天兎②
落ち着いた頃に時刻を見ると、午前十時だった。目を覚ましたのはもっとずっと早かったはずだが、気づいてみればこの時間だ。
気を取り直して遅い朝食を摂ろうとしたところで、しかしほとんど空っぽの冷蔵庫に出くわしてしまう。当然、放っておいても誰かが買い足してくれるわけではないので、俺は渋々、近所の商店街へと足を向けた。
覗く晴れ間が、アスファルトに薄い雲の影を浮き上がらせる。その影の部分だけを選んでゆっくりと進む。商店街までは歩いて十分くらい。もう少し足を伸ばして駅まで向かえば、すこぶる現代的な街並みの中で買い物ができるが、食料や日用品だけなら商店街で十分だ。おそらくこれは、俺のようにこの街の駅から東側に住む人間であれば、皆が持っている感覚だろう。
一方、駅から西側の住人は、日常的に駅で買い物をする。古くから居を構える人間が多く、したがって街としての機能も一通り揃っている東側に対し、新しく山々を切り開いて作られた新興住宅地の西側には極端に住居だけが建ち並んでいる。豪華な戸建てや大きなマンションはたくさんあるが、商店、行政、医療などの機関は全て駅でご利用くださいといった造りなのだ。
このため、同じ街ではあっても自然と東西の分かれが生じる。単なる街の構造上の分裂が、人の心理にまで及ぶというのはいささかくだらない話だが、実際、気にする人は意外に多い。
俺は商店街に着いてから、まずは基本的な買い物を済ませる。そして今日は、最後に一軒だけ、馴染みのない店を探した。ペットショップだ。
目的はもちろん、あいつの食料を買うためである。
そう、あいつ――いや、出がけにちゃんと呼び名を決めたんだった。
今朝、彼女を客として――あるいは居候としてかもしれないけれど――家におくことになってから、二、三、会話をしただけで気づいた。呼び名が無いのは非常に不便だと。
そこで俺が名前を尋ねたところ、奴はなんと
「名前? ■■よ」
と答えたのだ。
ちなみに、俺には聞き取れない謎の言語の瞬間には、またご丁寧に頭痛が走った。
彼女曰く、これは月に住む天兎たちの間で用いられている統一言語というものらしい。一つひとつの発音に含まれている情報量が極めて多いために、人間の脳がそれを処理しきれず痛みを引き起こすのかもしれない、とかなんとか説明された。
とにもかくにも、聞き取れもしなければ呼べもしない名前に意味はない。痛みの抜けた頭を押さえて、俺は彼女に言ったのだ。
「ひとまず、お前の呼び名は俺が決める」
「ふぅん。いいけど、なんて呼ぶの?」
「そうだな……」
俺は顎に手を添え、思いついたことをそのまま口にした。
「シロ」
瞬間、彼女の澄ました顔からさーっと表情が消えていった。哀れむような、呆れたような……まるで俺の中の何かを疑うようなじとっとした半眼。それは非常に、気の失せた顔だった。
同時に後ろ足を一回、タンッと床に打ち付ける。
ちょくちょく彼女が見せるこの、後ろ足で床を鳴らす行為。こっそりスマホで調べたところ、スタンピングという兎の習性の一つだそうだ。仲間に危険を知らせたり、不快感を表したりする意図があるらしいが、この場合はもちろん後者。要するに名前が気に食わなかったとみえる。
「ま、まあ……白兎だからシロじゃあ、あんまりに安直だよな」
そうは言うものの、名前などだいたいが外見や雰囲気から決めるものではないのだろうか。とりあえずもう少しだけ考えようと、今一度まじまじ彼女を見つめ直す。すると、どこまでも白い肌や髪以外に、青く鮮やかな着物と、もう一箇所、俺の注意を引く部位があった。
眼だ。今はちょっとだけ不機嫌な様子で俺を見つめているその、空のような――蒼い瞳。
「あ、アオ……とか」
小さく呟いただけのつもりだったが、自らの命名をじっと待っていた彼女には、それがしっかりと聞こえたらしい。気の利いた名前でない自覚はある。相変わらず晴れない彼女の表情からもそれは読みとれる。しかしやがて、彼女は諦めたように「はぁ」と漏らし、緊張を緩めた。
「……ま、そんでいいわ。今のあたしは、あんたに拾われた身の上だしね。飼い主の名付けに文句はないわ」
「はは……その妥協に感謝するよ、アオ」
「はいはい」
見送りに表に出てきたはずの彼女は、俺が出発する際に「いってらっしゃい」ではなく「あんたの名付けの才には、そこはかとない絶望を感じたけどね」と言った。
そんなわけで、ここでの彼女の名前は『アオ』と相なった。
俺は向こう数日分の食料と、アオのためのラビットフードを購入して帰路に着いた。
残念なことに、アオはラビットフードを食べなかった。粒状のそれらを一つだけ指で摘み上げて口へと運んだが、咀嚼した途端に複雑な表情を呈し、苦労して飲み込んだのちにはボソッと「……いらない」と言った。
