天兎⑤
街の中心からやや北に上った辺りに、俺の通う高校はある。駅からも十分近い立地のため、遠方から電車で通う生徒も少なくない。この時間、校門付近は登校する生徒でいっぱいになる。
ただ、こういう場において俺は、少しだけ敬遠されていた。視線を向けても、あまり関わりたくなさそうに目を逸らす生徒がほとんどだ。今年になって入学した一年生たちからは、かすかに噂話が聞こえることもある。
「あ、あの人じゃない? 二年にいる不良って……」
「宮東紫苑ね。中学の頃から街中でよく喧嘩しててさ。今はおとなしくなったって聞いたけど……俺、一回見たことあるんだよね。駅の裏路地で七、八人相手に全員殴り倒してて」
「え、じゃあ警察常連って話も本当なのかな。うちの中学では、先輩が病院に送られた、みたいな話も聞いたけど」
しかしまあ、この手の陰口にはもう慣れた。俺が入学した一年前から既にあったものだし、だいたいの噂話は聞くたびに尾ひれが増えていた。そして、わざわざ本人がそれを訂正して回ったところで意味はないのだということも、そのうちにだんだんと理解した。
だいいち、基本的には根も葉もない噂でも、その根本の部分にはやはり真実が混じっている。俺は確かに、世間で言うところの不良だった。学校もろくに行かず、昼夜問わず喧嘩をするくらいには荒れていたのだ。もちろん今はもうそんなことはないし、全ては過去の話になった。それでも、昔の汚名というのは、なかなか拭えないものらしい。
俺は周囲の会話も視線も無視して早足で校門をくぐり、二年の昇降口へと向かった。そうしていつもこの辺りで、前方に固定していた視界を左右に巡らせ始める。変わらず煙たがるように顔を背ける人もいるが、別に気にならない。俺が探しているのは一人だけだ。
靴を履き替え、廊下、階段を経て教室に辿り着く。室内へ入ろうと扉に手を伸ばしかけたところで、それは突然、独りでに開いた。
「これは、申し訳ありません」
偶然にも一人の女生徒と鉢合わせになる。俺は少しだけ驚いた。その女生徒こそが、俺がここまで探していた相手だったからだ。
同時に教室の中が一瞬だけ静止した。皆の視線が俺の方へと集まる。普段なら、その視線は俺への警戒。横目でこっそりと向けられて、俺が着席すると徐々に散っていくはずのものなのだが、この場合は少し違った。警戒に加えて少しの好奇、さらに彼女への心配が含まれている。
しかし彼女は、そんなことをまったく気にかけることなく言った。
「おはようございます。宮東さんでしたか」
「あ、ああ……おはよう」
一歩下がって、礼儀正しく朝の挨拶。美しいソプラノの声が耳に心地良い。背は俺よりも頭一つ分ほど低く、黒目がちの大きな瞳が印象的な女の子。その瞳と同じ、真っ黒で艶のあるミディアムヘアが肩上で切り揃えられている。
名を、月見里紅音という。変わった苗字で人目を集め、かつ本人が清楚で可愛らしい容姿をしているためか、男女問わずに人気がある。品行方正でやや硬い話し方に反して親しみやすい性格というギャップが好評らしい。
「ついさきほど数学の先生が教室にいらして、今日までの課題のプリントを、教科担当の生徒が集めておくようにと残していかれました」
「そう、なのか」
「はい。数学の担当は宮東さんでしたよね。せっかくなので、私も今、渡しておきます」
彼女は揺れるスカートを翻して席へと戻る。
俺は少しだけ離れてそのあとに続き、通路を挟んで斜め後ろ、窓際の自席に鞄を置いた。
「一番後ろの空いている席の上に集めて、休み時間に持っていかれるのがよいかと思います」
「わかった。そうするよ」
プリントを受け取った際、少しだけ触れた指先に、俺の心臓が跳ねた。
彼女は最後に「では、お願いしますね」と丁寧に告げて教室を出ていく。
たぶん、教室にいるクラスメイトの大半がこちらを見ていて、今、俺と同様に沈黙していた。
俺は受け取ったプリントに鞄から取り出した自分のものを重ね、一番後ろの空席に置くと
「えっと、じゃあみんな、適当にここに重ねておいてくれ。昼休みに持っていくから」
と誰にともなく向かって言った。
集まっていた視線は一度散る。しかし彼らは依然、一律に会話の声量を落とし、意識の端でこちらの様子を窺っていた。
まあ、その気持ちはよくわかる。彼らが気にしているのは俺と、そして今回においては、月見里紅音だ。彼女が俺に対してあまりにも自然に接する光景は、二年進級に際して生まれたこの新しいクラスにおいて、未だ馴染めない光景らしい。彼女はいったい、どうして俺に関わろうとするのだろう。彼女だって俺の噂は知っているだろうに。きっと誰もがそう思っている。
でも、皆がわからないように、俺にもその理由はわからないのだ。
普通、評判の悪い奴の傍にいれば、自分も悪く思われてしまう。そういった悪い評価というものはとかく伝染しやすい世の中だ。だから誰しも、色々なものを見て見ぬ振りする。
しかし彼女に限ってはこれが反対で、どんな相手にも分け隔てなく接する姿が、さらに評価されるという結果になっている。いつも人に囲まれていながら、そんな他人に流されることなく、しっかりと自分を持っている。それがまた彼女の魅力として、彼女の周りに人を集める。一部ではその溢れんばかりの人望を讃え、聖人だ聖女だと囃し立てる人たちもいるくらいだ。
俺は席に座って頬杖をつきながら彼女の出ていった方を眺め、ただ授業が始まるのを待った。