第7話 二心一体のメロムメロカ
惑星ブラッシュワールドが加速的に崩壊へと向かう中、その「歪み」は辺境の酒場にまで確実に波及していた。
灰色狼の王国の下層街。日の当たらない路地裏に佇む酒場『紺色狼の歌』は、その名の通り、行き場を失った冒険者の崩れや、混乱に乗じて私腹を肥やそうとする悪党たちの巣窟と化していた。
店内に充満するのは、安酒の鼻を突く臭いと、焦げた肉の煙、そして何より濃密な「暴力の予感」だ。
「……ねえ、お願い。通して。僕、急いでるんだ」
その殺伐とした空間の真ん中で、場違いなほどか細い声が響いた。
声の主は、大きな革製のリュックを背負った一人の少年だった。名はメロム、15歳。
まだ幼さの残る顔立ちは、恐怖で白く強張っている。彼は震える手で、リュックの紐を強く、壊さんばかりに握りしめていた。
その中には、病に伏せる母のために、なけなしの金を叩いて買った希少な薬草が入っている。
だが、彼の行く手を遮るように、10人のごろつきたちが壁を作っていた。
リーダー格の男は、熊のような巨体に、数多の刃傷を刻んだ醜悪な顔を歪め、下卑た笑いを浮かべる。
「おいおい、坊や。この状況で『通して』だぁ? 冗談は寝て言え。外を見てみろよ。空からは鉄の化け物が降ってきて、王宮は燃えてる。法も秩序も、今この瞬間から消え失せたんだよ」
男は腰の重厚なメイスを抜き、メロムの足元を力任せに叩いた。
床の木材が砕け散り、破片が少年の頬を掠める。
「この街はもう終わりだ。なら、そのリュックの中身も、その懐にある金貨も、全部俺たちが有効活用してやる。……それとも何か? その細い腕で、俺たち10人とやり合おうってのか、ああん?」
ごろつきたちが一斉に卑俗な笑い声を上げる。彼らにとって、この非力そうな少年をなぶることは、滅びゆく世界で味わえる最後の「娯楽」のように感じられていた。
「だ、ダメなんだ……これは、これだけは……」
「ダメなのはお前の頭だよ!」
男がメロムの胸ぐらを掴み、強引に引き寄せた。酒臭い息が顔にかかる。
恐怖が限界に達したその時、メロムの瞳から、怯えの色がスッと消えた。
代わりに灯ったのは、銀色の光彩。
「……メロカちゃん、怒ってる」
「あぁ? 何を言って――」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
刹那。
瞬きをする間さえなかった。男の手の中にあったはずのメロムの肉体が、陽炎のように揺らぎ、消えたのだ。
「消え……っ!?」
直後、リーダーの巨体が凄まじい音を立てて宙を舞った。
メロムが放ったのは、ただの「体当たり」だ。
しかし、神速という概念を超えた速度で放たれた一撃は、大型の魔獣に衝突されたに等しい衝撃を男の腹部に与えた。
男は酒場の壁を突き破り、そのまま外の通りまで吹き飛んでいった。
「な、なんだ!? 何が起きた!」
「ガキはどこだ! 探せッ!」
残された9人が武器を構えるが、彼らの視覚はもはや「獲物」を捉えることができなかった。 メロムは走っていた。
酒場の壁、天井、テーブルの上。物理法則を無視した角度で、縦横無尽に駆け抜ける少年の足跡は、床に焼き付くような摩擦音を残していく。
「遅いよ。みんな、止まってるみたい」
メロムの声が、四方八方から同時に聞こえる。
一人の男が振り返ろうとした瞬間、彼の顎に凄まじい衝撃が走った。さらに別の男は、剣を抜く前に腕の骨を粉砕される。 メロムの「神速」は、ただ速いだけではない。加速すればするほど、その質量と威力は増大するのだ。
だが、メロムの顔にはまだ困惑と苦しみが浮かんでいた。
「う、うぅ……ダメだ、やっぱり僕じゃ、あいつらを完全に倒しきれない……」
