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月に兎がおりまして  作者: りずべす
參、 笑み、嘆く
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笑み、嘆く⑥

 翌日、目が覚めたのは午後二時だった。約十一時間の睡眠。寝すぎたせいか少し頭が痛い。

 今日は土曜だ。けれども近くに置いてあったスマホには、午前七時にアラームの鳴った形跡があった。そうだ。今日は確か、近々行われる期末試験のための特別授業があったのだ。忘れないようアラームを設定していたのだが、昨夜のアオの騒動で全部頭から抜けてしまっていた。

 繰り返し時刻を確認するが、やはり二時。もう今更、行っても手遅れだろう。

 スマホを捨てて立ち上がると、さきほどまで俺が突っ伏していたベッドの隅の方で、アオが丸くなっているのが見えた。相変わらず朝には人の姿になっているから目のやり場に困る。四方に流れる銀髪、白い鎖骨に太腿、尻と尻尾まで……。ただ、布団をかけ直してやる際には、深い寝息で身体を上下させているのがわかった。とりあえずは生きているようで何よりだ。

 俺は寝ているアオを起こさないよう静かに部屋をあとにし、最低限の家事を済ませた。

 近頃は救急箱の中身が露骨に減る。一度買い足しておく必要があるかもしれない。そんなことを考えているうちに日が暮れたので、夕食を作って居間で食べた。

 自分の分を片付けてから、アオの分の食事を盆に乗せて部屋へと持っていく。起き上がれるかどうか、食べられるかどうかはわからないが、駄目元だ。

 ――なんて、思っていたのだが。

 扉を開けると、意外にもアオは既に起きていた。ベッドにはおらず、新しい着物に身を包み、窓際のフローリングに直に座っていたのだ。壁にもたれ、片足を緩く投げ出し、首を後ろに傾けて……ぼーっと空を眺めている。

「……起きて大丈夫なのか、お前。怪我は」

 そう尋ねると、彼女は表情一つ動かさずに答えた。

「ああ……もう平気。傷はあらかた塞がったわ」

「は? 嘘つけ。あの大怪我で、そんなにすぐに」

「見る?」

 特に俺をからかおうとするわけでもなく、いきなり襟をはだけられて驚く。着物の下から露わになったアオの脇腹を、視界に入れる直前で俺は目を逸らした。

「い、いや……いいよ。見せなくて」

 まあ、本人が平気と言うなら平気なのだろう。傷の治りは人間よりも早いらしい。どちらかといえば、その羞恥心の欠落を直してほしい気もするが。

「今更、何照れてんの。昨日、手当てをしてくれたときには散々見たんでしょう?」

「み、見てない! 見たけど見てない!」

 だいいち、手当のときは兎姿だった。見たけど見てないのは今朝だ。

「ふふっ……何よ、それ。顔が赤いわよ」

 アオの笑みはまだ少し淡白で元気がないが、それでも俺はいくらかホッとした。食事をテーブルに乗せて座ると窓から月が見える。その逆光が彼女の姿を照らしている。最近の中では珍しいよく晴れた月夜で、その光だけで室内は十分に明るく、電灯をつける必要はなかった。