ならばと思って、俺が自分で用意した昼食の中から野菜炒めを一部取り分けて出してみると
「うん。初めて食べたけど、味はいいわね」
と意外にも喜んで食べ始めた。どうやら味覚は人間寄りらしい。
それからアオはゆっくりと時間をかけて皿の上の半分ほどを食し、やがて満足げに帯の上から腹を押さえた。座敷の机を挟んだ俺の正面で、身体を反って足を崩す。
俺は手早く自分の分を平らげてから箸を置き、皿を重ねて一息ついた。
「で、味はいいが、何が不満なんだ?」
アオは「ん?」とこちらへ視線を向ける。
「ああ……ごめんね。そういう意味じゃ、なかったんだけど」
「別に気にしたわけじゃないけど。そうじゃなくて、お前はあくまで兎なんだよな? じゃあ、人間の飯食って、身体に何かあったら困るだろう。食えないものとかあるのか?」
よく、犬や猫にネギ類やチョコレートなんかを与えてはいけないという話は聞く。たぶん兎にだってそういうものはあるだろう。この野菜炒めについては、あれば自分で避けただろうが。
俺がそうやって真面目に考えていたにもかかわらず、反った身体を起こしたアオは、意味深に口の端を上げて八重歯を覗かせた。
「ふぅん? 何よあんた、随分と優しいじゃない。自分で名前なんか付けたもんだから、早速あたしに情が湧いちゃった?」
「抜かせ」
心配して損した。戯言は斬って捨てる。
俺が無言で先を促すと、アオは残った野菜炒めを見ながら話し始めた。
「いや、ね。美味しいと思ったのは本当よ。でも、これには月の光がほとんど宿ってないの」
「月の光?」
「そうよ。あんたたち人間にとっての空気や水、ひいてはそこから得る養分のように、生きるために欠かせない生命力のほとんどを、あたしたち兎は月から得てる。より正確には、月の地表にある特殊な物質が太陽光に溶けて、その光をあたしたちが浴びることで生命力に変換できるんだけど、その物質ってのはこの地よりも月の方に極めて多くて……」
「お、おい。待て待て、待ってくれ。それはまた、何かの冗談か?」
唐突に滔々と語り始めたアオの口上。俺は面食らいながらも、ひとまずそれに制止をかける。いきなりではとても頭がついていかない。
対して、気分よく口を動かしていたらしいアオは軽く俺を睨んだ。
「ちょっと紫苑。戯言であろうとなかろうと、まず他者の話は最後まで聞くものよ。それと、今のあたしの話の中に、笑えるところが一つでもあったかしら?」
「いや……なかったけど」
「なら、全部真面目な話に決まってるでしょ!」
「でもお前」
「うるさい。とにかくあたしに喋らせて!」
……俺の話も聞いてくれ。
「要するにね。あたしたち兎は、月の光を浴びることで生きてるの。そして、あたしたちはその月の光から得られる生命力のことを『ユエ』って呼んでる」
「……ユエ?」
「そ。あんたたちの言語でもっとも近い発音をすればね。これがあるから、あたしたちは月で生きられるし、もっと言えば、その恩恵を一番近くで享受できる月に、好んで住んでるの」
なるほど。月に住んでいれば月の光を――地表に反射した太陽光を、一番近くで効率的に浴びることができる。例えるならそれは、アスファルトの照り返しのように。
「万物には、大なり小なりこのユエが宿っている。そこらの草木にも石や岩にも、こうした食物にも……もちろん、あんたたち人間にもね」
「俺たちにも?」
「そうよ」
アオはそこで、残したはずの野菜炒めを再度、少量箸で摘んで口へと運んだ。よく見れば綺麗に人参だけを避けるようにして……って、こいつ兎のくせに人参嫌いなのか。
「まあそうは言っても、この地上は、月からは随分遠い。だから基本的に、人間の持つユエは極めて小さい。到底意識なんてできないくらいにね。一方であたしたち兎は、そのユエを重要な生命の根源として大きく発達させたってわけ」
味はいい、と評された俺の野菜炒め。アオは相変わらずそれをちょびちょびと食べていくが、なくなる気配はないので俺も横からつつくことにする。適当に摘むと、アオの避けた人参ばかりが釣れてムッとなった。
「全てのものにユエは宿っている……だからこの野菜炒めにも、いや、元となった食材にもユエはある。けど、その量がものすごく少なかった、ってことか?」
「その通りね」
つまり、アオのこの野菜炒めへの感想をより正確にするなら「味はいい。が、ユエの摂取はできない」か。
俺とアオは、まるでそういう機械になったかのように、ちょびちょびちょびちょび野菜炒めを食している。空腹だからではなく、たぶん手慰み、口慰みとして。
やがてアオは、人参率の上がった皿に嫌気が差したのか、勢いよく立ち上がって言った。
「賢い紫苑。もうあたしの言いたいことがわかったでしょう? あたしはね、月の光をいっぱいに浴びたものが食べたい!」