声には横暴そうな気配が滲み出ていた。
「確かにその通りです。しかし、困っている人間がいたら助けようと思うのが人情です」
ストーカーの男は自分が悪者のように扱われているのが気に食わなかったらしい。それも何の関係もない、見ず知らずの男に言われているのだから余計にそう感じられただろう。
「誰も困っちゃいない!富に福に幸に恵まれない彼女を守れるのはおれだけだ!」
彼女の名前を強調するように、ストーカーは言った。伊吹は一歩下がった。
「……分かりました。では、ここを退きますから、どうぞ彼女のところに行ってください」
「………」
伊吹が道を譲ってもストーカーは苦々しい表情をしているだけで動かなかった。マスクでよくは見えなかったが、多分そうだと伊吹は思った。
「高所恐怖症というのは本当なんですね」
伊吹は確認するように言った。
「うるせえ!」
ストーカーは怒鳴った。ほんの数段上にいる伊吹に手が出せないでいる。それがもどかしくて、しょうがないという様子だ。
「もう一度言いますが、富福さんは困っています」
伊吹は丁寧に繰り返した。
「……お前、彼女の男か?」
「いや、違います。ただの通りすがりです」
「……もういい」
男は冷たい口調でそう言うと、上着のポケットから折り畳み式ナイフを取り出した。刃渡り10cmくらいのそれは、街灯の光に照らされ鈍く輝いていた。
「……えと、何をする気ですか」
「彼女をここに連れてこい!」
男の握るナイフの切っ先が、伊吹の顔の前に向けられていた。明らかに冷静な判断ではない。が、男はそういう行動をとった。
「………」
「早くしろ!」
男が叫ぶ。伊吹は何か手はないかと模索した。しかし、正常な判断力に欠ける相手にどうすればいいのか、名案は思い浮かばなかった。
しばらくそのままの状態が続いた。ストーカーの男はナイフを構え、忌々しげに歩道橋と伊吹を睨み付けている。
「どうしてストーカーさんは、そこまでするんですか?」
伊吹は何でもいいから話をしようと思った。そう思ったのは酔っていたからかもしれない。
「あ?」
「いや、単純に気になって、深い意味はないです」
「……俺は富福幸恵の会社の同僚だ」
「……」
こんな男でもまともに職についているのかと、伊吹はショックを受けた。
「俺は彼女に惚れている。けれど、彼女は俺に気付いてくれなかった。だから俺は、目的のためなら、なんだってやる!」
「……なるほど、それくらいの気構えが必要なんですね」
「?」
ストーカーは、ぼそりと呟く伊吹を怪訝そうに見た。
「実は僕、失業中なんですよ。次の仕事が決まらなくて、正直腐ってたんですけど。ストーカーさんのおかげで、ちょっと頑張れそうです」
「何がだ?」
ストーカーが問いかけると、伊吹は歩道橋の階段を蹴った。伊吹の体が浮き、勢いよくストーカーに向かって、飛び蹴りを繰り出した。急な動作に反応できなかったストーカーはまともに顔面に蹴りを食らった。
「うぶっ……っ!」
ストーカーはアスファルトの地面に倒れ、ナイフは手から零れ落ちた。伊吹はナイフを拾い上げると、それを手で弄んだ。
「ナイフで喧嘩したことないでしょう?飛び出しナイフは握り込んじゃだめですよ。わざわざ持ち替える手間が出来てしまいますから」
「いっ、は、鼻が……っ!」
ストーカーは驚愕した表情で、伊吹を見上げていた。手は擦り剥き、顔からは鼻血が流れていた。
「さっきのストーカーさんの言葉で気付いたんですよ。目的のためなら、なんだってやる。その気構えが必要なんだって」
「な、何を……」
「いや、人が減ったら臨時雇用とかしてくれないかな、なんて思いまして」
伊吹は頭痛を我慢して笑って言った。酒を飲んだ後に急な運動はするものではないなと、こっそり反省した。それから、拾ったナイフの切っ先を倒れている男に向けた。
「な、何言ってんだ、お前……」
鼻血を流す男は、向けられるナイフに恐怖を感じながらも、伊吹の発言に呆れていた。
「そこで何をしてる!」
大きな声が伊吹とストーカーの男を振り向かせた。道路を走る自転車が近づいて来るのが見えた。伊吹はライトの明かりに目を細めた。自転車に乗っていたのは、警察官だった。
「そこの刃物を持ったお前、動くな!」
そう呼びかけられて、伊吹は自分の状況を確認した。鼻血を流す男にナイフを向けていた。そして、警察官が近づいて来ている。
「……っ!これ、返します!」
伊吹は慌ててそう言うと、ナイフをたたんで地面に放り投げた。
「あ、待てえ!」
警察官が叫ぶが、それを無視して伊吹は歩道橋を駆け上がった。急いで上がると、富福が心配そうな表情をしていた。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「ちょっとヤバそうなんですが、警察が来てくれたんで、もう大丈夫だと思います」
伊吹は歩道橋から乗りだして、歩道橋下を見た。警察官は自転車を降りると、ストーカーの男に駆け寄って声を掛けていた。警察官が歩道橋の上を睨むと、伊吹と目があった。
「あの、伊吹さん、ありがとうございます」
富福は伊吹に頭を下げた。
「何か礼を言われることなんて、しましたっけ?」
「はい。伊吹さんがあの男を蹴飛ばした瞬間、胸がスカッとしました」
富福は爽やかな表情で言った。
「ああ、あれですか、それなら良かったです」
「あの飛び蹴りは凄かったですよ!」
「酔拳の一種です」
伊吹が冗談めかしてそう言っている間にも、警察官は歩道橋の階段を上って来ていた。一歩一歩足音が近づいて来る音が、伊吹の耳にやけに大きく聞こえた。
「……それは良かったんですが、ちょっと面倒なことになりそうなんで、とんずらします!」
伊吹は警察官が上ってくる方とは反対の階段に向かって走りだした。富福がその背中に声を掛けようとすると、警察官の怒声が響いた。
「待てえ!そこのお前、止まれえ!」
警察官は歩道橋の上を走った。どたどたと大股で進むたびに、歩道橋は振動した。
「こら、止まれって言ってるのが、聞こえないのか!」
警察官は伊吹の背中に向かって、大声で叫んだ。
けれど、伊吹に止まる気配はまるでなかった。
そこで、足が止まったのは警察官だった。
「……歩道橋から降りられないんです」
富福が警察官の足を掴んで言った。
「おい、あいつを逃がすわけには」
警察官は伊吹を追おうとした。
「……っ、助けてください!」
警察官は富福を見遣った。
「……あー、お嬢さん?」
「助けてください!!」
富福が警察官を押さえているおかげで、伊吹はふらつきながらも歩道橋を下りられた。道路を挟んだ向こう側には、鼻血を流す男が座り込んでいる。鼻血を出している以外には、大きな怪我をしていないようで、伊吹はほっとした。
「おい、あいつが逃げちまう!」
歩道橋の上で警察官が叫んだ。
「今日は、本当に吃驚するくらい、歩道橋から降りられないんですよ!」
警察官に負けない声量で、富福も叫んでいた。伊吹はその声を背に、夜の住宅街に姿を消した。