 警戒を解いているのか、人の姿の彼女の頭からは折れた長耳がヒョコっと飛び出していて、それが目の前の光景の非現実性を強調している。

 しんと静まった空気の中、アオが小さな声で呟いた。

「……派手に失敗しちゃったわねぇ」

 独り言のつもりだったのかもしれないが、聞こえたのに反応しないのも変だと思った。

「……まったくだ。さすがに限度ってもんがあるだろ。無茶しすぎだ」

「そうね。いい加減、飼い主の忠告は聞いとこうかしら」

「そうだぞ。儀式の遣いで来て、満月待ってるんだろう? そんなんじゃ、いつまでもつかわかりゃしない。死んじまったら本末転倒じゃないか」

「うん……」

 俺の忠告に対し、アオはなぜかそこで露骨に語尾を濁した。確か、以前もだ。以前も、こんな話をしたら妙に薄い応答をされた。

 その理由を考えて黙っていた俺に、アオはゆっくりと振り向く。

「そっか。あんた気付いてないのか。満月は……今夜よ」

「え?」

 言われて知る。そうだったのか、と。なんとなくもうすぐだという認識はあったが、まさか今夜とは思っていなかった。太陽暦で生きる現代日本人にとって、月の満ち欠けは風流ではあっても生活の基準ではない。今、夜空に浮かぶ月は確かに円いが、それが真に満月かどうかは、そういう類のカレンダーを見ないことには判断し辛いものがある。

 しかし、今夜が満月なら――。

「じゃあ、やらなきゃいけないんじゃないのか。儀式の……えっと、燭台に火を灯すんだよな?」

 けれどもアオの口から出た言葉は、俺の思い描くものと正反対だった。

「いいえ、何もしなくていいわ。あたしが灯詞の儀の遣いで地上へ来たっていうの……あれ、嘘だから」

「は!? だってお前、言ってたじゃないか。それが役目だって。じじいも、俺に月読人とかいうのを任すって」

「そうね。あの病院での話はほとんど真実よ。天兎のことも、あたしの母さんのことも、菫司の言ったことも……。ただ、あたしが灯詞の儀の遣いで地上へ来たってこと以外は」

「なんだよ、それ。意味がわからない。じゃあお前、なんで……」

 なんで月から地上へ来たのか。当然、そんな疑問が湧いてくる。困惑の表情を浮かべる俺に、アオはさらりと答えた。

「あたしは……逃げてきたの。あの月から」

 ……逃げてきた?

「ど、どうして」

「母さんが、殺されたから」

「……え?」

 それは想像もしない答えだった。アオの口調がこうも淡々としているのが、不思議なほどに。

「あんたたち人間の御伽噺に出てくるかぐや姫は、もうこの世にはいないわ。誰よりも白く気高く、そして強く、多くのユエを宿していた母さんは、けれど奸計によって殺された。あたしの目の前で、自らの血にその身を沈めた」

「……奸計?」

「そう。くだらないはかりごとよ。母さんは、無理にあたしを助けようとさえしなければ、そこらの三下に命を取られるような兎じゃあなかったけど」

 アオは言いながら目を細め、再び夜空の満月を仰いだ。そうしてぽつりと言った。「あの月は、天兎の世界は……腐ってるのよ」と。

「月で生きる限り、多くのユエに満たされている限り、あたしたち天兎に寿命の概念はない。そして日々多くの新たな命が、より白い命が、より多くのユエを持った命が、神に祝福されると信じて生まれてくる。にも関わらず、月に生きる天兎の数が増えることはない。ねぇ紫苑、それがなんでか……あんたにわかる?」

 尋ねられ、俺は考える。日々新しい命が生まれる。でも人間の場合は、その生に寿命という限りがある。だから人口が一様に増えるということはない。

 いや、違う。必ずしも寿命でなくても、人間はある程度生きたら様々な理由で死んでしまう。それが答えだ。生まれるのに増えないのは、同じだけ死ぬからだ。

 アオは横目で俺の顔を見、答えの共有ができたことを得心する。

「特に天兎の場合はね、だいたいが殺されて死ぬの。むしろ寿命がない分だけ、人間よりも厄介よ。一度上に立った者が居座り続ける。地位、力、権益、権威……それらを手にし、自分の都合のいいように世界を動かそうとする者が、その際限のない欲望を『教えのため』という大義で覆って、同胞を殺め続けている。あの白い世界で生まれ、その手を本当の意味で白いまま保っている者はほとんどいない。誰の手もおぞましく、真っ赤に染まってる。地上から眺めれば麗しい月も、実態はそんな世界」

