夢の境界線

佐藤悠斗は、都内の小さな広告代理店で働く普通のサラリーマンだった。毎朝、満員電車に揉まれながら出勤し、夜はひとりで静かなアパートに戻る日々。そんな彼の日常は、ある晩から少しずつ色彩を帯び始めた。

　初めての夢は、悠斗が全く見たことのない古びた路地裏に迷い込むところから始まった。薄暗い街灯の下、ふと目に留まったのは、長い黒髪を風になびかせる女性の姿。彼女は、まるで悠斗を待っていたかのように、静かに微笑むと、一言だけ告げた。

「あなたの選択が、現実を変えるのよ」

　翌朝、目覚めた悠斗は夢の余韻に浸りながらも、普段通りの朝食をとっていた。しかし、通勤途中に、夢で見た路地裏にそっくりな場所が現実にも存在することに気づく。看板や雑踏の中に、あの不思議な空気が漂っているような気がしたのだ。

　その後、毎晩のように夢は続いた。ある夜は、悠斗が自分とは違う姿―小説家として名を馳せた自分―として、数多くの人々の悩みを解くシーンが広がっていた。別の日の夢では、町の人々が集う祭りの中、彼が一握りの言葉で運命を変える力を発揮していた。夢の中での出来事は、次第に彼の現実にも小さな変化をもたらすようになった。

　会社の同僚が「最近、あなたってなんだか前と違うね」と口にするようになり、悠斗は自分の内面に潜む何かに気づき始めた。夢と現実の境界が、次第に曖昧になっていくのだ。ふと、夢の中の黒髪の女性の声が、心の奥深くで囁くのを感じた。

　「選ぶのは、いつだってあなた自身」

　ある晩、いつものように夢の中でその女性と再会した悠斗は、彼女の後ろ姿を追ううちに、一つの扉が現れるのを見た。扉の向こう側には、希望に満ちた光と、同時に暗い影も混じっていた。彼は迷いながらも扉を開ける決心をする。すると、そこには―

　自分自身の未来が、断片的ながらも映し出されていた。夢の中の自分は、かつて抱いていた夢や情熱を取り戻し、現実の世界でも人々を助け、温かな絆を紡いでいた。だが同時に、何か大切なものを失ってしまうリスクも伴っていた。

　翌朝、悠斗はふと、夢の中で見た自分の言葉を、ノートに書き留めていることに気づく。そのノートは、まるで未来からのメッセージのように、彼の心に強く訴えかけた。「自分を信じ、選択する勇気を持て」という言葉。悠斗は、これまでの日常に埋もれた自分を振り返り、心の奥底に眠っていた夢への情熱を呼び覚ます決意を固めた。

　その日から、彼は会社でも自分の意見を積極的に発信し、プライベートでは友人との時間を大切にするようになった。夢の中での出来事が、現実の彼に新たな可能性を示していたのだ。どちらが夢で、どちらが現実なのか―もはや境界線は曖昧になっていたが、悠斗は確かなものを手に入れた。それは、未来への選択を自らの手で切り拓く勇気であった。

　そして、ある夜、夢の中で再び黒髪の女性が現れ、優しく頷いた。「あなたは、もう大丈夫。あなたが選んだ道は、確かに現実を変えている」と。悠斗はその言葉に胸を打たれ、静かに微笑みながら、目を閉じた。