5.ニコラスという男
お風呂なんて軽く考えていたけれど、湯浴みは1人ではさせてくれないし、身体も髪も自分では拭かせてくれない。いい匂いのするオイル全身に塗りたくられて、夜会用のものよりは幾分かカジュアルだけど前世の私であれば絶対に着ないようなドレスを着せられ、髪を丁寧に結い上げられ、しっかりとお化粧も施されて、ようやく朝ごはんのテーブルにつく。
「疲れた…。」
貴族の女性って毎日こんな事してるの?信じられない。
「ふふ、よく似合っていますよ。貴方に似合いそうな服を部屋にたくさん用意してありますからね。さあ、お腹が空いているでしょう。朝食にしましょう。」
本当に楽しそうに笑うニコラスを見ていると、とても誘拐犯には見えないが、言葉の節々に不穏なワードが散りばめられている。
「あの、部屋とは?一応お伺いしますが、誰のお部屋でしょうか?なぜわたくしはこの屋敷に連れてこられたのですか?侯爵邸に帰れますよね?」
回りくどく言っても、望んだ答えは返ってこなさそうなので、直球で質問してみる。
質問している間にも、エラとアンナ、そしてもう1人屋敷の執事と思われる男性が給仕を始めた。
「帰しませんよ。貴方は私の妻になるのですから。この屋敷を2人の新居にと思いまして。私の部屋の続きに貴方の部屋を用意してあります。」
「父が許すとでも?」
「お父上にも結婚の了承は取っていますよ。貴方もその場にいたではありませんか。」
「そのような事お話しした覚えは…」
あった。あったけど…
1週間ほど前、ニコラスが仕事の話でソフィアの父、ローゼン侯爵の元を訪ねてきた時だ。ソフィアが応接室に顔を出し挨拶をすると、ニコラスは彼女に禁断の話題を振った。
「もうすぐレイモンド殿下の婚約者指名の夜会ですね。どちらのご令嬢が選ばれるのでしょうか。もちろんソフィア嬢も招待させているのでしょう?」
「ええ、もちろんですわ。でも残念ながら選ばれるのはわたくしではございません。」
「ソフィアにもすぐにいい人が見つかるよ。こんなに美しく素敵な女性になったのだから。」
ローゼン侯爵は少し心配そうに娘の様子を伺う。
「そうだといいですわね。」
ソフィアは困ったような笑顔で答える。
「では、誰も貰い手がないようであれば、私が立候補しても?」
「もったいないお言葉です。」
ニコラスの熱の孕んだ視線を直視せずに、膝を折って答える。
「その時はよろしく頼むよ。」
ローゼン侯爵はニコラスの視線の濃度など気にも留めず、はははと可笑しそうに笑っていた。
…アレ、ですわね。誰がどう聞いても社交辞令のアレ。あの言葉をそう取るか、普通?悪い冗談よね?
「思い出しましたか?」
ニコラスは大真面目のようだ。
「それからお父上には、夜会で倒れた貴方を伯爵邸で介抱すると手紙を出しましたので、ご心配なく。」
ローゼン侯爵、娘の危機を察してくれるかしら。『そうか、ニコラスなら大丈夫だ』って安心しちゃってないわよね…。いや、してるかも。イルバートなら異変に気づいてくれてるかな。何とか上手く時間を稼がなければ、貞操の危機が迫っているわ。
熱を孕んだ視線を躱し、不穏なワードが散りばめられた会話に薄く反応し、何とか味のしない食べ物たちを飲み込み、地獄の朝食タイムが終了した。
ほっとしたのも束の間、ニコラスが立ち上がり、ソフィアの椅子の背後に回る。
「さあ、貴方のお部屋に案内します。こちらへ。」
彼はソフィアの右手を取り、反対の手で腰を抱き寄せ立ち上がらせる。急に詰められた距離感に恐怖を感じ、肌が粟立つ。
「そ、それよりも、テイルストン伯爵は植物の知識が深いとお聞きしたことがあります。お部屋の前に、ぜひお庭をご案内していただきたいです。」
慌てる私を見て、ニコラスはふふっと笑う。
「いいですよ。ではこちらへ。」
思ったよりも簡単に方向転換してくれた。安堵していると、ニコラスはソフィアの耳元に口を寄せ、「照れた貴方も可愛い。」と色気の滲んだ声で囁かれた。
照れていると受けとる、今の?もう、ストーカーの域よね。全部自分に都合のいいように変換されいてるんだわ。助けが来るか怪しいし、自力で隙を見て逃げよう。
「そうそう、ここは王都のタウンハウスではなく、テイルストン領にある別荘です。王都では見らない花もたくさん咲いていますので、気に入っていただけると嬉しいです。」
ここ、王都じゃないのね…。
逃げ出したところで、ソフィアの足じゃ王都までたどり着ける気がしない。ゲームオーバーの文字が頭をよぎった。