 聞いて、思う。それはなんとあまりに、苛烈な世界だろうか。そしてアオは間違いなく、その苛烈な世界の、犠牲になった側だろう。

 にも関わらず、彼女の声はなぜ、これほどに落ち着いているのか。

「母さんは、そんな月の世界に強く異を唱えていたわ。特に、その社会構造の礎となっている天兎の教えに。だからね、よく母さんは言っていたのよ。『多くのユエを持つこと』と『白い容姿を持つこと』は関係がない。そこに神と月の祝福は関係ないって」

「関係ない……のか?」

「さぁ? 知らない。だけど、あたしもなんとなく思っていたわ。神様なんて所詮、この世にはいないんだって。じゃなかったら、こんなにもこの手からすり抜けていくものばかりを、悪戯に与えられたりはしないものね」

 アオの口元がわずかに動いて、変わらず抑揚のない声を発する。その口の端が、いつからだろう、少しだけ引き上がっている。

 嗤っているのだ。

 見上げるあの月の世界をだろうか。それともここにいる自分をだろうか。いつもの八重歯を覗かせるような気持ちのいい笑顔ではなく、ほとんど泣いているようにさえ思える表情。

「それに実際、あたしは母さんみたいにこの上なく白くあっても、多くのユエを宿していない。実のところね、あたしの宿しているユエは、普通の天兎と比べても、かなり少ないのよ」

「え……なんで……」

 少ない? 俺は疑問を抱きながら、アオのユエについて思い出す。

 例えば地兎五匹を相手に戦ったとき。例えば俺の訓練に立ち会っていたとき。いずれも彼女のユエは、強く光り輝いていたはずだが。

「あんたの前では、ちょっと見栄張ってただけ。最初に地兎を散らしたときは、手鏡を一つ丸ごと使ったでしょ。それに、あんたに月影をもらってからは、ほとんどそこに貯めたユエを借りているにすぎないわ」

 言いながらアオは、緩慢な手つきで袖の袂から手鏡を一つ取り出した。パカっと開くと、そこにもう一つの満月が生まれたかのように鏡面が輝き、アオの身体にユエが吸い込まれていく。反対に、鏡面の方はユエが抜けた分だけ燻んだ。ユエの貯蔵量が減ったしるしなのだろう。

 アオはしばらくかけていくらかのユエを取り込み、やがてまた手鏡を閉じて袖にしまった。

「つまるところ、教えに照らせば、あたしは天兎の摂理に反した存在――はっきり言って劣等種。だからたぶん母さんの言葉は、そんなあたしを、慰めるためのものだったのよ」

「……だとしても、お前の母さんはお前のことを、否定したくなかったってことだよな」

 ユエを持って生まれてしまったことで両親に見放された俺とは、対照的な境遇だ。アオの言う通り、もし神様がいるのなら、こんな皮肉な行き違いは起こらないのかもしれない。

「はは……それはそれは、実に麗しき母の愛ね。ま、あたしも大昔は、そんな言葉に救われたことがあったわ。母さんの言葉があたしを肯定した。その言葉が真実であってほしいと願った」

 乾いた声で彼女は笑う。静かに、嘆くように笑う。

「でもね、あたしは思うの。母さんは自分を偽ってでも、天兎の世界に異を唱えるべきではなかった。群から弾き出されるのは、獣にとっては死と同義だから。そして実際に母さんは死んで……もうそれ以上、あたしが一匹、月で生きるのは難しかったでしょう。月から逃れるように、表向き、灯詞の儀の遣いとなって……母さんの残した言葉に従ってこの街へ来た」

 一匹……か。

「……ずっと気になってたんだけど……お前、父親はいないのか」

「いないこともないわ。父さんと、それと姉さんがいるみたい」

「みたいって……なんだよ」

「あたしは会ったことがないのよ。その昔、母さんが月に移る際に生き別れたって聞いたけど……まあ、よくは知らない。母さんも、あんまりその話はしなかったし」

 じゃあ、アオは今、本当に独りなのだ。帰る場所も、頼る相手もいない。寂しくても、その叫びを誰にも聞いてもらえない――孤独なのだ。

「……ねぇ、紫苑」アオは長い耳を力なく垂らし、今にも空気に溶けてしまいそうな声で俺を呼んだ。「あたし本当はね……満月なんて来てほしくはなかったわ。ここであんたと過ごすのが心地良かった。ずっと終わってほしくなかった。だからどうかこの先も、あたしをここにおいてほしい。あたしとここで、静かに暮らしていくのはどう?」

