第17話 悪魔の軍師と蒼髪の厄災
南の果て、空を覆い尽くすほどの巨木が聳える「青色麒麟の王国」。
その世界樹の最頂部、雲を突き抜けた孤高の牢獄に、一人の少女が囚われていた。
名は、ドラコ。
透き通るような白髪に、光を失った灰色の瞳。彼女はエルフ族でありながら視力を持ち合わせていない。だが、代わりにあらゆる理を凌駕する異能を有していた。
――【万象聴解】。
彼女の耳は、隣の海のさざ波から、遥か彼方の戦場を駆ける兵士の心音までをも拾い上げる。その絶対音感は、飛来する矢の風切り音からその軌道をミリ単位で算出し、いかに神速の剣であろうとも、放たれる前の「筋肉の律動」を聞き取ることで、未来予知に等しい回避を可能にさせた。
かつて彼女は、その天才的な頭脳と聴覚を駆使し、椅子に座ったまま十の王国を盤上の駒のように滅ぼした。人々は畏怖を込め、彼女を「悪魔の軍師」と呼んだ。
「……静かすぎるのは、嵐の前の静止かしら」
ドラコが呟いた瞬間、牢獄の空間が歪んだ。 パチン、と何かが弾けるような音がし、鉄壁の封印が施された檻が、まるで玩具のように砕け散った。
「見ぃつけた! これ、私のコレクションに足りなかった『絶版の戦術書』だ!」
現れたのは、巨大な本を抱えた幼女、チャンク・チャントだった。
彼女はドラコの枕元に置かれていた、世界に一冊しか存在しない軍師の書を無造作に掴み取ると、満足げに笑った。
「中身はもう覚えてるんでしょ? なら、いらないよね。バイバイ、お姉さん!」
チャンクは再び黄金の光の中に消えた。
一世紀近く彼女を縛り付けていた檻は、幼女の気まぐれによって破壊された。ドラコにとっては、もはや書物など不要だった。彼女の脳内には、古今東西のあらゆる戦術と、この100年間に世界が奏でてきた「音」が完全に記録されている。
ドラコはゆっくりと立ち上がり、裸足のまま世界樹の枝を降り始めた。
100年ぶりに触れる王国の空気。行き交うエルフたちの喧騒。
かつて彼女が「守るため」に滅ぼした国々の怨嗟が、風の音に混じって聞こえる。だが、今の王国に漂う音は、かつてのそれとは異なっていた。
「……不協和音が混じっているわね。それも、ひどく耳障りな」
その時、下層の市街地から、喉を引き裂くような悲鳴が上がった。
「ひ、ひぎゃあああ! 頭の中に……頭の中に誰かがいる!!」
ドラコの耳が、異質な音を捉えた。
それは軽やかで、それでいて生理的な嫌悪感を呼び起こす、鈴の音のような笑い声。
「あはは! もっと踊ってよ! 君たちの耳、すっごく綺麗だね! 僕の妖精たち(お友達)にぴったりだよ!」
街の中央に立っていたのは、青い髪をなびかせた一人の少年――異世界からの来訪者、ウィンター・トッド。
彼は無邪気な笑みを浮かべながら、その指先から数多の透明な「羽」を放っていた。
それは、目に見えぬ寄生型の妖精。
トッドの異能によって放たれた妖精たちがエルフたちの耳や鼻から体内へ侵入すると、高潔だったエルフたちの瞳は一瞬で濁り、狂気に染まっていく。
「妖精さんが言ってるよ。『この世界は、もっとめちゃくちゃにした方が楽しい』って!」
「やめろ……来るな! あああああ!」
誇り高きエルフの戦士たちが、自らの髪を掻き毟り、隣り合う同胞を剣で突き刺し始めた。 それは戦略も、大義もない。ただ「妖精に憑りつかれた」ことによる、純粋な狂乱の伝播。
絶対障壁の内側で守られてきた理想郷は、たった一人の少年の「遊び」によって、阿鼻叫喚の地獄へと塗り替えられていく。
「……厄介な客人が来たものね」
ドラコは動じない。 彼女には、狂い叫ぶエルフたちの音の裏で、トッドが操る妖精たちの羽ばたきの「周期」が完全に見えていた。
だが、今の彼女に武器はない。
ドラコは再び耳を澄ませた。
王国の入り口、腐敗した障壁の穴から、猛烈な勢いでこちらへ向かってくる「三つの足音」を。
「一つは、死を繰り返す重厚な鼓動。一つは、血に飢えた狂戦士の脈動。そして一つは、我が王国の血を引く、迷える小鳥の羽ばたき……」
悪魔の軍師は、静かに唇を吊り上げた。 自分を解放したのがチャンクという混沌なら、この狂乱を鎮めるための「駒」もまた、運命が運んできたらしい。
「いらっしゃい、調停者。あなたたちが奏でる不協和音……どう解決してくれるのかしら?」
青色麒麟の王国は、内なる腐敗、外からの狂気、そして復活した軍師の知略が混ざり合い、未曾有の乱戦へと突入しようとしていた。




