第三話 オリーブ色の膚の死女神
夕飯は期待以上のものだった。たらふく肉を詰め込んで満足したカームは、鼻歌交じりに手入れの終わった剣を鞘に収める。
さて、じゃあそろそろ寝るかな、と伸びをしたとき、こんこん、と扉がノックされた。
「どうぞ。開いてるぜ」
ニートかユリウスのどちらかだろうと思い、軽く返事をする。
はたして厚い木製の扉から顔を覗かせたのは、ユリウスでもニートでも、ましてやフィアナやミラでもなかった。
「あれ?」
オリーブの膚と、黒褐色の髪。
どこかで見たその娘のことを思い出そうと努力する前に、簡単に記憶と目の前の姿が結びつく。
「もしかして、夕方の?」
彼女は確かに、夕刻街でぶつかった挙句に葡萄を台無しにしてしまった、あの娘だった。
こっくり頷いた娘は、カームにずいと左手を突き出す。
「これ……」」
その手にあったのは、あの時娘に渡したハンカチだった。
「これを届けに、わざわざきてくれたのか?」
カームの言葉にこくんと娘は頷く。見ればハンカチはきちんと折りたたまれていて皺ひとつない。火熨斗を当ててきたのか、藍染の木綿布はまだほのかにあたたかかった。
「ありがと……でも気にしなくてよかったのに。手間かけさせちゃって、かえって悪かったな」
娘は今度は首を横に振った。そんなことはない、と云ってくれたのだろうか。
「それに……用事、もうひとつあるから」
「もうひとつ?」
なんだろう、と訊き返せば、彼女は表情を変えることなく、淡々とその「用事」を口にした。
「うん。――――死んで頂戴?」
「……は?」
カームが言葉の意味を理解するより早く、娘が懐へ飛び込んでくる。
「うわッ!?」
咄嗟に身体を捻ることができたのは幸運以外の何ものでもない。訓練と称してしょっちゅう奇襲急襲闇討ちを仕掛けてくる騎士団の先輩らに、カームは初めて感謝した。
娘の手にあるのは、諸刃のナイフだった。槍の穂先に似たそれをくるりと回し、彼女は再度肉薄する。
「……ッッ!!」
鋭く銀がひらめき、カームの頬を掠めた。ちりりとした痛みを感じる間もなく、さらに連撃を浴びせてくる。円を描くように切りつけてきたと思えば、途端に鋭い突きを繰り出す。変幻自在なナイフ捌きに、カームは背に冷たいものが流れるのを感じた。
腕を、眼を、胸を、腹を、腿を、薙いで、切って、突いて、刺して。
カームはそれらをすべて紙一重で避けているが、狭い宿屋の部屋の中ではかわし続けるにも限界がある。しかももう就寝しようかという頃合だったので、カームは帯剣していない。ベッドの上に置いていた剣を取るには襲撃者に背を見せなければならず、そんな隙を見せられるほどこの娘は甘くはない。
舌打ちをして、カームは賭けに出た。
このままではどうせいつか逃げ場を失い、殺される。ならば。
後ろ手でテーブル上に置かれていた水差しを探り当て、カームはそれを引っ掴むなり娘へと投げつけた。
「!?」
ほとんど顔の筋肉を動かすことのなかった娘に、初めて表情らしい表情が浮かんだ。すなわち、驚きと困惑。その変化は微かなもので、すぐに消し去られる程度のものだったが、それは確かに娘の隙となった。
水差し自体は軽く避けたものの、中身までは流石に避けきれず、頭から冷水を被ることとなった娘は一瞬怯んだかのように動きを止めたが、すぐにカームへと銀色の帯を走らせる。彼が寝巻き代わりにしている簡素なシャツの左脇腹が裂かれ、遅れて僅かに血を滲ませた。
ぐっ、と歯を食いしばったカームは、突進してきた娘の勢いを利用し、彼女とおのれの位置を入れ替える。ベッドはすぐそこだが、ちょっと手を伸ばした程度で届く位置に、剣はない。右手をチェストについて娘と向き合ったカームは目を剥いた。
娘が、睫毛の本数を数えられそうなほど近くまで迫ってきている。
「ルミナスの、聖騎士――――死んで、ね」
そして、凶悪なまでの刃金の一閃がカームに向かい――――
彼の喉を切り裂くことなく、止められた。
「……っ!?」
今度こそはっきりと表情を驚きと困惑に染めた娘に、カームはにやりと笑ってやる。
「結構、切りにくいだろ? 濡れた布ってよ……!」
洗濯したての綿のタオルは、水差しから零れた水をしっかり吸い込み、ぽたりと雫を落としていた。
両手で広げてナイフの一撃を受け止めたカームは、そのままタオルをぐるりと巻きつけ、絡め取る。娘が反射的にナイフを引くが、その力に逆らわず肉迫し、そのまま床へ押さえ込んだ。ごっ、という音は娘がしたたかに頭を打ち付けた音だろうが、気遣ってやる理由も、余裕もない。
「……さあ、観念しな。ここまでだ」
娘はあがく様子も見せずに、口の端を歪めて笑うカームを見つめる。
「……任務失敗」
そしてぽつりと呟くや否や、娘は顔の横で縫いとめられていた左手をわずかに動かす。そこには針とも見紛うような、細い細いナイフが逆手に握られていた。
「おいッ!?」
艶消しの黒に塗られたそのナイフは、髪の中に隠していたのだろう。手首を切りつけられて押さえつける力が緩んだ瞬間を逃さず、娘は左腕を大きく振ってカームの腕を払いのけた。凶器を持った腕が一本、完全に自由になる。
そのまま目の辺りを薙ぐように切りつけられて、カームは思わずもう一本の腕からも手を離してしまう。
娘はするりとカームの下から抜け出し、一歩後ろへ飛び退って膝を着いた。
まだ諦めないのか。すっと腹の底が冷えたが、娘はナイフをカームには向けず――――その切っ先を自分自身に走らせる。
「やめッ――――」
咄嗟のことだった。考える間もなく身体は動き、カームの拳が娘の水月を正確に突いた。持ち手の意思を失ったナイフは同時に行き場も失い、からんと乾いた音を立てて床に転がる。つい今さっきまでカームに恐怖を抱かせていた武器とは思えないほど、それはただの金属片だった。
悪い、と心中で謝りつつ、カームは倒れこんでくる娘を受け止め、そのままみずからも重力に従い仰向けに寝転ぶ。どくどくと心臓が血を送り出す音が五月蝿くて堪らない。
「……なん、だっていうんだ、畜生」
カームはこれでも教国の聖騎士である。敬虔な信者とは云い難いが、ほとんど初対面の女に殺されかかるほど品行に問題があるつもりはない。
「……どうすっかな……」
密命を受けている中で襲撃されたのでは、堂々と表沙汰にすることは不可能である。しかし教国に戻るわけにも行かず、さりとて何の詮議もせぬままに殺してしまうことも出来ない。無罪放免など論外である。
騒音を聞きつけたか、ようやくカームの名を呼びながら走ってくる友人たちの声と足音が響いた。
「…………どうすっかなァ……」
とりあえず、一番最初の問題は、ニートになんと云ってこの傷を癒してもらうかだ。