身体能力は極限に達していても、メロムの心は「他人を傷つけること」にブレーキをかけていた。
中途半端な打撃では、血気盛んな悪党たちを完全に沈めることはできない。
倒れた仲間を見て逆上した残りのごろつきたちが、メロムの残像に向けて一斉にナイフを投げつけた。
「逃がすかよ、このバケモノがぁ!」
四方から迫る刃。避けることは容易だったが、その時、メロムの脳内で別の声が響いた。
『――交代よ、メロム。この汚物たちの処理、私に任せなさい』
「あ、メロカちゃん……うん、お願い……!」
メロムがその場で、くるりと舞うように一回転した。 その瞬間、酒場全体の温度が急激に低下した。
少年の短髪が、生き物のように背中まで伸び、眩い銀髪へと変わる。
着ていた簡素なチュニックは、魔力の奔流を受けて翻り、複雑な刺繍が施された魔法衣のようなシルエットへと変貌した。
幼かった顔立ちは、一瞬にして誰もが見惚れるような、だが寒気がするほど冷徹な美少女のそれへと書き換えられる。
二重人格の片割れ。神罰を司る少女、メロカ。
迫っていたナイフが、彼女の周囲数センチの場所で「静止」した。 目に見えない魔力の壁が、物理的な攻撃をすべて無効化しているのだ。
「下品な鉄屑ね。私の肌に触れようなんて、万死に値するわ」
メロカが、宝石のような瞳でごろつきたちを見据える。
彼女が優雅に右手を掲げると、その指先に小さな、だが太陽のように眩い光の球が出現した。
「な、なんだ、あいつ……さっきのガキと違う、女になって……!?」
「化け物だ! 逃げろ、こいつはヤバい!」
「逃がさないわ。お掃除は徹底的にやるのが私のポリシーなの」
メロカが指を鳴らした。
瞬間、酒場の床一面から、青白く輝く巨大な氷の槍が、牙のように突き出した。
「ぎ、ぎゃあああああああ!!」
ごろつきたちの衣服や足を貫き、彼らを床に縫い止める。殺しはしない、だが一歩も動かせない。
絶望に染まった男たちの頭上に、メロカが描いた巨大な魔方陣が浮かび上がった。
「神罰の光、降り注げ(ヴィナ)」
詠唱と共に、天井を突き破って純白の雷光が酒場へ降り注いだ。 神の怒りを体現したかのようなその光線は、ごろつきたちだけを正確に焼き、その意識を強制的に刈り取った。
爆風で酒場の什器は粉々に砕け、内装は一瞬にして焦土と化した。
静寂が訪れる。
立っているのは、煙の中で銀髪をなびかせるメロカだけだ。
「……ふぅ。少しはマシな空気になったかしら」
メロカは満足げに頷くと、再びくるりと回り、元の少年の姿――メロムへと戻った。
「あわわ……メロカちゃん、やっぱりやりすぎだよぉ。お店の天井、なくなっちゃったよ……」
メロムは焦げた床の上でおろおろと頭を抱える。だが、彼が店を出ようとしたその時だった。
ズゥゥゥン……。
街全体を震わせる、重厚で禍々しい波動が王宮の方角から伝わってきた。
メロムの背筋に、氷を押し当てられたような戦慄が走る。
「……メロム、今の、感じた?」
脳内でメロカが、これまでにない真剣なトーンで囁く。
「うん。すごく大きな『死』の塊が動いてる。……それに、あの鉄の天使たちを追い返した、とてつもない力が」
メロムは王宮を見上げた。
そこには、かつて自分が知っていた平和な王国の面影はない。
だが、崩壊する世界の中心で、何かが自分たちを呼んでいるような、抗いがたい運命の引力を感じていた。
「行ってみよう、メロカちゃん。僕たちの『役割』が何なのか、確かめなきゃ」
「ええ。この退屈な世界を壊した『主役』が誰なのか、私が直々に品定めしてあげるわ」
少年はリュックを背負い直し、一度だけ神速のステップを踏んだ。
次の瞬間、彼の姿は酒場から消え、王宮へと続く大通りに一条の光の筋だけを残していった。