 顔や肩にかかる髪を払うことなく、その隙間からまるで縋るような弱々しい瞳を俺に向ける。

「考えたのよ。あたし、あんたのこと好きになれると思う。好きになっていけると思うの。だから、つがいになりましょう? ほら、人間から見ても、あたしの容姿は十分に美しいはずじゃない。あんたに、あたしのこと好きになって……あたしのこと、抱いてほしいな」

 アオは確かに、誰の目から見ても美しい。今、彼女の過去を知り、その上で見る彼女の虚ろな表情は、響く声は……背筋が凍りつくほどの凄艶さを孕んでいる。

「天兎ってね、月では永遠に生きられても、月の光の乏しい地上では、せいぜい人間と同じ程度の寿命しかないの。でもそれも、あんたと生きる上では、むしろ好都合でしょう? ここであんたと一緒に生きて、老いて、朽ちて、そして……一緒に死んでいきたいの」

 頭上から降る冷たい月光が、彼女の顔に黒い影を落としている。その顔に浮かぶ表情に、落ちた影よりも濃い悲愴が見え隠れする。

「月になんて、住めなくていい。たいそうな感動も胸躍る波乱も、何も要らない。平坦でささやかな幸せがあるだけの日々……それのどこがいけないの。ただ誰かが傍にいて、孤独の波に攫われることのない平穏。それさえが、あればいい」

 宙を見るようだった彼女の瞳が、そのときふっと、もう一度俺への焦点を結んだ。彼女はまるで壊れてしまったかのように淡々と、しかし饒舌に話し続ける。

「ここであんたのくれた食事は、ここであんたとともにした寝床は、あたしのこれまでの生で間違いなく、もっとも暖かいものだったわ。ねぇ、あんたの目に、今のあたしはどう見える? 不憫で、哀れで、可哀想で……でもだからこそ、たまらなく愛おしいでしょう? そんなあたしの言ってほしい言葉が……紫苑、わかる?」

 俺はもはや、彼女の顔を見ていることができなかった。その姿はあまりにも痛々しくて、彼女の中に渦巻く悲壮が、十分すぎるほど俺に波及した。

 長い長い年月を生き、積もり積もったやり場のない怒りと悲しみ。そうした激しい感情から濾過されて残った寂しさだけが、今の彼女の胸を埋め尽くしている。混じり気のない、他の感情を全て飲み込んでしまうほどの無垢な孤独……それが彼女の闇だ。そんな深い闇の中で、彼女は俺の言葉を待っていた。彼女の望む、俺の言葉を待っていた。

 でも俺は……答えられない。今の彼女の想いに……俺は……。

 音にしようとする言葉が、喉元まで上がってきては、形にならずにまた沈んでいく。そんな逡巡を何度も繰り返しているうち、アオの薄く笑ったような声が聞こえた。

「……いえ、やっぱり兎と人は別の生き物。相容れないのが宿命よね」

「そ……そういうわけじゃ、ない。ここには、お前がいたいだけいたらいい。ただ……」

「いいわ。ごめん、あんたを困らせたいわけじゃなかったの。言ってみただけよ。全部忘れて」

 なんで笑える? なんで今まで、笑えてた? いっそ思いきり泣けた方が、楽になるかもしれないのに……。

 でも、そんなことを俺が訊いていいはずはなくて。中途半端に踏み込んでいわけがなくて。

 だから何も言えない。

「……飯、あるぞ」

 結局、俺はテーブルの盆を見ながらそんな言葉を並べることしかできず

「ごめんね。今日は……要らない」

 ガラス玉のように抜けた瞳で月を見るアオの返事を最後に部屋を出た。

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